純白
ルイ・ヴァリエ




 漆黒の翼は天へ向かって駆けて行った。僕はその羽ばたきを窓の外に聞いた。

 もう何時間もの間、僕は黙ってそこにいた。黒い夜気を纏って……。
明かりは点けなかった。月のない夜だから……。
そこに伸びる影も、僕を取り巻く部屋の住人達も、みんな息を殺して待ちわびている。

 耳の奥に響くのは怯えたように震えてる僕の心臓と細い秒針のぎこちない音……。
古い円盤のローマ数字の上を遠慮がちに過ぎる針。長い針は背筋を伸ばして天を仰いだ。
波打つ厚いカーテンの床からは大蛇の背中がゆっくりと波を打っている。部屋の隅では四角い箱からはみ出した、プラスティックの人形の目が闇の明かりに反射している。

 昼間、女中のハンナが換えてくれたシーツは白い雪のように汚れを知らない。僕はそっと引き出しを開けると細い三日月のような銀のナイフを取り出した。まだ解かれていない封印を、僕の手で切り裂くのだ。

誰にも触れられていないその白い膨らみに銀のナイフを突き立てて、未知なる扉を開くのだ。19世紀の残り香のするその書物に、僕の愛の詩を重ねて……。でも……。
「……!」
ふと手元が滑り、鋭い切っ先が僕の指先を傷付けた。声なき声は歪み、闇に吸われ、指先から滴ったそれが真白いシーツの端にただ一点の染みとなって落ちた。

「早く帰ればいいのに……」
僕はナイフをページに挟んだまま本を閉じた。フランス語の古い綴りのインクがつんと鼻を突いた。それがずきんと旨の奥に刺さって、僕は苦痛で味付けした砂糖菓子を口に含んだように感じた。

遠い窓辺を駆けて行く風……その先にあった温もりと光を、僕はもう随分と昔に手放してしまった。光の中で戯れたことも、月光の下で誓った愛も、叶えられないまま、僕はこうしてまどろんでいる。

 明かりを点けるのはいやなんだ。僕の醜さを曝すのは……。
できることなら、このままずっと闇の住人になってしまいたい。何もかも闇に溶け、もう一度真白に……。けれど、シーツは汚れてしまった。僕のせいで僕は汚れ、僕自身のために僕は愚物になった。闇を貪る獣のように、僕は今、心からあなたを待ち望んでいる。

 立ちあがった僕の影。
逆さまに映って笑う。
錯覚する記憶……。

月はないのにそこにある。
僕はないのにここにいる。

 歩き回る僕の靴音。今は無かった筈の命。その残像が僕を生かし、その血管の中を駆け巡る。
熱く険しいその道のりを……。
脳の裏側に備蓄する。

今はあなたの光の影となって生きたいと願う。
ひっそりと暗黒のビロードに隠されたあの月のように……。

1、2、3、4……。か細い針は痙攣しながら病を刻む。

あなたは言った。
――今宵は影の月だから……
夜の十時に戻ると言った。

十時、十時、十時……。
鼓動が時を追いこして行く……。
十時、十字架、従者……。
それは、僕達を繋ぎ止めて放さない、がんじがらめに絡みついた運命の鎖……。

それでもあなたは戻ると言った。
偽りのその唇で……。
光によって色を変えるその瞳で……。

心はいつもここにない。
銀色に張り詰めた鉄壁の心……。

そのぎこちないやさしさの手に触れて、隙のないガードを取り去れば、そこに真の魂が潜んでいるのだろうか。

 月の光の届かない今夜。
僕は純白でいられる。
それは、人でなく、獣でもなく、何者でもない時を生きるために捧げられた儀式……。
白い砦……。

神殿へ続く道を閉ざして進む。
奥深いその闇の中で……。
今。
僕達は神の手を逃れた。
自由に……。
肉体を脱ぎ捨て、モラルを捨てた。

僕は僕であることを止め、あなたはあなたであることを捨てて……。僕達はこの漆黒に閉ざされた部屋の中で、同じ月を見つめる。

僕は僕の心臓を生贄にして、この世に僕自身を召喚しよう。僕がもう一度過ちを犯さないために……。

僕は何度でも甦り、そして滅ぶ。けれど、その度にあなたと出会い、そして再び、永遠に叶うことのない命を生きる……。
繰り返し……。
戻っては消え、先に進んではまた道を違えて、それでもまた、僕達は出会ってしまう。不甲斐ない理不尽なこの世界の果てで……。

僕達が何者で、何処から来たのか誰も知らない。
人が命の行方を知らないように……。
僕達もまた何処へ行こうとしているのかを知らない。
すべてはただ自然の摂理に準じているに過ぎないのだ。

