螺旋
ルイ・ヴァリエ




 「完全とは何だろう」
ある時、おまえがそう言った。

「或いは、人にとってパーフェクトな存在とは何だと思う?」
吹き抜ける風がおまえの髪を揺らす。ずっと漆黒だと思っていたその髪の色は、陽光に透けると僅かに紫を含んでいるのだと知った。

「神様にでもなりたいのか?」
俺は読みかけていた本を伏せて脇に置いた。
「君ならなれるかもしれないね」
おまえは唇の端に微かな皮肉を浮かべて言った。

「興味ないね。俺が目指してるのは人間さ」
俺は少しだけ伸びをして空を見上げた。沈みかけた陽の最後のオレンジが巣穴に帰る鳥達の群れを導いている。

「ある意味、神というのは最も人間に近い存在だ」
彼が立ちあがったので少しだけ風の流れが変化する。白いシャツの袖口から覗くプラチナ。絶対に壊れることのない硝子の鎧を着て、おまえは何を見ているのか。何もかもを民衆にさらけ出しているのに、その下にあるおまえの本音は見えて来ない。

「だったら、おまえもそうなればいいじゃないか」
「僕は……なれない」
風に語尾が揺れて、エコーが掛る。
「僕は守らなくちゃいけないんだ」
そう言う彼の横顔は凛々しい。だが、それはけっして彼自身を含んだ言葉ではない。自己を犠牲にして美談を語る奴じゃない。が、それがおまえにとって最良の生き方だなんて誰が教えた? もしもそんな奴がいたとしたら、俺は今すぐそいつを絞め殺してやりたい。

「守るなら、自分自身を守れよ。おまえが生きたいように生きればいい」
しかし、彼は穏やかに微笑する。
「何故そう思うの? まるで僕がすべての自由から束縛されているような言い方をするじゃないか」
「そうじゃないのか?」
「ちがうよ。僕は僕自身で選んだ道を生きてる。それで僕は十分満足しているんだ」

「嘘つきめ!」
俺が投げつけた本を片手で軽く受け止めておまえは笑う。
「本は大切にしなきゃ……」
返された本を俺は見つめた。シンプルな装丁。黒い表紙に刺繍された作者の名前と『ファウスト』の文字。

「知らないね、こんな奴……」
「ゲーテは有名な文豪だよ。加えて科学者で詩人で法律家でもある」
「大昔の亡霊だろ?」
「ふふ……。そうかもしれないね。でも……」
「俺はそんな亡霊より、今目の前にいる人間にこそ関心があるね。つまり、おまえに……」
俺は彼の前に立った。年はこいつの方が上なのに、背丈は俺の方が高い。そんな俺達の間を過ぎる風はいったい何を見ただろう。渦巻いて、ぶつかって、螺旋を描く……。強過ぎる風はその温度差の中で苦悶する。

「……亡霊を呼び出すことができるなら、僕はその人に想いを伝えたいな」
「ゲーテに?」
「いや、僕の想い人にだよ」
「彼女……?」
おまえが伏せた長い睫毛の向こうで散って行く眩い光……。届かない記憶と隠された孤独。

「死んだのか?」
「ああ……」
彼のそんな悲しそうな表情を見たのは初めてだった。
「しかし、完全に死んだ訳じゃない。彼女は今も生きているんだ」
まるで自分自身が生きていないかのように微笑する。その影はあまりに透明過ぎて俺は思わず視線を逸らした。

「センチメンタルなんだな……」
過去を思って泣くのは容易い。だが、彼は風に舞い、足元を過ぎる砂の孤独を知っていた。そして、その瞳は遥か人類の水底を映している。
「君は?」
「同じだ」
見つめた先に俺達の未来の果てがあった。返事はそれだけでいい。

「完全なる人間なんて誰もいやしないさ」
俺は言った。
「そうだね……」

時間と空間の果てで日が暮れる。
その日、俺達は永遠の時間を持っていた。

「人が人である以上、必ず過ちを犯す。だからこそ監視が必要だ」
それがおまえの答えだった。そしてそれが、おまえの逃れられない役割なのだと知った。だけど、俺は認めたくなかった。そんなことのためにおまえを……。運命に取られるのが癪だった。できることならこの俺が運命からおまえを奪い返したいと願った。こいつとならうまくやれる。そんな気がした。だから……。

「俺と来ないか?」
強引だとわかっていた。が、どうしても俺はおまえが欲しかった。その才能が、その英知が……。誰よりも輝いていたその瞳を、俺だけのものにしたかった。
「もしもおまえがあのメフィストだったとしても、俺は喜んで従うさ。もしも人類を滅ぼそうとしている悪魔だったとしても……」
なのに、おまえは済ました顔で笑う。
「……本当にそうかもしれないよ」
「構わない。おまえがおまえであるならば、たとえ何者であろうと……」
幻になどしたくなかった。生きているおまえを捕まえて……。そして……。

