魔界の島クナチス


PART 1


 「おじいちゃんが……死んだ?」
「ええ。急に発作を起こしたの。心筋梗塞だって……。学校に連絡したら、もう下校したあとだって……。だから、家で待ってたのよ」
まどかは自分の耳を疑った。学校から帰るなりいきなり母からそんな話を聞かされたのだ。
「だって昨日まであんなに元気だったじゃない」
まどかの家は祖父の家のすぐ近くにあった。祖父はよく自転車でやって来た。昨日も夕方来て話をしたばかりだったのだ。

――おれぁ死なんよ。何しろ、おれぁ生き仏とおんなじだからな

いつもそう言って陽気に笑っていた祖父の顔が頭に浮かぶ。
「だって、おじいちゃん、いつも言ってたじゃない。おれは死なないって……」
「馬鹿ね。おじいちゃんだってもう年なんだから寿命が来たら死ぬわよ」
母が言った。
「でも……」
彼女は何か言い掛けた。しかし、母は忙しそうに言った。
「おまえも鞄を置いて早くいらっしゃい。もうみんな集まってるから……」
「わかった」
彼女は、そう返事をすると自分の部屋へ向かった。

 葵まどかは16才。もうすぐ高校2年生になるところ。学校ではちらほら受験の話なども出始めている。来週には三者面談も控えていた。まどかも一応、受験を考えてはいたものの、具体的にはまだ何も決めていない。気の早い同級生の中にはもう予備校へ通い出している者もいた。そう。今や、高校生にもなれば、学校が終わったあと、予備校に通うのが常識になっている。
「でも、うちはそんなに余裕ないしなあ。どうしよう」
もらった予備校のパンフレットを見つめ、まどかはふっとため息をついた。

――まどか、おまえは大学に行って弁護士になれ

以前、祖父がそんなことを言ったことがあった。

――何言ってんの? おじいちゃん、弁護士ってのはうんと頭が良くなくちゃなれないんだよ
――おまえだったらなれるさ。何なら判事だっていいんだぞ

その時は冗談だと思った。しかし、あとで母に聞いた話によれば、本来、祖父は若いころから勉強好きで、親から隠れるようにしてまで本を読んでいたそうだ。しかし、時代がそれを許さず、進学を諦めた。本当に弁護士になりたかったのは祖父だったのだと今は思う。
「でも、悪いけど、おじいちゃんの期待には応えられそうもないな。ごめんね、おじいちゃん」
まどかは少しだけしんみりとした。

――まどか、今日はでっけえ魚を釣るからな、ようく見てろ

日焼けした顔の祖父が笑うと口の端から銀歯が覗く。いつも酒瓶をポケットに入れ、身体にはアルコールのにおいが染みついていた。釣りが好きで、小さかったまどかを自転車の後ろに乗せて、よく川へ遊びに連れて行ってくれた。日中から自転車でふらふらとほっつき歩いては仕事もせずに酒ばかり飲んでいる祖父のことを、嫁達は皆よく思っていなかった。が、まどかにとっては一緒に遊んでくれる良い祖父だった。

 孫は全部で11人いた。まどかが一番上である。彼女は一人っ子だったが、おじやおばの家にはそれぞれ二人三人と皆兄弟がいた。しかし、まどかはそれを羨ましいとは思わなかった。おじ達も従兄弟達も皆、とても仲が良いとは思えなかったからだ。集まっては喧嘩をし、影では悪口を言う。まどかはそれが嫌だった。まじわれない彼女のことを、親戚の物達は嫌厭していた。

 祖父の家に着くと、近くの親戚は皆集まっていた。
「おじいちゃんは?」
土間から上がった10畳の部屋で飲み食いしている叔父に訊いた。
「奥だよ」
まどかは祭壇の祀られたその部屋で祖父と対面した。とても死んでいるとは思えなかった。今にも起き上がって冗談を言ったり、ポケットから瓶を取り出して酒を飲み始めるのではないかと思えた。

「そういうことはやっぱり平等にしてもらわないと困りますよ」
いつも屁理屈ばかり言ってみんなを困らせている叔父が言った。
「平等ったって、実際にお爺さんとここに住んでたのは私達なんですからね」
二男の嫁が息巻いた。
「何を言ってるんだ。散々爺さんのこと邪魔にしてたくせに……」
長男が言う。
「そうですよ。財産を相続するのは昔から長男と決まってるんですからね」
その嫁がじろりと見まわして言う。
「ふざけるなよ! 勝手に出て行ったくせに……。年寄りの面倒は見たくない。でも、財産だけは欲しいなんて虫が良すぎるぞ」
「そうよ! 絶対に承知しませんからね。みんな同じ兄弟なんだから、財産はちゃんと分けてもらわなきゃ……」
叔母も文句を言う。

