星野あざみ短編集
UZUSHIO





雨が降っていた。アスファルトに叩きつけられた雨粒は淡い飛沫となって散り、再び足元に淀んだ水に溶けて流れとなる。
普段は感じない土とそこに根付いた緑の匂い……。コンクリートに固められた無機質な街にこれほどの自然が埋没していたのだということを、弓月梓(ゆづき あずさ)ははじめて知った。

少年はもう30分近くもそこにいた。止まらないバスを待って……。止まらない時間の停留所に立ち、じっと空を眺めていた。
雨はもう10日も降り続いている。何処かのダムが決壊し、土砂崩れが起きて甚大な被害を出したと朝のニュースが報じていた。ここではダムの心配はなかったが、飲みこみきれなくなった水が下水から溢れ、そこここで大きな水たまりを作っていた。

「いつまで降るんだろう……」
梓が呟く。さっきからバスはもう何台も通り過ぎて行った。が、どのバスもぎゅうぎゅう詰めの乗客を乗せ、彼の前を通り過ぎて行ってしまう。

未来岬へはバスで1時間40分。歩いて行ける距離ではなかった。いや、正確にはそこに歩いて行くことはできなかった。バスで行く方法以外、誰もその行き方を知らなかったからだ。
地図にない街。その突端にある未来岬。そこから出る船に誰もが乗ろうとしているのだ。
(23時26分発、大空経由光桟橋・都行き最終便……)
彼はポケットの中のチケットを何度も確かめると強く握った。

(どれほど望んでいたことか。僕はずっと前からこのチケットが欲しかった……)
だが、それは今、まぎれもなく梓の手の中にある。
(希望を掴んだ)
彼は興奮していた。ずっと望んでいたことが、まさしく今叶おうとしているのだ。

「でも……」
彼の前にバスは来なかった。日はもうとっぷりと暮れている。しかし、暗くなった空に星はない。道路沿いの外灯が異様に明るさを増しただけだ。
梓はふと腕時計を見た。7時40分。出航までにはまだ間があった。が、彼は何処かそわそわとして落ち着かない。

(まさかもうみんな先に行ってしまったんじゃないだろうか)
唐突に過ぎる不安。
「いいや、ちがう……」
彼は唇を噛み、拳を握った。
「……湿気のせいだ。いつまでも止もうとしないこの雨のせい……」

クラクションが鳴った。モノクロームの静寂の景色にいきなり暖色の光が灯った。そんな気がした。行き交う車がことごとく少年を無視して過ぎる中で、その車だけが梓を捉えた。白い車体が滑るように彼の前に止まり、すーっとウインドーが降りた。

「もう、バスは来ないよ」
運転席の男が言った。
「え?」
梓は小さな声を出した。男は降りしきる雨のような銀色の髪をしていた。瞳は透けるようなブルーだ。

「未来岬へ行くんだろう? 乗せて行くよ」
男が言った。
「でも……」
梓は考えた。未来岬へ行く道を知る者は誰もいないと聞いていたからだ。ここを通る車は皆、その先の角を曲がって都心へ向かうか、隣接するリゾートへ遊戯に向かう者達ばかりだ。未来岬へ行くのは唯一、あの銀色のバスだけの筈だ。

「私はそこで働いている。怪しい者ではないよ」
男が言った。それでもまだ梓が距離を置こうとしているので、彼は胸ポケットから名刺を出して見せた。そこにはエイドリアン 守谷という名前と共にZIGENコーポレーション取締役社長と書かれていた。

「信じられないかな?」
じっとその名刺を見つめたまま黙っている梓に男が訊いた。
「……信じます」
そう言って梓は車に乗り込んだ。

ずっと憧れていた。未来岬に行って、あの船に乗りたいと彼はずっと幼いころから願っていたのだ。運命を、確定されてしまった未来を変えるために……。
(そうだ。ここでいつ来るかもしれないバスを待つよりはこの人に同行させてもらった方がいい)
梓は彼を、エイドリアンを信じることにした。

車の中は乾いていた。そこに梓の湿度が加わる。ガラス一枚で隔てられた外には横なぐりの雨……雨……雨……。雨が降る。降り続く。雨粒はガラスにぶつかり流れて行く……。落下するよりも早く弾ける早さで、流れ星のように夜の闇にしじまを作る。

