鱗手オキル短編集
俺とあの男





あの男だよ、話してたのは。奴は酒場というのを嫌ってる。酒というとすぐに下衆なものと決めてかかる。煙草や恋話も同様だ。それ以外に関しちゃ、すぐれた遊びのセンスもありながら、冗談にもならない偏見持ちだ。それがときどき惜しまれる。
かといって決してストイックな男でもないんだ。楽器なんかは遊びが過ぎるほどいじくってる。バイオリンの腰に手をあてて、弾くのも忘れてデートした同じ日に、異様に長いキスでピッコロと浮気するのさ。言ってみれば、それが奴の唯一良いとこだよ。
ついでに都会人だ。たいそう疲れ知らずだね。疲れた奴はすぐに緑やら癒しやらを欲しがるが、奴には縁のない話だ。たぶん、田園風景にデジャヴュを感じることもない。だから、自分の街の悪口もろくに言えない。そんな奴だ。

昨晩、ずいぶん話した。俺の家だった。奴は客だった。奴はいかにもミステリでも読みそうな一癖ある顔をしているくせ、推理小説は嫌いだそうだ。物語のラスト間近に司法ってのが絡むようなやつが特に厭だそうだ。俺たちは話した。切っ掛けは思い出せない。俺たちのトークにはろくに始まりめいたものも、切りのいい終わりもないからだ。

奴はまとまりのない話をとりとめもなくする。かといって飽きさせない。こいつは物語調の気の利いた話はあまりしない。一方、俺は俗人だから美談ってのが好きだ。誇張があろうが気にしない、話し手の狙いに素直に乗っかる、そんな人間だ。だから趣味は決して合わぬのに、なぜ奴の話など何時間も聞いていたのか、不思議だ。
奴の話のひとつは怪談だった。アーバンマイス風の体験談だ。
嫌いだね、こういうのは。俺もなかなか人がいいので、頬杖に使った右手の指をいたずらに屈伸しながら笑い、へへっブルッちまうぜ、と褒めてやった。ついでに話の内容なんだが、そいつは俺もよく知っている裏通りに出るというモンスターの話だ。奴は「モンスター」なんて馬鹿げた言い回しはしなかったが、要約するとそういうことらしい。

奴の大真面目な話しっぷりに俺は大層満足した。が、人が死んだの、酔っ払いが見たの、はては警察も動いているのと、裏付けのネタもきちんと充実したまことに立派な怪談だったので、むしろ笑ってしまったくらいだ。笑うといってもケラケラやったわけじゃない。ついでに言うと奴を笑ったわけでもない。むしろ見習わせたい口下手な輩を随分知っていて、そいつらの陳腐なトークを思い出したら何だかおかしかったのだ。
そう、奴の話ってのは内容は別にどうでもいいんだ。話しっぷりが糞真面目で面白い。

つまりはこうだ。総じて俺は奴を好いている。人が何と言おうが、あのキャラクターはなかなか面白いので、できることなら四六時中からかってやりたいもんだ。だが、実に面倒臭いことに身体の方が、奴は男めいていて俺は女めいているから、あることないこと言う虫けらの目に気をつけねばならないのが大変骨が折れる。おまけに俺は惚れっぽいと思われている。そして、それはたぶん事実に反する。むしろ人間全般を諦めているから、気楽な態度を取るだけさ。それが浮気っぽく生きているように見えるってんなら、そいつは買いかぶりってもんだ。
あの男は自分の仕入れてきた都市伝説が、俺にとって何の役にも立たないだろうことをいちいち確認する。君にはどうでもいいことだろうが、なんていちいち前置いたり、無駄話をしてしまったな、なんて付け足したりする。俺は、おうよ、と答えるだけ。

俺は奴を恋人と思うのはやめている。だが、友達というのも随分味気ない言い方なので、何か他にいい言葉はないかと考えてるうちに、とうとう半年経っちまった。奴はどうだか知らないが、俺は「愛」という言葉だって汚れが溜まれば必然的に汚れてくると思っている。まあ、悪くはないんだ。ラブストーリーに恨みはない。けれど、「愛」という言葉に積もり積もった一癖も二癖もある面倒な歴史が、妙に気になっちまうんだ。
そうだな。俺はもう、「愛」は素敵だ、とストレートに言い切れないほど、ひねている。シンデレラストーリーなんてのは、まっぴらごめんだね。だから、なるべくこの色気づいた言葉は使わないようにしている。いいや、どうだろう。そう勇ましく言い切ってみるのはなかなか俺好みの自己紹介なのだが、実際、そんな小難しいことをいちいち考えていやしない。でも、人に恋話を振られると、たいてい気分が悪い。変わり者で結構。

その点、奴はいい。気の利いた色恋話なんざ言わねえの言わねえの、徹底的に毛嫌いしてる。そうでなければ、シャイなんだ。だとすると、ちと俺がイメージしてたのと違うが、シャイならシャイで、なかなかいいツラに見えてくるのさ。面白い奴だ。お誂え向きだ。
奴と喋り明かした夜は、たいてい朝飯を食う気がしない。俺は朝日が昇るのを見ながら、東の空で青紫と白がせめぎ合っているのを楽しい気分で見ている。奴は礼儀正しく暇の挨拶を済ませ、それでも十五分は図々しく居座って、俺の誠実さを褒める。奴が俺をどのように評価しようが、俺の知ったことではない。お礼として俺は奴に悪口を返す。

随分長い付き合いだから、お互い遠慮はない。かといって、すべてが本音というわけでもなくて、いつも言葉の端っこは程々のドス黒さであえて武装する。そんな付き合いだ。微笑みは禁物。刺さると嘲笑よりも痛いのを知っている。
だが、奴は少々間抜けているから、玄関の前まで来て、とうとう幸せそうな笑顔をしてみせやがった。俺はそんなヘマはしない。だるいツラで見送ってやる。

明日の準備はぬかりないし、殊更焦ることもないので、俺は誇らしげに煙草を噛むと、火を点ける道具が手元にないのも気にせず、格好ばかり作って朝を過ごした。
このまま今日が終われば、奴のことをとうとう一度も恋人と呼んでやらなかったことになる。そいつはなかなか愉快なことだ。恋人なんて甘ったるいものは、おまえにゃ楽器で十分だぜ。なあ、相棒。あと、何か言い忘れたっけか。

そうそうあれだ。明日までに酒くらい飲めるようにしとけ。
ハッピーウェディングと洒落込もうぜ。