「うちには子どもが3人もいるんだ。教育費だって掛かるし、その分多くもらわなきゃ割が合わないよ」
長男の嫁が身を乗り出して言う。
「何言ってんだよ。それを言うならうちだって同じだよ」
喧々諤々と言い争いは止まらない。
「ねえねえ、お金が入ったら何買ってくれる?」
「新しい自転車買ってくれるって言ったろう?」
「おれの望遠鏡の方が先だよ」
小さな従兄達までそんなことを言い出す始末だ。

誰も悲しんでなどいなかった。みんな欲の皮を突っ張らかした鬼のような顔をしている。

「ちょっといい加減にしなさいよ!」
まどかが言った。
「何も今そんなことでもめることないでしょ?」
親戚が集まって酒が入るといつも最後はもめごとになる。もううんざりだ。しかも、今日はそういう日ではない筈だ。せめて今日だけはもめて欲しくなかった。
「やめてよ! だって今日は、おじいちゃんが死んだんだよ」
しかし、そんなまどかの言葉を聞く者はなかった。

「そんなら、あんたは財産いらないんだね?」
兄嫁が意地悪く言った。
「そうだよ。こういう時だからこそはっきりさせておかないと……黙ってたら損しちまうからな」
叔父達も言った。祖母はただそこにいて笑っていた。病気の祖母は祖父が亡くなったことさえうまく理解できないのかもしれない。まどかの母が注いでやったお茶をこぼしてしまった祖母を見て、嫁達が露骨に嫌な顔をする。
「もう……どうしてこうなの?」

涙さえ出なかった。
(こんなにも悲しくて、こんなにも心が空っぽで胸が苦しい……。なのに……。どうして涙が出ないの?)
祖母は耳も遠かった。そんな祖母を取り囲んで彼らは大声で怒鳴った。
「この際だから、婆さんからもはっきり言ってくれよ。財産は誰に相続させるのがいいか」
祖母は困っていた。
「婆さんにっても無駄だよ。要はおれ達の問題なんだからな」
「この家を売ったらいくらになるかな?」
話はどんどん具体的な方向へと進んで行く。祖母の意向さえも聞かないで……。

――まどか、おまえは行かないのか?

突然、そんな声が頭の中に響いた。
(え? おじいちゃん?)
それは確かに祖父の声だった。彼女は慌てて周囲を見回した。が、そこには誰もいない。祖父の遺体を見た。だが、先程と何も変化はない。
――おまえは財産が欲しくないのかと聞いてるのさ
もう一度声が聞こえた。
(え? 欲しくないよ。だって、お金をもらったっておじいちゃんが生き返る訳じゃないんだよ。そんな代償わたしはいらない。それに、この家がなくなるなんていやだよ)

 古くてしっかりとした祖父の家。まどかはその家が好きだった。部屋には障子があって、縁側や物置になっている中二階、太い柱はどれも黒光りして立派だった。庭には井戸や池巣があって夏は涼しく遊んだし、大きな栗の木や果物の木は収穫期になると季節の味覚を楽しませてくれた。それがみんな無くなってしまうのかと思うとまどかは急に寂しくなった。

「それに……」
と、言い掛けてまどかは胸が詰まった。
(おじいちゃんがいないなんて……)
涙が滲んだ。
(いやだ。おじいちゃんもこの家もみんな無くなってしまうなんて……。おばあちゃんはどうなるの? 誰もおばあちゃんの面倒を見ようともしないのに……)
親戚は相変わらずもめている。

「財産が欲しいなら婆さんの面倒を看るってんだな?」
「何言ってんだよ。おれは仕事で忙しいんだ」
「あたしだって無理よ。パートや子どもの面倒みるだけで手いっぱいなんですからね」
「そんなら財産欲しいなんて言うなよ」
「これとそれとはちがうよ」

まどかは独り涙を流した。

――おまえは本当にやさしい子だ
再び、祖父の声が聞こえた。
(ううん。違うよ。わたし、ちっともやさしくなんかない)
まどかはそう心の中で否定した。
――いいや、おれが考えていた通りだ。おまえには資格がある
「資格?」
――そうだ。代々受け継いで来た財産をおまえに……クナチスの島の相続を許す

