鱗手オキル短編集
ふまじめ





しかし、と言って君は逡巡した。けれど彼はやめなかった。必死の言葉は切れなかった。彼はもう君の行為の是非をさえ問うまいという態度で、個人的感情までぜんぶ吐き出すことを選んだ。弱くはない語気。強くない論理武装。多少言葉の荒っぽくなるのも恐れない調子。真摯さが君に届くと信じて。

そして僕は彼と君を見ていた。

やっぱり君はまじめだった。だから、おろおろと彼の目を見てはまたうつむいて、何か言おう言おうとしていた。見つからない良い返事。僕は内容を聞かずに、ただ彼と君を見ていた。まだ彼はやめなかった。彼もまたまじめだった。だから今、こうして胸詰まらせて何か言っているんだ。その声に少し喘ぐような哀しい響きを聞いた。それでも僕はその内容を拾わなかった。僕はふまじめだった。時計の針がいっこうに動かないように見えるのを気にしながら、それでも席は立たなかった。僕は無気力だ。手のしわを見て、やりすごしていた。彼の声の抑揚が波のように引いては寄せてくるのを聞いた。

自分の爪の赤いのが気になった。僕の血は燃えてるのかな。冷えてるのかな。指を屈伸させると何だか嫌な感じがした。何もない、机の下のうす明るい闇で、僕の指はてらてらとして見えた。気だるさから逃れたくて、何か意志を決めるみたいにぎゅっと拳を作った。まだ嫌な感じが残る。まるでそこにあった何か柔らかい生き物の頭を潰してしまったような感じが。顔を上げた。やはり彼は涙ぐんでいた。僕は無感動だったけれど、意識の先端だけがピンととがった。雨が降っているな、と思った。

僕は、ねえ雨が、と言った。彼は黙ってしまった。
気まずいんだね、と僕は歯の裏でつぶやいた。気まずくなってしまったんだね、たぶん。
こういうことがあるから、黙るって大事なことなんだね。

腑に落ちた。僕と最近、どうしようもないことばかり繰り返していた。たとえば、言い過ぎることだ。天気予報のスキャットがかかった時、僕は君に言った。ゆううつだ、と。君は呆れたように微かに笑って言った――降水確率なんて当てになるか。そこにはちょっとした掛け違いがある気がした。でも、僕はそれがどんな掛け違いなのか、吟味することを怠った。僕は空を眺めながら、ゆううつに未来は関係ない、とだけ言って、君を苛立たせて楽しんだ。黙ることをせず。そういう小さな怠慢が積もりに積もって、なぜだか君までが、僕といっしょに叱られている。おかしいね。僕は黙ればよかったんだね。

もっと昔はどうだったろう。黄色い鞄を乱暴に振り回しながら家に帰っていた頃。心の不思議を考え始めた頃。気分には実は何かの周期があって、心の中で目印をつけておけばどこかでまたそっくりな気分の変奏に出くわすのではないかと僕は思いつく。ゆううつな雨の日は何度もやってくる。その一つ一つがかけがえもなくちがっているなんてその時の僕には信じられない。

僕は心に目印を置いて待った。そっくり同じの雨の日が二度くる。三度くる。けれど、僕の気分はどうしてもある日の雨に追いつかなかった。ある日の僕の完璧なゆううつは帰ってこなかった。僕はもう、その日の出来事を哀しめなくなっていた。その日の出来事を嫌がれなくなっていた。その日、激しく泣いた後に雨とともに降りてきたゆううつの感じが、ちっともわからなくなっていた。ゆううつって、どこまでも今にしかないものだ。ゆううつって、過去も未来も持たないものなんだ。

そして今、君と彼の、めんどうだけれど気の利いたやり取りに立ち会って、僕は椅子に座りながら、ああそういうことなんだ、と今思った。黙ればよかったんだろ。ねえ僕は、ずっと黙っていればよかったんだろ。そうすれば、君たちは君たちのゆううつを未来に過去に追いやったままでいられるんだ。もしかすると僕も僕のゆううつをこじらせることなく、誰も殺さず、何も奪わずに、未来に向かって生きていける。いつも君たちが言っていることって、「未来へ向かって」って、つまりはこういうことだったんだね。

すごくつまらないんだね。すごくつまらないからこそ、大切にするんだね。僕はもういい加減、君や彼のことをわかりたいが、それはあまりに難しかったんだよ。一大事にもかかわらず、この修羅場にすっかり無感動になってしまって、無気力になってしまって、僕はちょっと笑ってみたよ。

笑ったつもりだった。
でも頬はぴくりともしない。

けれど、何やら人のまじめさを嘲っている感じだけは少しばかり君たちに伝わって、彼の方は涙ぐむのも馬鹿らしくなってしまったらしい。僕はふまじめだった。そう言っていいと思う。

だけど、ねえ本当はさ、僕はさっき雨が降っていることなんて気がつきもしなかったんだよ。気がつかないくらい、外のことはどうでもよかったんじゃないかな。彼は演説していた。僕はそれを聞いていた。内容をしっかりと拾って、しっかりと考えていたんだ。まじめだった。これまでで一番まじめな僕だったんだよ。ねえ雨が、なんて僕は言わなかったよ。もっと別の、まじめなことを言っていたんだよ。きっと。――何だか言い訳みたいだね。きっとすごくふまじめだから、僕の目は言い訳までするんだね。

一体、僕も彼も君も、何がしたいんだろう。わからない。――ねえ雨が、激しくなってきたよ。ゆううつだ。彼は椅子に座り直して、ぐったりとうなだれた。君はまじめだった。何か言いかけて、やっぱりまだ言葉を選んで黙ってしまった。指先が冷えていた。すっかり冷えてしまっていた。嫌な感じはもうなかった。完璧な。僕はふとそんな形容詞を思い浮かべた。つづく名詞はなかった。

僕のゆううつは、とても不完全な感じであの日のことを再現した。雨を吸った黒い服の黒さが、僕の目の中で歪に滲んだ。制服だったっけ。制服しか黒い服が無かったもの。――僕は。そう心の中で呟いた。とてもゆううつになってしまった僕は、未来にいる君たちに、過去にいる人たちに、もう届かなくなってしまった僕は、何かセンテンスを作ろうと思った。僕は。その言葉だけが今ここに宙に浮かんでいた。思い浮かべてから妙な間が出来てしまって、もうその試みは嫌になった。

彼は僕を見ていた。君も僕を見ていた。

僕はとりあえず彼らに申し訳ないと思おうとした。それだけでは誠意がないから、心の底からと付け足しておいた。今の僕には、彼らの言葉がすんなりと頭の中に入ってきそうだったけれど、彼らは黙ってしまっていた。途方に暮れた。君は目を少し震わせて、僕に見えていない僕の表情から、何かを読んでくれた。一体どこまで。わからない。

雨か。そう言った。傘は持ってるかい。

僕は応えることが何だか妙に恐ろしくなった。どこまで深く君は僕を理解しているか。でもやっぱり、そんな風には訊かずにおいた。傘は持ってこなかったよ。僕はふまじめだから。