星野あざみ短編集
交差点





彼に会ったのは渋谷の駅前交差点。その時、彼はすれ違って行く大勢の人々の一人に過ぎなかった。私はその日、最悪の気分だった。待ち合わせしていた友人が急に来られなくなり、せっかく都心まで出て来たのに、あとの時間をどうやって過ごそうかと思案していた。映画でも観ようか、それとも、ショッピングでもしようか。でも、観たい映画も特になかったし買い者するにはお財布がピンチ。でも、せっかくここまで出て来たのだから、本屋さんにでも寄ろうかな。そういえば、今日は楽しみにしていた小説の新刊が出る日じゃない。それと雑誌も買って……などと考えながら歩いていたから、彼が私に向かって来るのなんかまるで目に入らなかった。
「やあ」
彼は、私の前で足を止めると親しそうに笑い掛けた。若い男。ちょっと浮世離れした感じの……。芸能人かな? スタイルも決まってるし……。でも、私にはそんな知り合いなんていない。人違い? それとも、新手の軟派? いや、そんなことは絶対ない。生まれてこのかた、男に軟派されたことなんてないし、あって欲しいとも思わない。恋人は本の中に出て来るキャラクターだけだと決めている。できるなら、フィクションの世界と同居したいと願っているくらいだ。私には実際、三次元の男の良さなんてわからない。私はそういう性癖の持ち主なのだ。だから、私は彼を無視した。そして、何事もなく道路の向こう岸に辿り着いた。軽く振り返って見ると、もうその人の姿はない。雑踏に紛れてしまったのだ。そして、信号が変わり、人々の流れが止まり、車の列が動き始めた。私は半ばほっとして目的地へと急いだ。
「いやだな。忘れちゃったの? 僕だよ」
突然脇から声を掛けられ、びくっとして止まる。何? この人、さっきの……。いやだ。付いて来たんだ。私は振り切るように速足になった。けど、彼はまだしっかりと付いて来る。
「待ってよ。話がしたいんだ」
「話すことなんかありません」
私は冷たく言った。
「待って!」
彼は私の腕を掴んで引き止めようとする。
「ごめんなさい。急いでるの!」
私は強引に振り払って逃げようとした。
「少しだけでいいんだ」
「やめて下さい。私、あなたのこと知らないし、人違いじゃありませんか?」
「知らない?」
彼は少し悲しそうな顔をした。
「ええ。今初めて会いました。だから……」
「……そんな筈はない」
彼は納得しなかった。
「事実です」
私は突っぱねた。
「そんな筈はないんだ」
彼は繰り返した。
「いつだって君だけを見ていたんだから……僕はいつだって君だけを見て……」
「は?」
何言ってるんだろう、この人。怖い。ストーカー? 少しイカレ入ってる……?
「君だって僕を見てたじゃないか」
「そんなこと……」
私は否定しようとしたけど、彼の目がそれを許さない。何だろう、大きくて艶々して磨かれた黒曜石みたいな……。
「いいですか? さっきから言っているように、私はあなたを知らないんです。この手を放してくれないなら人を呼びますよ」
一気に言った。そうよ。昼間なんだし、ここでちょっと大声を上げれば、人なんか大勢いる。すぐに人が集まって、誰かが警察へ通報するだろう。駅前には交番だってある筈だ。大声で叫んだら聞こえるかも……。そうよ。ちょっと大声で叫んだら……。
「誰も来ないよ」
彼が言った。
「え?」
私は彼を見つめ、それから、ゆっくりと周囲を見た。

「どういうこと……?」
雑踏が消えていた。あれだけ大勢いた人々も、車も、何もかも……。まるで生気のない抜け殻のようなビルと商店が続く。
「どういうこと?」
もう一度訊いた。
「フィクション」
彼が言った。
「会いに来たんだ、君に……」
「会いに来たってその……」
私は戸惑っていた。それってどういう意味なんだろう。まるでわからない。この人のことも、今、私がたっているこの世界も……。
「名前は?」
私はそう訊いてみた。
「まだ、ない」
彼は真面目にそう言った。
「まだ、ないって猫みたいだね」
「君が付けて」
「そんなこと、急に言われても……。別に赤ん坊が生まれた訳じゃないんだから……」
私が困惑していると彼が言った。
「生まれたんだよ、たった今」
「生まれた?」
「君の頭の中から……」
「キャラの具現化?」
確かに、私は物語も書くけど、だからってそんなこと……。もし、そうなったらいいなとは思うけど、現実には有り得ない。そんなことくらいちゃんと知ってる。
「そりゃ、たまには頭の中でキャラと会話することくらいあるけど、あなたはあまりにはっきりしてる。まるで本物の人間みたいに……。あたたかいし、力強さも感じるし、それに……」
「だからって否定するの?」
「そうよ。だって……」
「たとえどんなに否定しようと、君はとっくに僕と交わっているんだよ」
「交わるだなんて、気持ちの悪いこと言わないでよ」
「交わってるんだ。もう元には戻れない。ここはもう、僕の世界でもあり、君の世界でもあるのだから……。世界は融合してしまったんだ」
「融合って……」
「君が思っているより、世界はずっと柔軟に出来ているんだ。願えば書き換えることだって可能なんだよ。君は願った。だから、僕が今ここにいる」
「私は願ってない」
「願ったさ。君は現実を否定し、フィクションでありたいと思った。そうでしょう?」
「フィクション……」
そうかもしれない。でも……。私は急速に不安になった。
「でも、現実は? どうなったの? そこに生きていた人達は?」
「存在してるよ。ただ、少し混ざり合ってる」
「少し?」
「支障はないさ。それに、僕達には関係がない」
「そんなことはないでしょ?」
「僕にとっては君だけがすべてだから……他のものなんてどうだっていい」
彼は強引に抱きついて来た。
「そうは行かないわよ。だって、現実には……」
いやなこと。悲しいこと。苦しいこと。どうしてだろう? いやなことばかり思い出す。でも……。私は彼を突き放して言った。
「願えば変えられると言ったわよね? 世界を書き換えることもできるって……」
「ああ」
「じゃあ、願うことにする。今すぐあなたはフィクションの世界に帰るのよ! そして、何もかもを元通りにするの混ざり合う前の世界に!」
「どうして?」
彼が言った。
「僕達、やっと会えたのに……どうして……」
彼の姿はだんだん霞んで行き、雑踏が戻って来た。

「どうして……?」
それは私にもわからない。でも、これでよかったんだと思う。現実なんか忘れて、キャラクターとだけ過ごせたら幸せだったかもしれないけど、私にはそれができなかった。風に吹かれて舞い落ちた木の葉がすっと足元をかすめて行った。私はその行方を愛で追いながら、風に向かって呟いた。
「好きだからこそ行けないんだ」