鱗手オキル短編集
魚心





あたしはようく考えて、魚に心があっても水にはないと思うに至った。

ところが、あいつは違ったよ。あたしとよく似た苦労をして、あたしと似たり寄ったりの本や新聞を読んで、あたしと同じ学友に囲まれていたのに、あいつはあたしの一歩先へ進んでしまった。つまりは狂ってしまったのさ。魚にハートがあるならば、水にもあると言いやがる。そんなふざけたこと、あってたまるかよ。あたしとあいつは、けんけんがくがく、真昼のベンチで吠えた、吠えた。あいつが黙っても、あたしは吠え続けた。

「おい、馬鹿言えよ。水は魚を殺すんだ。魚は水に溺れるんだ。一方的なんだよ、何もかも。万事が万事、イッポーテキで、理不尽きわまりないボーリョクの世界なんだよ」
演説するあたし。唾飛ばして、両手揺すって、何だか絵に描いたような真剣さ。カッコ悪いね。自覚あるよ。丸テーブルの向かいにはあいつ。あいつは紙コップのメロンソーダをちゅるっと啜って、喋り疲れた喉を潤す。ハンカチで口を拭う。余裕だね。カッコいいのね。喩えるなら、人間が言葉の動物だということの不思議さをふいに打たれて、思わず黙り込んでしまったお婆ちゃん。そんな面持ち。きらきらとした好奇の目であたしを眺める。
「水に心なんてあってたまるか」
畳みかけた時、ラウンジにはもう、あたしとあいつしかいなかった。
「あってたまるかよ、なあおまえ」
あいつとの長く楽しい付き合いを思い出して、あたしの声は上ずった。
「何とか言ってみろよ。果糖味わってうっとりしてるんじゃねえよ。冗談なんだろ、なあおまえ。冗談にしちゃおもしろすぎて、あたしには意味がわからんかったよ。水が何だよ。もう一度抜かせ馬鹿野郎。何度でも否定してやるんだから。何度でも馬鹿にしてやるんだから」

そう言うあたしを見下ろしながら、あいつは寂しく微笑んで言う。
「それでも水には心があるんだよ」
手を差し出すあいつの、逆光で見えない暗い表情が怖くって、あたしは睨みをきかせる。睨んで睨んで、こん憎たらしいあいつの何もかもが見えなくなるよう願う。消えろ消えろと念じるあたしに、あいつの優しい目がいかにも愚かそうに柔らかな光を投げて語る。
――わたしは魚
――水に心があると信じる魚
――水と対話しなくては生きられない魚
「やめろよぉ!」
あたしのようく考えてきた頭と、その頭ん中に詰まった歴史が砕ける音がする。

涙でいっぱいになった目の向こうに、あいつがいた。あいつとあたしを隔てる途方もない距離に、あたしは目眩を感じた。頭の中をしとしとしとしと、熱い水が降下しては浮上した。その時、あたしにもうっすらと、あたしを嘲る水の心が見えちまったよ。あたしを包む水の心が。やがてすべての魚を溺れさせてしまう、すべての魚を包んでいる水の……。

あたしはもう悔しくって悔しくって、「ねえよ」って喚くしかなかった。
「あああ、ねえんだよぉ、絶対、水に心なんてねえんだよぉ」
あたしは走った。走る身体がふわふわして、水があたしを妨害していることを悟った。負けじと泳いだ。全力で泳いだ。キャンパスの白と街路樹の緑。目に映る景色が、ぴしりぴしりとひび割れて、たくさんのたくさんの水が押し寄せてくる。怖くって怖くって、
「ねえんだよぉ、ねえんだよぉ、絶対にねえんだっ」
とあたしは吠え続ける。全部水のせいなんだよ。水に魚の心がないせいだ。
魚に優しい心があったって、水はそのすべてを奪ってゆくんだ。心がしたことのすべてを、心がそこにあったことさえも、水がすべて奪ってゆくんだよ。水が。信じられるかよ。水に心があるなんてひどすぎるじゃあないか。それじゃあ魚の心は何なんだよ。魚には何で心があったんだよ。水に心なんてねえんだよ。水におかえりなさいしても、優しく拾ってくれる両手なんて出てこねえんだ。水と群がったつもりでも、一緒に泳いでくれる尾鰭もありゃしねえんだ。水心だって。あってたまるかよ、あってたまるか。

ライブラリーの階段を駆け上ると、あたしはその開いていない門の前で、何か喉の奥でぴちゃぴちゃと跳ねている言葉を飲み下した。言葉は案外、腹の中にたまりもせずにすうっと溶けちまった。あたしの親友だったあいつはもういない。あたしは空一面の水を見て、涙をこらえた。膨大な水の壁に一ミリの恐怖も抱かずに、生きてゆけたならば。この気まぐれな水の流れに、一ミリの不埒な期待をもつことなく、生きてゆけたならば。

大事なのは、魚に心があればという部分。それだけなんだ。それだけなんだよ。あたしは泣き疲れた邪悪な目で、それだけを考えて生きていきたいと願った。生きていこうと誓った。