星野あざみ短編集
ナギ





突然、耳の奥をやさしい風がくすぐっていった。それから、微かな電子音が響いた。ピピピ、ツーツーツー。
(何だろう?)
私はそっと手の甲で髪を払うと窓の外を見た。白い靄の向こうに、水色の空が霞んで行った。夏の名残りの陽光が眩しい。私は肩に掛った髪を指の先に巻き付けて引っ張ると、視線を前方に移した。教壇に立った中年の教師が意味不明な言語で何かを朗読していた。机の上には開かれたまま何も書かれていないノートと筆箱。教科書にはやはり意味不明の文字と図が並んでいた。前の席の男子は明らかに授業とは関係のない本を見ていたし、右隣と左斜め前の生徒は教科書を盾にして眠っていた。5時間目の授業なんてそんなものだ。私は先生の頭上を移動する光の群れの動きを追った。誰かが鏡を反射させているのだ。その光がゆっくりと動いて先生の渾名を描いた。私は思わず笑いそうになるのをこらえながら鉛筆でそれを書き取った。耳の奥ではまだ、あの音が聞こえている。ピピピ、ツーツーツーピピピ。
(あれ? この波長……)
私ははっと顔を上げると耳を澄ました。
(間違いない)
ピピピ、ツーツーツー、ピピピ。
(SOS……)
即座にナギのことが頭に過った。
――モールス信号だよ
(でも、どうして私に救難信号?)
途切れない電子音。胸の奥で高まり続ける不安。
(波の音……)

――これを耳に当ててごらん? 波の音が聞こえるよ
ナギがくれた巻貝……。けれど、そこからは何の音も聞こえなかった。
――聞こえないよ、何も……。私には聞こえない
私が文句を言うと、ナギは少し悲しそうな目をして、じっと空の向こうを見つめた。
(聞こえないよ、何も……)
その貝は美しかった。濃い藍色のグラデーションに小さな星が瞬いている。そんな模様の貝だった。
――この貝は君にあげる
ナギが言った。
――どうして? 私には聞こえないのに……
――聞こえるよ
彼はそれだけ言って目を伏せた。
聞こえない……。

(でも、今はこんなにもはっきりと聞こえる。ナギの声も、波の音も、それから、SOS!)
私はカタンと椅子の音をさせて立ち上がった。先生が朗読をやめて私を見た。
「すみません。急に気分が悪くなって……。保健室へ行ってもいいですか?」
先生は黙って頷いた。私もだまって教室を出た。けれど、私は保健室へは行かず、昇降口に向かった。音はどんどん大きくなっていたし、波はその音を掻き消そうとして膨らんでいた。それに何より、ナギの姿が重なって見えたから……。

白い病室で、点滴に繋がれて、途切れそうな電子音が響いている。彼は死んだように目を開かなかった。
「ナギ!」
私はどんどん速足になり、海沿いの道を全力で走った。
「ナギ!」
砂浜にその姿を見つけ、私は思わず叫んでいた。
「ナギ……」
「どうしたの?」
彼は驚いて振り向くと、じっと私の顔を見つめた。
「だって、SOSが聞こえたから……。ナギが死んじゃうと思って……」
私は息を弾ませて言った。
「僕は……死なない」
ナギは言った。
「君を置いて、僕は死なない」
「でも……何処かに行っちゃうんでしょう?」
ナギはまた、悲しそうな表情をした。
「また、生まれて来る」
「また?」
「そう。僕はまた、生まれて来る」
「でも……」
と私は言った。
「ここにいるのは今だけ……ただ一度きりのナギなんだよ」
「今……一度きりの僕?」
「そうだよ。だから、駄目だよ何処にも行っちゃ……。今、私の目の前にいるあなただけが本当のナギなんだもの」
彼の目の奥に光る小さな星。
「心配しないで。僕達はもう繋がっているんだ」
「でも……」
潮が満ちて、彼の足元を濡らした。
「ナギ……」
海と空の教会は消え、彼は半分透け掛けていた。
――また生まれて来る
私の髪が風に靡いて彼に絡んだ。そして、ナギの指がそれを掻き分け、そっと私の唇に触れた。
――人と人
彼が言った。
「ちがう。ナギと私」
――そう。君と永遠……

耳の奥で風が鳴った。
でも、電子音はもうしない。
そして、ナギのことは誰も覚えていなかった。7月の七夕の夜、家の隣に越して来たナギのことは、私の他には誰も覚えていなかった。
「前髪に少しだけウェーブが掛かって、笑うと右の頬に笑窪が出るの。家の庭で一緒に花火をしたじゃない? スイカだって一緒に食べたよ。どうして忘れちゃったの?」
でも両親は軽く微笑を返すだけ……。

「それでも、ナギはいたんだ」
私は部屋の机の上に置かれた巻貝を見つめた。
――僕らは繋がっている
私はそっとその貝を耳に当てた。遠くから波の音が聞こえた。そして、ナギ、あなたの声も……。
――僕達、ずっと繋がっているんだ
「そうだね。だから、もう寂しくないよ」
私はそっと貝を机に戻すと、窓を開けた。
そこには無数の星が煌めいて、そこにいるあなたが手を差し伸べてくれたような気がした。