「すっかり濡れてしまったね」
エイドリアンが言った。
「すみません。あの……」
びしょ濡れの傘からはしずくが落ち、梓の身体に含んだ湿気が車の中の空気に水分を与えた。

「君はずっと待っていたの?」
少年が頷く。男の手がさり気なく梓の手に触れた。
「いけないな。身体がすっかり冷えてしまっている」
瞬間、梓はそこに流れる渦潮を感じた。
(ウズシオ……)
それまで感じたことのない疼きを……。
「ん……?」
エイドリアンの瞳の中に透けるブルー……。ただそれだけのことなのに、何故か梓の鼓動は高鳴った。

その先の三叉路で、車は右にも左にも曲がらず真ん中の道を進む。コンクリートで覆われた灰色の街。そこに煙る過去の時間……。軟弱な地盤とあやふやな記憶。そこに建つ建物もまた柔らかな土砂のようにゆっくりと崩れて行く……。そしてまたその記憶も……。流されて行く……。この雨のように……。

「梓……」
男が言った。
「どうして僕の名……」
少年は驚いてその顔を見つめる。
「過去に会ったことがある」
エイドリアンが言った。しかし、少年にはそんな記憶はまるでない。
「どうして……?」
少年がそう問うた時、車が停車した。しかし、そこはまだ目的地ではない。道路には他に走っている車もない。ただ降りしきる雨がアスファルトに打ちつけているだけだ。

「土砂崩れだ」
静かな口調で男が言った。
「土砂崩れ? でも……」
周囲には何も変わった様子はない。暗いコンクリートの街に雨が降っているだけだ。しかし、男は言った。
「ここにいては危険だ。車を捨ててあの建物の上に行こう」
訳もわからず、梓は男の指示に従ってドアを開くと彼のあとに続いた。

「一体何があったんですか?」
ビルの階段を上がりながら梓が訊いた。
「ダムが決壊した」
「決壊?」
「ここはもうすぐ水の底に沈む」
「沈む?」
納得がいかなかった。梓が知る限り、この辺りにそんなダムはない。ここは高いビルに囲まれた狭間の街なのだ。どんなに急いだとしても、郊外に出るまでには車でたっぷり1時間は掛かるだろう。しかし、車が走り出してからはまだ、ほんの数分も経っていなかった。が、エイドリアンは真剣な顔で告げた。

「次元のダムが決壊したんだ」
「次元の……?」
梓は意味が掴めずにいた。が、男は懐から取り出した懐中時計を眺めると顔を顰めた。
「限界だ。もうすぐ沈むよ、この街は……。だからその前に君を迎えに来た。さあ、早く乗りなさい。これは私の船だ」
そう言うと男は扉を開いた。

「船?」
唖然としている彼の前に広がる不可思議な紋様。
「ここは一体……」
浮いている感じはしなかった。が、立っているという感覚もない。そこには床や壁といった隔たりがなかった。淡く発光したその空間にははっきりとした色の感覚もない。それでも不安を感じることはなかった。むしろ少年にとっては懐かしく、母の胎内に抱かれているようなやさしささえ感じた。

「梓……」
名前を呼ばれた。が、もはやそれが本当に自分の名前だったのかさえも怪しい気がした。何もかもが損なわれ、何もかもがそこにある。そんな感覚だった。そして、熱い渦潮が身体の中から湧き上がり、その中心を貫いた。

――ああ ああ ああ……

遠い記憶が甦る。
(僕は昔一つだった……)
その巨大な渦潮に巻かれ、彼の過ごした時間が巻き込まれて行く……。

――ああ ああ ああ……

街が拉げ、高いビルも電波塔も何もかもがぐにゃりと曲がり、道路が溶けて絡みつく……。瓶の中には赤ん坊。悲しい瞳で笑っている。砂のような時間が散ってガラスの淵にへばり付く。

――梓

誰かが呼んだ。
「梓……」
それは確かな声だった。微かに開いた唇の隙間から熱い吐息が漏れている。

「梓」
灼熱の光が心を焼いた。握った手が真実を求め、絡みつく身体が互いを欲し、欲望のままに愛を貪る。
指先には密やかな蜜の香り……。その先端で光る夢。
少年は知っていた。満たされるものの正体と満たされないものを埋める手段を……。そして、その細胞の一つ一つが透けるブルーに溶けて行く……。

「僕達は昔一つだった……」
少年が言った。
「そう。一つだった」
影のように男が言った。
「そしてまた、僕はここへ還って来た」
「そう。次元を越えて飛ぶ異次元船の中へ……」

