星野あざみ短編集
夢想





黒い大きな馬車が通り過ぎて行った。
それは葬列の馬車だった。蹄鉄の固い音の響きが、僕の胸に遠い記憶を思い起こさせた。

人の魂は朽ちても、街は変わらずそこに在る。たとえ僕の存在が消えても、この世の営みは何一つ変わることはない。
苔生した建物や石段は何も言わない。
ほつほつと灯る街灯の明かりは今日もまた行き交う者達の淋しい影を映すだろう。あの頃と変わらずに……。

見上げた空は肌寒く、僕は少し上着の襟を立てて歩いた。その靴音が規則正しくリズムを刻む。僕は花屋で小さな花束を買った。そうして、薄い灰白色の雲に覆われた空の下、石造の街を歩いた。今となっては、決して辿り着くことのない昔……輝いていた……。オーロラ、君の足跡を求めて……。

風の噂に君を聞いた。
軽く咳き込んだような空の上で落ち葉がゆっくりと舞っている。広大な敷地のその墓地に、僕の魂は眠らない。ミューズは微かに君の面影を宿していた。
名も知らぬ少女達が僕の墓の前に花を手向けた。祈りの言葉は愛を模索し、
僕は震える指先で墓の上の文字をなぞった。

風に揺れる竪琴のように、響いて来る君の記憶……。
それを留め、埋葬するには、あまりにもその存在が大き過ぎて、僕は僕でいられなくなってしまう。
もう一度……。
出会ってはいけない存在だと知りながら、僕はまだ諦め切れないでいた。

今、こうしている間にも、君の命はどんどん蝕まれているだろう。
そして、その傍らには、僕でない者がいて、その者のために君は微笑みを向けるのか。君の心の中にはもう、僕の存在の欠片さえ残っていないのかもしれない。君が突きつけた絶縁状は、永遠に僕達を別ってしまった……。

けれど僕は信じていた。やがて時間が二人の関係を修復してくれるだろうと……。たとえ、君が僕を嫌っても、僕は永遠に君のものになると忠誠を誓える。そのために捧げた愛の調べ……。けれどもう、それを告白する機会も失った。僕の手は、もうそれを表現する術を持たない。僕はただ凡庸な一つの魂に過ぎなかった……。

頭上で鳴く鳥の声は嗄れて哀しい。奏でることができない心で、君を抱くことなどできない。
君の心から消えてしまった僕の姿を、君の鏡は映すことを拒むだろう。
もしも僕がこのまま何もできず、君に触れることさえ許されないのなら、僕はどうして生まれて来たのだろう。
あまりに強いその思いが、僕の心臓を傷付けて、息が止まりそうになる。

都会の空気はざらついて、石の礫を撒き散らし、車輪の下で轢かれて行った小さな思いのことなどお構いなしに駆け去って行く……。

あれは昔……。
降りしきる雨の中、君を乗せた幻想の馬車が僕の目の前を通り過ぎた……。
「待って!」
霧に霞むその馬車を追って、僕は南へ向かった。


君と過ごした幾つもの夏……。
その明るい緑が、吹き抜ける風が、僕の中に湧き上がる熱情となって君を目指した。

田舎に近づくにつれ、空も緑もその明るさを増して行った。僕はまるであの頃に戻って来たような錯覚を覚えた。しかし、ここは都会とは違う。何一つ変わらないように見えて、実は、何一つ同じではない。そこに生えている木も草も、去年のそれとは違うのだ。ましてや何十年も昔のそれではなくなっている。彼らはこの土地に根付き、呼吸をし、雨水を吸ってこの地に同化して来た。そして、幾世代をも超えて同じように花を咲かせ、実を結んで来たのだ。
それは去年の物と変わらぬように見えて、まるで違う個体の種から芽生えた新たな命に他ならなかった。

君と歩いた森の小道。
若木は育って枝を張り、風にそよいで木陰を編んだ。二人で過ごした花園も赤い実の茂みもそのままに、僕は森のずっと奥へ続く道を歩いた。

二人で刻んだ永遠の愛の証……。
その老木を探して……。そんな僕のあとを追って、小さな動物達が遠巻きにして見つめている。鳥は警戒するように空高く飛び、侵入者の僕を恐れて冷たく鳴いた。
そして、青い空は、遠い記憶を映す鏡のように僕の心を残酷に曝した。

