星野あざみ短編集
逃げ水





縁の下の奥からは、ふうっと生温かい風が吹いて来た。
覗くと、深い闇の奥に、金色の目が二つ光って見える。あれはきっとトラにちがいない。トラというのは、祖父母の家で飼っていた縞模様の猫の名前だ。体は大きいけれど、臆病で人懐こい奴だった。けれど、私が布団の中に引っ張り込もうとするといつも暴れて出て行ってしまう。そのくせ、私が眠ってしまうと、いつだってちゃっかりと布団の中に入って来て眠った。
私の家にも猫はいたけど、両親が寝る部屋に猫を入れてはいけないと言うので、私はいつも一人で眠った。それが、祖父母の家に泊った晩には、そんなうるさいことを言う者はいなかった。いつもなら8時には蒲団に入るのだが、祖父母の家では夜更かしだってへっちゃらだ。家が近いこともあって、私は毎週のように週末をこの祖父母の家で過ごしていた。
古い欅で出来た家は広く、大きな畳の部屋が4つと廊下。四方には障子があって、年末の大掃除の時には親戚一同集まってこの障子の張り替えなどを手伝う。全部で36枚もの障子を張り返る作業は思ったよりもずっと時間が掛かった。子どもらは喜んで古い障子を破いたり、井戸に汲んだバケツの水に浸した雑巾でびちゃびちゃに濡らして、桟に残った紙をこすり取った。そして、障子を貼るのは女達。見事な手際で仕上がって行く。その貼ったばかりの障子に穴を開ける子ども達。が、祖母は叱ったりせずに空いた穴の上に黙って花型の紙を貼って行く。それが青空に映えてきれいだった。
家は中二階の造りで、上は倉庫になっていると聞いたけれど、上るための階段は何処にもなかった。縁の下には大きな梯子が置いてあったから、上に行く時にはあれを使うのだろうか? 
この家には幾つかの不思議があった。何に使うのかわからない大きな石や二つあったトイレの片方の壁に意味のわからない落書きや沁みが浮き出ていたり、大きな栗の木と様々な植物に囲まれた奥に祀られた神様。そういえば、祖父の枕元にはよく神様のお使いの蛇が現れると言っていたっけ……。お風呂は別胸の小屋にあったし、池巣にはたくさんの魚が泳いでいた。ウサギやチャボやキジバトもたくさん飼っていた。
廊下には十円玉くらいの節穴が一つあって、そこを通る度に覗いて要るのだけれど、中は真っ暗で何も見えなかった。けど、そこから流れて来る空気は長い時間を巡って来たのだというにおいを醸していた。

猫はじっとこちらを見つめていた。周囲が暗いので目だけしか見えない。縁の下はかなりの高さがあったけど、そこまで行くには勇気がいった。空気は湿気っていたし、蜘蛛の巣を避けるのは難しそうだ。鼠だっているかもしれない。トラはその鼠を追って行ったのだろうか? それとも雲の妖を追って……?

その家は夏の夕暮れが似合った。大きなオレンジの百合が見事に咲いて、その影は、着物を着た女性の立ち姿によく似ていた。水と緑と生き物のにおいに満ちて……。夕方になると祖父が七輪で火を起こす。絡み付くような空気の中でヒグラシが鳴いていた。揺らめく光と影の格子戸をくぐると、逃げ水がどんどん遠くなる。
足元で猫が鳴く。光を失くした目で見つめて来る。そのトラも、今はもういない。思い出の中でしか存在しない家と共に、トラもまた消えてしまった。そこに住んでた妖と共に……。黒光りしていたあの大きな柱の向こうには、きっとこちらの物には通じ得ない道があったのだろう。

その日、鉄球はあの家の屋根を潰すため、何度も何度も振り下ろされた。
そこに住んでいた目に見えない者達も、感慨深げにそれを見守り、私の脇を通り過ぎて行った。
「逃げ水……」
目の前の道路を行く車の軋む音が、時代の終わりを告げるように小さく鳴った。