星野あざみ短編集
未来





思えばそれが世界へと続く分岐点だったのかもしれない。
森へ向かう散歩道。古い建物へと続く石畳。そして広大な庭や大通りへと通じる広場。
黄昏の中で鳥が舞い、飛沫となって落下する噴水の光は、古い映写機から映し出されたようなノイズと淡い色彩が混じっていた。

その日、両親は長い話し合いをするために、ぼくをその屋敷に連れて来た。厳めしい顔つきをした大人達の間で行き場をなくし、ただ右往左往していたぼくの扱いに、彼らは困っていたのだろう。大人の誰かがぼくを散歩に行こうと連れ出した。
「敷地の中なら安全です」
紳士が言った。
――敷地の中なら
それはここから見えるすべての景色を指していた。木立ちの向こうで兎か栗鼠か、小動物の影が覗いた。思わずそちらに足を踏み出した時、風がぼくの心臓を鷲掴みにした。息が詰まり、鼓動が跳ねた。何だろう。この感じ。曇ったスクリーンのような空の一点から降り注ぐ光とぼくの影がクロスする。流れ込んで来るメロディーの確かさに、ぼくは心震わせた。それはキャンバスに描かれた記憶。

古びた石段の上で、男は絵筆を走らせていた。森を描いているのかもしれないし、光を描いているのかもしれなかった。ぼくはその人に近づいて訊いた。
「ねえ、ぼくのこと覚えてる?」
「ああ」
男は一瞬だけ筆を止めて言った。
――覚えてる
それがうれしくて、ぼくはしばらくその人の隣に座って飽きずに筆が動くのを見ていた。それきりぼく達は口を利かなかった。時に互いの存在を忘れ、時折確かめ合っては満足した。が、ふいに男はキャンバスを抱え、何処かに行ってしまった。最初にぼくを外へ連れて来た人の姿もいつの間にかなくなっていた。広い敷地にぼくは一人。それでもぼくは構わなかった。だって、ぼくはここを知っているんだもの。そう。ぼくはこの場所を知っている。それだけで十分だ。
その時、兎が目の前の階段を降りて行った。
「待って!」
ぼくは慌ててそのあとを追った。一度だけ振り向いたその目がいたずらっぽく笑う。付いておいでと挑発してる。

そうして僕はその建物を見つけた。石枠で覆われたそれは古い円形劇場のように見えた。僕はそっとその扉を開けて中に入った。
「暗い……」
ここは映画館なのか。切り刻まれた光の中に沈むセピア色の調べ……。厚く閉ざされた石壁の向こうで、映写機が回っている。けれど、観客席は空っぽで、底のない天井には小さな星が光って見えた。ぼくは一番うしろの席に腰を下ろして画面を見つめた。音は幾重にも反響し、画面はざらついて何も見えなかった。

「ポップコーン」
隣の席の女の子が、ぼくにそれを差し出した。
「ありがとう」
ぼくは指で摘んで口に入れた。ちょっぴり懐かしい海のにおいがした。
「ねえ、君はいったい……」
そう話し掛けた時にはもう、その子の姿は何処にもなかった。座席の上にはただまっすぐにスクリーンを見つめる兎のぬいぐるみが一つあるだけ……。
「女の子……」
ぼくが呟く。その毛並みは淡いセピアで射し込んで来る細い光に輝いていた。
――ずっと待っていたのよ
兎が言った。
「そうだね。ぼくもずっと待っていた」
二人とも正面を見たままで言った。
「ぼくね、今日ほんとはここに来たくなかったんだ」
――どうして?
「選ばなくちゃならないから……」
胸の奥で鳴り響く音楽は繰り返し聞いた子守唄。
――あなたが決めなくちゃいけないの?
「パパはぼくを欲しがってる。けど、それはママだって同じさ」
――あなたはどちらと行きたいの?
「……わからない。でも、パパはすぐに怒るから嫌い。けど、ママには新しい恋人がいる」
――それはいやなことなの?
「その人のことは好きだよ。ぼくを可愛がってくれるもの。でも……」
ぼくは兎を抱き寄せてスクリーンを見た。が、そこには何もなかった。小屋の中には雑然と積まれた箱。子ども用の椅子や少し埃を被ったおもちゃ箱。暗闇の中、はみ出したロボットの目がサーチライトのように部屋の中を照らした。
――わたし、もうずいぶんと長いこと待っていたのよ
兎の言葉にぼくは胸が熱くなった。それから、ポップコーンのような塩味の涙が兎の顔を濡らした。
――ぼくのこと覚えてる?
「帰って来たんだ、ここへ……」

その時、小屋の扉が開いて、ママがそこに立った。
「探したのよ」
ママはそう言って佇んだまま、兎を見つめた。
「ぼくが見つけたんだ。だから……」
ママは黙って頷いた。
外はすっかり夜になっていた。空には星が瞬き、建物の窓にはぽつぽつと灯りが灯っている。その窓の何処にパパがいるのかわからなかった。けれど、ぼくはママの手にしっかりと掴った。パパは姿を見せなかった。いつものことだ。だから、ぼく達は広いその家の敷地を横切って大通りに出た。