鱗手オキル短編集
ブックエンド





「おかしな本なんだ」
と先輩が言った。僕は、え、と聞き返した。棚越しに覗く先輩の目。真剣だった。僕は棚から引き抜きかけていた、背表紙のすり切れた半世紀前の百科事典を押し戻して、それが何かを確かめようと今いる棚の裏側に向かった。先輩は1冊の本を手に持って、薄ら笑いを浮かべていた。休日の地下2階の書庫は、見る限り人がいない。会話をしても問題ない。
「見てみろよ。おかしいと思うだろ」
「どういう風に?」
手渡されたその本の表紙には、たしかに「何か」が書かれていた。しかし、僕にはその「何か」がわからなかった。なんとなく嫌な表紙だった。じっと見つめていると、頭がだんだん機能しなくなるようだ。そのタイトルを、著者名を、僕は読めなかった。読めるはずの言語で書かれているはずなのに、文字のイメージは心に吸い上げられた途端、蒸発してしまう。
「どうだい?」
彼は腕組みをして、僕を試すように目を細めた。僕はその本を見つめていると沸いてくる不思議な感覚を手がかりに、自分の記憶を探った。おかしい。知っているのだが……たしかに知っているのだが、それが何かわからない。頭に残るのはブラシで擦られた後の掠れのようなノイズばかりで、意味のまとまりが浮かび上がらない。
「どうでしたかね……」
僕は曖昧に笑いながら、それが何かを考えた。もしかすると、何か……という問い方自体が間違っているかもしれないと思いながら。そんなことを考えた時、先輩が低く笑った。

「は。わからねえようだし、ひとつ問題提起をば。おまえは今もそうして、その本の中身を開こうとしない。ただ表紙に見入っている。それ自体、割と不自然なんじゃないかね」
それを聞いて、なるほど、と思う。僕はその本をこうしてただ持っている。そして気づいた。この表紙を見る感じが、あまりに本の「中身」を――特に文学と呼ばれるものを――読む感じに似ていることに。読めば読むほど、膨大な意味が舞い飛ぶ。しかしその乱舞をひとつところに収斂させることができずに、途方に暮れてしまう。あの感じに。
「ああ、そうか。この本……」
と僕は呟いて、それを差し出してきた彼の方を見た。
「気づいたか?」
と言って彼も笑った。僕も笑った。
「おまえなら気づくと思ったよ」
「気づくも何も……」
僕はその本の裏表紙を見て、背表紙を見て、ためらいがちに言った。
「『読めない』ようにつくられてるんですね、この表紙」
「そうだ」

僕はこの既知感について、訝しみながらも言葉にする努力をした。
「まるで本の中身を読んでいるような感じのする表紙だと思いました。それも知識を伝えるための本ではなくて、色んな意味を複声的に語るストーリーの本……」
「その通りだ」
彼は腕組みをやめて、ふう、とため息をつく。そして視線を上の方、はるか上の方まで続いている本棚の広がりへとやる。僕もそちらを見たが、そこに彼の考えていることを推測させるものはなかった。ただそこには、「読める」背表紙がたくさん並んでいるだけだ。彼は顔の向きを変えずに言った。
「不思議だろう。表紙が、いつまでも読み終わらないんだ。意味のひとかけらを掬い上げようとすると、それはまたもっと大きな意味の一部で、大きな意味を見ようとすると、今度は小さな意味が暴れ出して妨害してくる。結局、その表紙を俺たちは読めない」
そう言われてみて、僕は妙な気持ちになった。安堵が混じっていた。その表紙に意味が「無い」わけではないことを改めて発見したような気がして、ほっとしたのだ。そこから生まれ出ているのであろう意味が、ただ僕たちの心に据わらないだけなのだ。

しかし僕の胸のうちには、先輩の言葉に対する小さな抵抗のようなものがあった。具体的に言えば、先輩が不思議だろうといったその事態が、先輩の言葉の中で、きわめて一般的な話へと形を変えてしまっているような印象を抱いたのだった。
「読み終わる」という言葉。僕たちは何をもって「読み終わる」ことを感覚しているのだろうか。いや。そもそも何をもって「読む」と言い、何をもって「読む」ことの成立・不成立を判定しているのか。読むことをめぐるきわめて一般的な問題。

昔、僕はマンガが読むのがとても遅い子どもだった。あるコマの絵を見ると、いつまでもいつまでも見終わらないような気がする。たとえばそれに戦車と射出された砲丸の絵が描かれていたとして、僕がそれを見て「戦車」や「砲丸」や「射出」といった言葉を心に浮かべることは正しいのか。あるいはそれを、文のようにして関係で結んで「理解」してみることは正しいのか。どんな風な言葉をあてがうこともできそうな一枚の絵を、僕はどの程度の深度でもって、情報として咀嚼すればいいのか。文脈は狭いようでいて、広い。その絵を挟む文脈は、前のコマと後のコマの連続性にだけあるのではない。全体にある。
子どもの時にそのような言葉で思考したわけではなかったが、僕がマンガを読むのに時間がかかった理由に、そうした何らかの「正しさ」へのこだわりがあったことは間違いない。僕はその時、マンガを「正しく」読めた気になれなかったのだ。
思えば、文章だってそうだったのだ。あらゆる記号がそうだったのだ。マンガの絵とそれが僕の心の中に発生させた意味。それと同じように、そもそも外側の言葉とそれに触れて僕の内側において生まれた意味とのあいだにも常に不具合があるはずだ。読めるはずがないという不安。子どもの頃のあの気持ちを、このおかしな本は僕に思い出させる。