「どうして……?」
老木は折れていた。冬の嵐か雷か、もう何年も前に枯れてしまったのだろう。そこに掘られたイニシャルも記憶の中の綴りも、もはや読み解くことは困難だった。時が褪せて風化して行くように、思い出もこんな風にやがては消えてしまうのだろうか。だとしたら、もう君の中にいた筈の僕の記憶も、今頃はもうすっかり風化して、塵のように消えてしまっているかもしれない。

ならば何故、今になって思い出した。
僕はもうあの時の僕ではなくなってしまったというのに……。恐らく君は、僕を見ても、それが僕だと気づかないだろう。たとえ、それを言葉で説明したとしても、現実主義者の君は信じてくれないだろうと思う。

ならば何故、僕は今ここにいるのか。焼けつくような痛みが僕の胸を貫いて、僕はただ黙って佇んでいた。

いっそ思い出さなければよかった。もしくはここに来なければ……。ここは何もかも明る過ぎる。水も空気も澄み切っていて、邪な思いなどまるで入る隙がなかった。

君を独り占めしたかった僕の思いなど、君は多分気づきもしなかったのだろう。いや、あえて気づこうとしなかった。博愛主義者だった君らしい選択だったと今は思う。けど……。風が思い出を運び、僕は頭の中で記憶を再現した。今更それを消すことなどできなかった。

「会いたい……」
今すぐ君に……。

結果として、悲しみに打ちのめされ、苦痛に喘ぎながら暗い湖の底に沈んだとしても……。僕は君にどうしても……。
「会いたい……!」
樹液を吸う虫のように、僕は思い出の甘い蜜を吸ってすっかり中毒になっていた。


黄昏に染まるその風景の中に、君はあの日と同じように佇んでいた。大きなヒマラヤ杉の根元に立った僕は同じように、君の透き通った遅れ毛に反射する淡い金色の光を見つめていた。

「オーロラ……」
僕はその黄金色の光の中へ両手を伸ばした。触れることのできないその奇跡へと……。おお、僕の憧れの人……。夢見た頃と変わらずに、君は異彩を放っている。年老いても尚、彼女は美しく、病人とは思えないほど、その頬は艶々と輝いていた。花の蕾を思わせるその唇も、強気な視線のその瞳も昔と何も変わらない。そして、君が愛したこの館も……。
オーロラ……。

僕は今すぐ飛び出して、彼女を抱き締め、その唇にキスしたかった。が、そこに現れた品のいい紳士が、彼女に上着を羽織らせて、家の中へ誘って行った。一瞬だけ振り向いた彼女の視線が僕を捉えた。夕日の中でその頬に光る一本の道筋……。彼女は気づいただろうか。それとも、夕暮れの木漏れ日に透けるただの幻だと思っただろうか。彼女は振り返らなかった。

「オーロラ……」
咽ぶような土と草花の匂い……。思い出が点々と落ちている庭。風はゆっくりとそれらを巡って、僕の足元へ戻って来る。

「こんなにも近くにいたんだ。なのに……」
僕は何もできなかった。喉の奥に繰り返し流れ込んで来る海と同じ味のする液体を、ただじっと噛み締めているばかりだった。


月光は心を照らす深淵の極み。
サロンには、昔と同じように芸術家の人々が集っていた。ソプラノ歌手が歌い、若い音楽家がハープを奏で、詩人が自らの詩を朗読した。談笑する人々の中心には、いつも君がいて、ゆったりとした微笑を浮かべて聞いている。しかし、そこに僕が見知った者はいなかった。だから、僕は回廊を通って大きな石段を上った。

扉を開けると、そこは静かな月の光に満たされていた。
昔の時間がそこにあった。けれど、部屋に一歩足を踏み入れた時、僕は知った。この館はもう彼女のものだ。ここに僕の居場所はないのだと……。

「どうして……?」
この場所だけが変わっていた。壁紙も絨毯も置物も……。二人の記念にと飾った品も何もかも……。思い出は時と共に葬り去られてしまった。
憎んでいたのか? この僕を……。
だから、僕がいた痕跡を、すべて消し去ったというのか。
僕はまだこんなにも君を忘れられずにいるというのに……。
僕にとってこんなにも君がすべてなのに……。

――愛しているわ

闇の中でマリオネットがアリアを歌う。
「愛してる」
だけど、悲しみに満ちたその声は、僕の耳には聞こえない。そして、君の心に伝える術さえも、僕には未だ見つからない。それでも人形の僕は叫び続ける。
「愛してる。愛してる。愛してる! 誰よりも……!」