何故それほどまでに俺が奴に魅かれたのかわからない。だが、俺の中に強く焼き付けられた残像……。それを覆い隠すことなどもはや不可能だった。

初めてだった。俺がこんな風に人間に惹かれるなんて……。誰も信じられずにここに来たのに……。

けれど俺達は出会ってしまった。何の運命の悪戯か。俺達の螺旋はぶつかり、摩擦を起こして火花を散らす。俺はどうしてもおまえが欲しかった。
「ルシファー……」
紫の花の香りが魅惑的に漂っていた。俺は思わずその肩に手を掛けると、その名を呼んだ。

名も知らぬ草の葉が静かに揺れた。
おまえの白い頬に翠が反射する。
少女のような吐息をついて、おまえは星空を見つめた。

「駄目だ。何も見るな。俺だけを見ていろ」
視界を手のひらで遮る。その手を掴んで彼が訊いた。
「何故?」
「今だけしかないから……」
そう。おまえはもうすぐ旅立ってしまう。だから……。
「そうだね。世界は常にこの一瞬だけがすべてだ」
彼が言った。

「世界は一瞬で輝き、一瞬で死んで行く……」
「そしてまた生まれる……」
俺はそっとその唇をなぞった。
「瞬間の輪廻……」

それは一本の長い螺旋……。互いが互いを求めあい、激しく交差して反発し合う二つの命……。それは決して重ならない。まるで一つのように、運命を共にして……ゆっくりと銀河を回っている……。俺達二つの命のように……。

けれど、おまえは抵抗しなかった。ただ黙って夜の闇を見つめる。
「何故、俺を受け入れた?」
抱き締めた手を緩めずに俺は訊いた。
「……好きだから」
それ以上の答えはなかった。
「俺もだよ」
そう言うと、その首筋に唇を充てる。静かに命が波打って、そこだけが僅かに情熱の色に染まった。

「おまえを繋ぎ止めてる鎖なんか、みんな俺が引きちぎってやる。だから……」
誰にも触れさせたくなかった。一切の邪魔ものを締め出して、二人だけの夜が欲しかった。
「悪い子だね」
彼はそう言って俺の髪に指を通す。その指先でさえも俺にとってはエロスの化身だった。

「僕が抵抗したらどうするつもり? 君は大罪を犯したんだよ」
「大罪? そいつはまた随分と魅惑的な響きだ」
俺の下半身はまだ火照っていた。そして心も……。
「誰も俺を罰することなんかできないさ」
「僕が逃げ出したら?」
鍛えられたしなやかな肢体。なのに、その表情は悪戯を仕掛けて笑ってる子猫のようだ。

「逃がさないさ。このままずっとおまえを押さえつけて、そして……」
何度でも愛してると言わせてやる。
「可愛いね、君」
僅かに彼の半身が動いてその手が俺の身体を浮かせた。
「何?」
一瞬の攻防。何が起きたのかさえわからないまま、形勢はあっと言う間に逆転していた。

俺の上にはおまえがいて、俺は組み伏せられたまま抵抗できずにいた。
「ど…うして……?」
「前にも一度教えたろう? 強引なだけでは勝てないってね」
美しい悪魔は微笑した。
「テクニックはまだまだ僕の方が上のようだね」
おまえの指が正確に俺の弱点を突いて来た。
「あ……」
苦痛と快感が交互に襲った。これじゃ、さっきとまるで逆じゃないか。
さっきと……

――どう? 気持ちいい?
――ああ……
掌におまえを収めて、俺は満足していた。神は下り、低俗な人間と交わることで人の苦しみを知ったのだ。おまえを遠くになんか行かせない。完全になんかならなくていい。ずっと低俗な神という存在のまま……俺の傍に……。
――何を考えてる?
――君と宇宙を感じてる
――俺と……?

「さあ、今度は僕の番だ。悪い子にはお仕置きしないとね」
「お仕置き? 冗談だろ?」
「さっき、君がしたのと同じことだよ。だけど、僕には医学の知識があるからね。君の一番感じやすい部分に触れることだってできる」
「な…にを……」

 闇にもつれて、俺達は互いを愛し合った。好奇心の赴くままに……。そして、明け方。遂に俺は屈服した。
「叶わないな、おまえには……」
ふと見ると、おまえは顔を伏せていた。俺が半身を起こすと、その横顔に星の残像が流れて行った……。
「ルシファー……」
――ずっとこうしていたかった
声にならない想いを抱いて、おまえは何処へ行くのだろう……。そして、俺は……。

 人は何故完全になれないのか。今ならその答えがわかる。性の前に人は溺れ、誰かを愛することでしか、自身を愛することができないから……。俺達はそんな不完全な命を持っている。ここは銀河の中央に位置する。星と命が密集し、新たな螺旋が広がって行くところ……。運命は重なり、そして再び離れて行く……。

――満たされることが喜びならば、満たされないことへの悲しみもまた、その喜びの内に内包されているのだろうね。人は永遠に不完全でありたいと願っているのかもしれない……