読むためには、どこかに妥協がなければならない。しかし、この本の表紙はそうした妥協を寄せ付けない。読めた振りをすることを許さない。なぜだか、それができない。その一点において、不思議だ。あるいは「読めて」しまう本の方が余程不思議なのか。そんな不安を起こさせる。僕のこうした思考の一巡りを知ってか知らずか、先輩は微笑んで言う。
「しかし、読めないのは表紙だけじゃないんだぜ。その本についての、『外側』のことは何一つ読めないんだ。読めないのに、でもそれが窮極的には読めるはずのものだという確信だけを抱かせるんだ。つまり、それが本なんだっていうことは、なぜか疑えない。しかし、どういった経緯で俺がその本を手に入れたか、どういった理由で俺がその本をおまえに手渡したか、そういう経緯のイメージすら、みるみる消滅していってしまうんだ」
「なるほど」
僕たちは今書庫にいて、その本に出逢った。先輩とその本との以前からの関わりについて、僕は何も説明されていない。そして、説明されることがないことに納得している。そして僕は、それを訊き出そうという考えを一つの選ばれなかった物語の展開のように眺めていて、決して実際に訊き出そうという気は起こさない。なぜか確信をもってそう言える。僕は、確かなことを発話してみようと試みる。その本についての確かなことを。
「一冊の本があるわけですね。それは疑いない。僕と先輩はその本に興味をもって、それを手に取る。そしてその本について、中身を読んでいないのに何か批評的なことを語り合う。曰く『おかしな本なんだ』と。『読めない』んだと。……とりあえずそこまでは、変更される心配のない、その本の『外側』の情報と言えそうではないですか」

「解せないんだが」
と先輩は唐突に話題をずらしてきた。
「一度そういう思考経路を経るとね、この本は開けるようになるんだ」
「本当ですか」
「ああ。おまえの今の言葉のおかげで、おまえはその本を開くことができる」
それでは、先輩は一度開いたことがあるのだろうか、と僕は考える。きっとあるのだろう。僕の手の中には本がある。ただの本だ。表紙の意味は相変わらず定着しないが、僕にはそれを開く意思があり、それには開かれる可能性がある。間違いない。それはたった今、開かれるべき何かとして僕の中に定着した。まるでたった今ウィジェットが開かれたかのように。僕の与り知らぬ何らかのソフトウェアが組み込まれ、操作可能になったかのように。
「なるほど」
と言うしか無かった。「読めない」ことを理解するための思考。それはとても奇妙な仕方で、この表紙を「一読する」手続きとなっていたのではないだろうか。

僕は先輩に目を合わせた。本の方を見ず、頁の隙間に指を差し込んだ。
「開けよ」
と先輩は言った。挑発するように、その目はぎらついていた。
「開くと、どうなりますか」
先輩はじっと僕を見つめ返した。やがて、少し寂しそうに言った。
「中身が、すっかり読めてしまうんじゃないかな」
そして今度は、少し語気を強くして、言い直した。
「伝わってしまうんだよ。それこそこの本の指示するものが、余すことなく」
その神妙な言い方に僕は戸惑った。それは単に、優れた「わかりやすさ」をもった文章だということを、回りくどく言い回したわけではあるまい。やはり、「伝わる」ということ自体に関する、何か奇妙な事態をこの本は招き寄せるということなのだろう。
「それはおかしいですね」
少しばかり、かまを掛けるようなつもりで僕は言ってみる。
「書き手の指示するものなんて、伝わるはずがないですものね」
そう。厳密に言えば、発せられた瞬間から言葉は自律して、オリジナルな意味には決して遡及できない。言葉は言葉であって、意味の奴隷ではない。……そんな凡庸な哲学を思考するのと同時に発せられた僕の言葉は、彼の頭の中で、僕の思考とほぼ等しい意味を奏でる。

「一応警告だけはしておこうと思う」
彼が言う。微妙な言い回しだと僕は思う。
「これはノートだ。含まれる情報には、非常な分量がある。だが、読み始めたら一瞬だ。何せ、これは本だからな」
それがレトリックでないことは、僕にはすぐにわかった。
「おまえはわかっているはずだ。いつだってそうだろう。読めばすぐに、本という物質性が忘れられる時がくる。いやむしろ、本が本であることを忘れられた時にこそ、おまえは本を読んでいる。それはこの本においても、変わらない。いや、この本においてこそ、もっとも純粋にそのことがわかるだろう。この本を読むということが、最もオリジナルな忘却なのだから。いいか、これはノートだ。世界を記した、そして記していくことを運命づけられたノートだ。そしておまえのノートでもある。どうだ。開いてみるか」
先輩の言葉が頭の中を駆け巡る。僕はふと自分の一生を思い出した。思い出す自分と思い出される自分が、まだ開かれない頁の内部と外部で揺れた。僕はため息をついた。
「ねえ、先輩は」
とぽつりと声に出してみた。僕の一生が見知らぬ誰かの一生になってゆく。
「あなたは、開くべきだと思いますか」
長い沈黙で彼は答えた。僕は指に微かな力を入れた。感じる。この本を収めていた図書館が、この本に収まっている。頁が持ち上がっていく。この本を読んでいる僕が、先輩が、あらゆる人が、この本に収まっている。あらゆる僕の生が。何もかもが生まれ、何もかもが無くなって、膨大な時間の隅々へと広がるようにして、栞紐の挟まったその頁は今完全に開かれた。
そうして僕は、この懐かしい本を、再び読み始めた。





※本作は星野あざみ「Specter in Blue」へのオマージュです。