――もしも、もう一度生まれ変わることができたなら……

空耳が繰り返す。

――今度こそ、私達は信じ合える恋人になれるかもしれない

「今度こそ……?」
生まれて来るのが早過ぎた。次はもっとゆっくりと眠るよ。だからもう一度、君をこの手で抱き締めたい……。忘れないように……。たとえ何度生まれ変わろうと、君の魂を感じることができるように……。

「誰?」
不意に背後で声がした。僕は驚いて窓際に寄った。彼女が翳した蜀台の明かりに照らされて、僕達は真正面から目が合った。

「あなた、日暮れにヒマラヤ杉の影にいたでしょう?」
「……」
「そこで何をしているの?」
「別に何も……。僕はただ忘れ物を届けに来たんです」
「忘れ物? 私はあなたを知らないのだけれど……」
「僕はフランソワです。ずっと昔にこの館へ呼ばれたことがあります」
「そう……」
彼女は素っ気なく応えるとそのまま部屋を出て行こうとした。

「待って!」
思わず呼び止めた僕の声は微かに震えていた。
「他にも何か?」
「人を呼ばなくていいのですか? 僕は黙ってこの館に忍び込んだのですよ」
「何故?」
温かな炎の陰影が、君の表情に深みを与えた。
「僕は盗賊で、あなたを襲う悪い男かもしれないのですよ」
「でも、あなたは違う。そうでしょう?」
彼女が言った。僕は思わず頷いて、それからじっと彼女を見つめた。柔らかな光の中で君は僅かに首を巡らし、部屋の奥を見つめた。かつてピアノが置かれていたその場所を……。

「フランソワ。あなたがこの館の客だと言うなら、どうぞくつろいでいらして……。私は先に就寝させてもらうけれど、サロンにはまだ何人かの人達がいる筈だから……」
そうして君は再び僕に背中を向けた。が、歩み出す前に小さな声で呟いた。
「フランソワ……。懐かしい名前……」

「その人のことが好きだったんですか?」
思い切って僕は訊いた。君は微かに頷いて言った。
「そうね。好きだったわ。でも……もう昔のことよ。それに、向こうへ逝ったら謝るわ。喧嘩別れしたままじゃいやだから……」
「喧嘩?」
「今でも私は悪くないと思ってる。でも、少しだけ誤解があったことがわかったから……。その部分だけでも詫びておこうと思って……。でも、許してくれないかもしれないわね」
慈愛に満ちた横顔に細い毛髪の影が揺れる。

「彼は多分許してくれると思いますよ。いや、そんなこと、もう忘れてしまっているかもしれない……」
「そうかしら?」
「そうですよ。きっとね」
僕の胸の中で、ずっと蟠っていた固いしこりが溶けて行くのを感じた。


僕はその夜、誰もいなくなったサロンでピアノを弾いた。
誰に聴かせるでもない僕自身のための惜別の曲。
そして、それは君のために彼が作った最後の曲でもあった。それを彼女はベッドの中で聞いたという。そして、黙って涙を流していたと……。もうそれだけで十分だった。僕は僕の中にあった拘りを捨て、僕自身のために生きる。


教会の鐘の音が澄んだ空に鳴り響いた。
美しい庭園で眠る君の墓に、僕はそっと花を手向けた。

――もしも、もう一度生まれ変わったなら……

頭の中であの歌が響いた。
「もう一度君と巡り合うために、僕はこの生を生きる」
そして、次にはきっと……。

あれほど鮮明だった君の記憶は、日を追うごとに薄れ、今ではもうすっかり霧の向こうに霞んでしまった。しかし、そこに君という鮮烈な輝きを持った女性がいたということは決して忘れないだろう。そして、その人と僕とは結ばれし運命の元に生まれて来る魂の片割れなのだということも……。

緩やかに止まった馬車から下りて来たのは彼女の娘夫婦だった。
「あなたは母のお知り合いですか?」
墓の前で会釈した僕に彼女が話し掛けて来た。
「ええ。昔、とても世話になった者です。そして、あなたにも……。だから、一言お礼が言いたくて……。でも、もうこれっきりにします。さようなら」
僕は彼女達とすれ違いにその場所をあとにした。そして、僕は今、僕が在るべき場所に帰ろうと思う。

アデュウ。
僕の大切な人……。
そして、永遠なるピアノへの賛歌と共に……。