 闇。月。のたうつ闇の鼓動が窓を打つ……。
あなたの中へ差し入れた僕の手で、あなたは僕を貫いた。

そうして、一つ一つの僕をばらばらにして、再び僕を組み立てる。柔軟で張り詰めた意識の集合体でしかない僕に肉体を与え、喜びを負荷した。

けれど、それは限りない苦痛への代価を伴っていた。それでも僕はあなたを求め、快感を欲して、中毒になった。

あなたが吐き出す甘い毒を吸って、僕は自分を傷付けた。
あなたにとって従順でありたいと……。
そして、あなたの過去を映し続ける闇の道化師でありたいと……。
僕は願い続けた。
あなたの苦しみも痛みも、すべては僕を慰めるための黒い悦び……。
そして僕は闇の底に落ちて行った……。

 黒い月が浮かぶ静かな夜に……。
階段を上るあなたの靴音が聞こえた。
忌まわしい空間と化したこの部屋に……。
僕の懐の闇に、あなたが帰って来る。

僕を蹂躙した。
僕を鎖に繋いだ。
唇は薄い銀色に微笑む。
憎いあなたの心臓に、銀のナイフを突き立てようか。
僕を待たせた24分の復讐に……。

僕は本の間から、そっとペーパーナイフを抜き取った。
波打つ鼓動……。
逆巻く神経の波動……。
けれど、僕は僕を置き去りにした。
重圧に耐えきれず、僕の神経はショートして、幾人かの僕は僕を裏切って、あなたの元へ走って行った。

 「眠ったのか?」
扉の前で止る足音。
「起きてるよ」
僕はベッドに腰掛けたまま答えた。

すると。微かに金属の音がして扉が開いた。
「暗いな」
あなたは電灯のスイッチに手を伸ばした。が、結局電気を点けずに部屋へ入って来ると、上着を椅子の背もたれに掛けた。

「拗ねたのか?」
僕の前に来たあなたが言った。
「だって、ずっと待ってたんだ」
手の中で弄んでいた僕のナイフを取り上げてあなたは笑う。
「それでおれを殺すつもりだったのか?」
明かりのない部屋の中で影が揺れる。

「指を切った」
僕が言うとあなたはすっと僕の手を取ってまだ少しだけ血の滲んでいる傷口を見た。そして、それを口に含んだ。あなたの舌に弄ばれて、その生暖かさと痺れるような感触が僕の脳髄に伝わった。

「だから、ナイフはやめておけと言ったろう?」
彼は僕の手を放して言った。
「だから、今夜は早く帰って来てと言ったじゃないか」
「黙れ」
そうして、あなたは強引なやり方で僕の口を黙らせた。いきなりその唇で僕のそれを塞いだのだ。

「待って……いたんだ……百年も前から……」
「黙ってろ……」
息が止りそうになって……。それから鼓動が熱く燃えて……。あなたの指がそっと僕の中に入り込んで来た時、僕はもう何もかも投げ出して、あなたの白い肌だけを見つめていた。

 その首筋に掛る影は絡みついた僕の腕なのか、それを押さえつけているあなた自身のそれなのか区別はつかない。冷えた瞳とは裏腹に、その身体には温もりを感じた。僕はその腕の中で、生まれたての赤ん坊のように喘いだ。あなたが囁く音楽が、耳の中に心地良く響いた。

その手がやさしく僕の髪を掻き上げる。その息使いと僅かに熱を帯びて汗ばんだ身体。彼の指の動きに、僕の心は敏感に反応を示した。

 闇の月の夜だけ、彼はこうして僕のところにやって来る。それはあなたのやさしさなのか、それとも単なる同情に過ぎないのか。それは僕にもわからない。けど、僕はそれで月の満ち欠けを覚えた。

時計の針の読み方も、愛の強さと儚さも……。僕を壊して傷付けて、何度でも……。そう。何度でも……。熱く燃えたあなたの手が僕を溶かし、撫でられる度に悲しみが薄くなり、やがて、すべてが透明に変わって行った……。

 闇の中に浮かぶベッドの中で、僕とあなただけがいる。ここは宇宙か それとも地の果てなのか。たとえここが地獄の猛火の中であろうと、僕は恐ろしくなどなかった。
たとえ、僕が罪人で、あなたの手によって裁かれようと、銀のナイフで心臓を抉り取られようと、僕は今、あなたの手の中にいる。
あなたと二人。
邪魔者はいない。誰もいない。
ただ二人。二人ぼっちの世界……。

闇の夜。明かりのない新月の夜にだけ、僕は闇のエロスとなって、永遠なるあなたの帰りを待ちわびている……。
誰かが鳴らす風の口笛……。
今だけは信じられる。

誰も僕のものになってはくれなかった。
誰もこんな風に僕を愛してはくれなかった。
そして、誰も……。

もしも身体が、心が本当でないなら……。
シーツに染みた一点の血を……。
もつれた舌の感触と、首に触れたあなたの指の温もりを……。
この先もずっと忘れないでいよう。

今だけ僕は約束しよう。
僕はあなたのものであると……。
そして、あなたは僕の唯一の……。
白い輪郭の砦になったのだと……。