「クナチス……?」

聞いたこともない名だった。
(島? 何なの?)
島を持っているなどという話はこれまで一度も聞いたことがなかった。もしそれが本当なら欲の深い叔父達が黙っていないだろう。
――心配いらんよ。奴らには見えないのだ
祖父が言った。
(見えない……?)
――そう。あの島はおまえにしか見えない。そして、おまえにしか守ることができない。おまえは今日からクナチスの長になるのだ
(何……言ってるの? さっぱり意味がわかんないよ。それとも、いつものおじいちゃんの冗談?)
が、次の瞬間。まどかは突然空中に投げ出されたような浮遊感を感じた。

「何?」
目の前にあった祖父の祭壇が消え、その遺体も消え、視界からすべての事物が消え去った。急激に引きずり込まれて行くような不思議な感覚……。それはジェットコースターに乗った時のGの掛かり方に似ていた。もしくは急速に眠りに落ちて行く時のあの感覚に……。

だが、目の前に広がっているのは闇ではなかった。延々と続く霧……。乳白色の霧の中……。まどかはその中を飛んだ。移動している感覚はなかったが、何となくそんな気がした。上もなく下もない宇宙のようなその空間。果てしなく続いていた霧の向こうに微かな揺らめきが起きた。そして、ぼんやりとした影が浮かんだ。駱駝のこぶのような島の陰影が……。それがだんだん大きくなっていく。

「あれが……島?」
――そうだ。あれがクナチスだ
「クナチス……」
輪郭が見えて来た。それは奇怪な形の巨木に覆われた深い緑の島だった。まどかはそこに吸い込まれて落ちて行った。

「ぶつかる……!」
密集した枝が絡み合って隙間なく生えている植物。その幹に激突すると思った。しかし、そうはならなかった。まどかはするりと抜けて島の内側に落ちていった。そして、地面にすとんと着地した。見回すと、巨大な手のひらが重なり合ったような葉や縦横無尽に絡んだ弦草。はては、蜂の巣状の幹から無数の枝が伸びて傘のように広がっているもの。ここに生えているのは、そんな奇妙な植物ばかりだ。吹く風は生暖かく、枝の先に連なった紫の実がたわんでケラケラという音を立てた。
「何なの、これ……気持ちが悪い……」
足元に生えている草もどこか生きているようで不気味だった。その草がシュルシュルと伸びて今にも足首に絡みついて来るような錯覚に陥った。

「これは夢……?」
まどかは祖父を探した。
「おじいちゃん、どこ?」
だが、いくら呼んでも返事はなかった。どこまで行っても同じような景色が広がっているばかり……。
何の音も聞こえない。薄暗い森の中で彼女はすっかり途方に暮れた。
「夢なら覚めて……」
彼女は固く目を閉じた。そして、もう一度ゆっくりと目を開いてみる。が、期待に反して何も変わったことは起きなかった。
「どうしよう。帰れない……」

木の葉が揺れた。思わずはっとして身を竦める。と、いきなり茂みから黒い塊が跳んだ。それは真っ直ぐまどかに向かっていた。
「いや!」
咄嗟に腕を交差して頭を庇う。が、足は竦んでまったく動けない。瞬間。シュッと鋭い音が空気を裂いた。と同時にドサリと地面に落ちて来たものがある。大蛇だ。たった今まどかを狙っていたものに違いなかった。それは深い青に桃色と黒が混じる奇怪な模様の蛇だった。いや、厳密に言うならば、それを蛇と呼んでいいかどうかはわからない。平たい頭からは短い角と触手が2本伸び、ぐるりと巻いた胴からは小さな足が何本も生えている。

「何なの? これ……」
まどかは急いで後ろに下がった。太い首は矢に貫かれていたが、長くてくねった尾がまだぴくぴくと動いている。

「おお、こいつはでかいな。良い獲物だ」
布と弦草で編んだ鎧のような服を着た男女がこちらに向かって歩いて来た。先に口を利いたのは女だ。続いて男も言った。
「まったくだ。長老がお喜びになるだろう」
二人は筋肉隆々の精悍な騎士といった雰囲気をしている。馬に乗っていた訳ではないが、女は弓を、男は剣を携えていたのでそう思った。男の方がさっとまどかのところに歩み寄ると跪いた。