光……。その乱反射する記憶を辿り、彼らは互いを認識する。
「あなたは僕で」
「君は私だ」
そうして二人溶けあって互いの記憶を共有し、渦潮の中に落ちて行った……。

「ウズシオ……」
少年が言った。
眼前に広がる海は無数の意識の集合体。それが重なり、ひしめき合って巨大な銀河の渦を作る。
それが世界を構成し、歴史を作る指標となる。

「あの人達はどうなったのだろう……」
船の上から無数の渦潮を見降ろして梓が言った。
「岬を目指していた人々は……」
彼らもまた船に乗りたがっていた。が、ここにその者達の影はない。

「仕方がなかったんだ」
エイドリアンが言った。
「綻びを起こした歴史を修正するためには……」
時空の海を漂う船の舳先は、常に変化し、その行く先は、必ずしも未来とは限らない。

「ずっとチケットが欲しかった。でも、どうして僕はそれを手に入れることができたんだろう?」
梓がふとそんな疑問を口にした。
「君ははじめから持っていたんだ」
「はじめから?」
少年が男を見上げる。
「そう。君は歴史を修復するためにあの時代に落とされた」
「落とされた?」
「そう。歴史の渦の底に……」

「薄れ行く記憶の波を追って梓は目を瞑り、頭の中に去来する渦の記憶を追った。
「そして、君は立派に役割を果たして帰還した」
「思い出せない……」
両親、友達、先生、そして……。
(とても大切だったもの……)
空白のまま心に広がる白いページ。
「約束……?」

――あれは何? 光……?

あの日の空を覆った光……。
少女の形をした影……。

「ヒカリ……」
その頬に反射する記憶……。船の座標を表した光点が幾つも手のひらを過ぎる。
「約束したんだ。あの子と……」
(なのに、君の名前が思い出せない……)
今、一つの渦潮が消滅し、同時に一つの渦潮が生まれる。調整された明るさの中で、悲しみは繰り返す。

「痛みはなかったのだろうか?」
スクリーンを見ている少年の呟きに男が応える。
「痛みも苦しみも何もなかった……。時代は消滅し、悲惨な事実は歴史から抹消された」
「それじゃ、もう僕のことも忘れてしまった?」
男が頷く。
「……!」
「梓……」
エイドリアンが少年の涙を拭う。

「悲しみは感じなかった筈だ。君達は一度死んでいるのだから……」
「死んでいる……?」
少年の問いにエイドリアンが頷く。
「愚かしい人間が投下した光によって74銀河は消滅した……」
人々は何も知らず、魂だけが自分達は生きていると信じ、渦の隙間に構築した幻の街で生き続けた……。
「だから、消さなければならなかった」
男の手の甲を濡らした少年の涙が反射する。

「光……?」
梓は思い出した。その少女の名前を……。
(光……。きらめく光の中の少女……)

――梓、ずっと傍にいてね
――約束するよ。未来岬へ行こう。そして、二人で永遠の船に乗るんだ

「約束……」
異次元船は今日も旅する。そして、誰も知らない所で、今も誰かが歴史の綻びを修復しているかもしれない。

「梓、君を探し当てるのに10年掛かってしまった。あとほんの少し遅ければ、本当に渦潮全体が崩壊していたかもしれない」
男が言った。
「それが次元のダムの崩壊?」
「そうだ。今回は予想よりも早く歴史が狂わされてしまったせいで有り得ない事態に巻き込まれ、時空が歪んでしまったんだ。それで、君の救出が遅れ、事態は最悪の結果を招くところだった」
「最悪は防げたと言うの? あれほどの命を犠牲にして……」
「そうしなければもっと大勢の、いや、渦潮全体が消滅することにもなりかねなかった。被害は最小限に抑えたんだ」

「そんな理屈いくら唱えても光は還って来ない……。一度失われてしまった命に対しては、何を持ってきたとしてもその埋め草にはならない!」
梓は拳を握った。
「それが私達の仕事なんだ。異次元船に乗る者の使命だ。一つの時代に深入りするのはよせ。悲しむのはおまえだ」
「わかった……」
少年は俯く。

「では出航するぞ。次の次元へ」
「了解」
(それでも、僕は諦めないだろう。また新たな次元に於いて、永遠の君を探すことを……)
そうして、渦潮の波を越えて異次元船はまた新たな渦潮へ向けてワープした。