鱗手オキル短編集
えいぶる





虚ろにひびく音色を聞く。人の呼び声か、それとも鳥の声か。判然としないのは、彼自身の意識がまだ朦朧としているからだ。だるかった。すひあは散漫な心を持て余しながら、何も見てはいなかった。感覚が戻ってくるのをただじっと待っていた。
記憶が不鮮明だった。思い出の断片が迸っては消える。その一つ一つは霞みがかかっている。しかし、その全体は――その集合は――彼にはしっかりと見えていた。一個の森のように。不思議な感覚だ。いわば彼は自身の過去を一つの面に敷き詰めるようにして、離れた視点から見ていた。集合として彼の現在を作っているそれら。しかし、どれを取り出してみても、個別なものとしては全く愛着が感じられない。興味さえない。

やがて、すひあは自身の感受性がゆっくりと回復してくるのに気がついた。彼は横たわる自分というものを感じた。それに、蒸し暑い。涼しげな青い空の下で、彼は渇きを覚えた。しかし、腕が上がらない。寝返りもできない。腰から下がずしりと重かった。
なぜか……。
そこに、「他人」がいたからだ。オブジェのようにじっと動かず、その体重で彼を拘束する、「他人」。彼はだんだんと恐ろしくなった。視界が少しばかり震えた。開いたばかりのまぶた。「他人」は笑っているようだった。肩を震わせる影はどこか動物的だった。

次に戻った感覚は、痛みと痺れだった。左の脇腹。彼の白い脇腹へ、その皮膚と肉の狭間へ、「他人」が――その身体の末端が――しきりに出入りしていた。他人? とにかくも、その生きた異物の末端が、透けるような瑞々しい赤色をしているのを、彼は視認した。
(何だ、こいつは)
動悸が早まる。彼はだんだんと意識を研ぎ澄まし、前より強く「他人」を感じた。その末端とはどうやら舌らしい。まだ癒えていない彼の傷口を執拗に舐めていた。少年はぞっとした。胸に熱いものがこみ上げた。腕に懸命に力を込めて、半身を起こそうとする。
と、「他人」が何やら吠えた。舌以外の部分が突然のように動き出し、彼の上半身を抑え込んだ。「他人」の腕、「他人」の筋肉が、彼には灼熱のように感じられた。

(や・め・ろ)
彼は唇で訴えた。
(や・め・て・く・れ……)

太陽を雲が覆った。白く巨大な入道が通り過ぎるまでには、鳥の声が一段と大きくなっていた。ついに「他人」はその舌を離し、ぬるく柔らかい息を無遠慮に彼に吐きかけた。いやに植物的な匂いがした。すひあとそれの体格差は、思ったほど大きなものではない。それは、彼よりひとまわり肩幅のあるその体躯を起こすと、喉で笑った。その時だ。
「誰?」
ようやくすひあの声も回復した。
「誰だ!」
それはひどく弱い語気だったが、相手には伝わったようだ。そいつは、顔を少年の顔にぐっと近づけた。それは驚くほど人間の顔に近かった。
「えいぶる」
そう名乗った声は、低くない音程だが、低く抑えた調子である。
「怖がるなよ、坊や」

えいぶる――と名乗るそいつは、目を細めて少年を見下ろしていた。
「わたしは、怪しい者、ではない。坊やが血肉をさらして転がっていたものだから、舐めてやっただけだ。私の唾液を塗り込んだ。もう修復も終わる頃だろう」
そう言って、口元を汚す赤い血をぬぐう。高圧的な目。生々しい裸の肌。少年は言葉を返したかった。が、やっと発した声はたった一言だ。
「君は……」
と、その時。えいぶるの体重がふっとなくなった。人並み外れた軽やかさで、そいつは立ち上がった。むき出していたはずの皮膚はいつの間にか黒い布に覆われ、異様な生き物を思わせた。すひあは目眩を感じた。君は、と唇が反復した。