「主よ、忠誠を尽くします」
女も来て同じようにした。
「主よ、忠誠を尽くします」
「ちょっと、何なの? あなた達……」
まどかが言った。男の方が先に顔を上げ、真っ直ぐに彼女を見つめた。長く緩やかなウェーブの掛った金髪を束ね、目は涼しい深い空色。整った顔立ちは見ている方が眩しさを感じるくらいだ。そして、女もまた凛々しく、濃いブラウンの巻き毛に琥珀の瞳。肌は薄く入れた紅茶のような色彩を帯びてエキゾティックな輝きを放っている。そんな二人を見つめたきり黙ってしまったまどかに男が言った。

「紹介が遅れました。私はラグーン。主を迎えに参った者です」
「同じく、シャディーヌ」
彼女は豊かな胸と引き締まった腰を持ち、首から下げた飾りは3重に取り巻いて帷子のように纏わっていた。
「あ、わたしは葵まどかです」
彼女は思わずそう自己紹介した。
「存じております」
ラグーンが言った。
「え?」
不思議そうな顔をしているまどかにシャディーヌが補足する。

「あなた様が次代の長になることは皆承知しておりましたので……」
「承知ってその……わたし、ちっともよくわからないんですけど、おじいちゃんは何も話してくれなかったし……。ここはおじいちゃんが言ってたクナチスという島なんですか?」
まどかが訊いた。
「さよう」
ラグーンが頷く。
「それじゃ、あれは……」
もう動かなくなってしまった蛇のような奇妙な生き物を視線で示す。

「あれはガラジクス。襲われると危険ですが、食べると美味なのです」
「た、食べる? あれを……」
まどかはぶるんっと小さく身を震わせた。
「まどか様はガラジクスを食したことがないのですか?」
「こんなに美味なものを……」
二人は顔を見合わせて不思議そうな顔をした。
「だって、あんな生き物見たの初めてだし……。食べてみる勇気もないし……」
「それはあまりに不幸な……」
「ガラジクスの味を知らないなどお可哀想に……」
二人は同情の視線を向けた。

(何なの? この人達……)
まどかが戸惑っているとぐいとラグーンに腕を掴まれた。
「こうなればぜひとも馳走せねば……」
「え? 別にそのわたしお腹空いていませんから……」
言った途端、タイミング悪く腹の虫がグーと鳴いた。
(そういえば学校から帰ってからまだ何も食べていないんだった……)
自覚した途端またグーと鳴く。
(だからってあんな訳のわからない物なんか食べたくないよ。黙れ! お願いだから黙ってよ、わたしのお腹)
まどかは軽く手で押したり深呼吸したりして何とかごまかそうとした。

「遠慮なさらずとも良いのですよ。もう我らは同胞になったのです」
シャディーヌがガラジクスを片腕に巻き付けて笑う。
「どうぞ、私の背にお乗り下さい。長老のところへお連れします」
ラグーンが両手を前に突いた。まるで馬のように……。そう。彼は馬になっていた。顔は人間のままだったが、手足が変形し、背中の左右から白い翼が覗いている。
「あなたは……」
「何か変ですか?」
美しい顔のままラグーンが振り向く。

「変……。そ、そうよ、何か変よ、これ……とても普通じゃない」
まどかが苦笑いして言った。
「そうですか。でも、クナチスではこれが普通なのです」
爽やか過ぎるスマイルで彼は言った。
「さあ、どうぞ。ラグーンに跨って……」
シャディーヌが彼女を片手で持ち上げると彼の背中に乗せた。

「では、よろしいか?」
ラグーンが訊いた。
「ちょ、ちょっと待って。スカートが……」
無造作に乗せられたのでスカートのすそがめくれていた。しかも思い切り跨ぐ姿勢は制服姿のままでは辛い。
(こんなことなら制服じゃなく、ズボンに着替えて来るんだった)
が、そんなことを考えても後の祭りである。

「ラグーン、もっと幅を縮めてやらねばまどか様の短い脚では届かぬ」
シャディーヌが言った。
「み、短いってね……ほんとのことだけど……」
まどかは赤面した。
「わかった。それに、このように短い腰巻ではあまり強く風を切ることもできぬな」
独り言のようにラグーンが呟く。
(そりゃ、確かにスカートの丈も短いですけど……校則には違反してないんだからね」
まどかも心の中で呟いた。

「まどか様、これくらいで如何でしょうか? あなた様の寸法に合わせて変化させてみましたが……」
「あ、ありがとう。丁度いいです」
確かにラグーンの身体は細身になってまどかが跨ぐのに丁度よいサイズになった。
「では飛翔します。しっかりと掴まっていて下さいね」
「え? 掴まるってどこに?」
が、次の瞬間、ラグーンはさっと地面を蹴って空高く舞い上がった。