「おまえとは違う時間を生きる者だ」

と、その姿は闇が太陽光に喰われたように消失した。彼は動くようになった手で、耳を塞いだ。はげしい旋回の感覚。こめかみの奥で騒音の海が揺れている。エコー。彼は喘いだ。何かとてつもなく深い潮に引きずられているように孤独だった。溺れそうになった。彼は苦し紛れに手を伸ばした。そして、触れた。彼の腕はエコーの潮を抜けていた。
瞬間、彼は酔った。世界が幾重にも存在する様子を透徹する、擬似全知の感覚。エコーの一層一層が、一寸の狂いなく彼の知覚の獲物となっている。彼は咄嗟に思う。その場所は、行ってはいけないところだ。立ってはいけない地点だ。――彼は離れた。その場所から、どこまでもどこまで離れていった。おびただしい数の空気の層をくぐり抜けて。

と、その時。ドスンと地に投げ出されたかのような心地がした。
「しっかりしろ! しっかりしろ!」
聞き覚えのある声。
「すひあ……」
父の声だ、と彼は思った。
「目を開けてくれ!」
男の悲痛な叫びが、耳の殻を破って脳に忍び込んだかのように、彼の記憶にアクセスした。気がつくと彼は、道路の上で人々に囲まれていた。そうだった。彼は知った。自分はずっとここにいたのだ。身体は世界になじんでいる。五感も整っている。
「目を……」
「目を開いた!」
「生きてるぞ!」
人々の興奮をよそに、彼はひとり酔ったような目で青い空を見ていた。やがて、今日という日の正しい記憶を、スライドショウのように思い出していた。

そうだった。彼は死んだはずだった。
事故に遭ったのだ。脇腹を轢かれた。すひあは父とともに、都市の中枢に越してきたばかりだった。前衛的な建築のならぶ銀灰色の摩天楼。舗装されたばかりの青く美しい十字路。彼は慣れない都会を見上げながら、父の隣を歩いていた。
不幸にも、彼は信号機の故障に気がつかなかった。生身の少年と鋼鉄の車体はまっこうから激突し、跳ね飛ばされた少年の身体は、大型車の下へと消えた。
それからの先のことは、父に訊いたことだ。彼のひどい出血のさまに誰もが絶望していたその時、異様なことが起きた。ほんの一瞬のことだ。まるで人々の合間を縫うようにして、黒衣の幽霊が現れ、少年に口づけた。

「えいぶる……」
少年は喉の奥でつぶやいた。病院のベッドの上。
「ん、何か言ったかい?」
父は少年の顔を覗き込んだ。すひあは首を振った。
「何でもない。それで、幽霊がどうしたって?」
「口づけた……ように見えただけだ。みんな驚きで息を飲んで、一瞬何が起きたかわからなかった。けれど、その女は瞬きする間にもう消えていた。それも皆が見てる前でだ」
すひあは黙っていた。父は、心なしか青い顔でこう付け足した。
「俺はあの時、あの女を死神かと思ったんだ。ぞっとしたね、ぞっとした」
女? その表現にすひあは微かな違和感を感じた。

「その人、どんな姿してた?」
瞳を微かに震わせて神妙に尋ねる息子に、父は言った。
「もう夜も遅いし、こんな話はよそう。とにかく、今は体を大事にするんだ。おまえの傷が大したことなくて、よかった。本当に……」
父に手を握られながら、少年はむりやり目を閉じた。

その晩。彼は苦しんだ。せわしなく胸を駆ける熱い蒸気のようなものを、何とか飲みくだそうと努力した。カーテンの隙間からのぞく都会の夜は暗い。時計の針の音だけがうら寂しく鳴っていた。すひあははじめて知る感情に胸を痛めていた。恐れに似ていた。しかし、その感情にうまく言葉をあてがうことが、彼には出来なかった。彼はあの夢のことを思った。
あの女という父の言葉は、彼の記憶にゆっくりと馴染んでいった。
頭まで布団にくるまって、彼は背中の下の地球が急に激しく動き出しでもするかのような不安を、振り払おうとした。やがて、睡魔が彼の平衡感覚を安定させた頃、えいぶるが女であったことを、彼はその時やっと発見したように思った。あるいは、そうであったかのように、何か強い力を持ったこの世界の言葉が、彼の記憶を抜かりなく再構成していくのを感じていた。