星野あざみ短編集
獲物





微かに潮のにおいがした。だが、ここは海岸から数十キロも離れた内陸の田舎町だ。
(妙だな)
男は思った。
(今夜は風も騒いでいる)
男は軽く目を閉じ、指を立てると風を読んだ。土塀の上に男はいた。そこから遥か虚空の空を見上げる。物音一つしない夜だった。生きる者の気配さえない。寂しい夜だと男は思った。幾重にも層を成した闇の恐怖に怯えたような偶像の時間が流れる。
土は乾いていたが、空気には湿気が含まれていた。崩れる天気の前触れだろうか。そう遠くない時刻に雨が降り出す。男はそう確信した。
(早く済ませなければ……)
男は音もなく壁の内側に忍び込むと、屋敷の裏庭を横切って土蔵へ向かった。
その目は闇に慣れていた。明かりがなくても昼と同じように素早く行動することができた。実際、敷地の中には街灯がなかった。母屋の近くに一つ。それに7つ並んだ蔵の間に二つ。その蔵と蔵との間もかなり広く空いていた。それらの間には池や鳥小屋があり、土蔵は東に四つ、西に三つ、それぞれが対角線になるように建てられていた。男は迷わず西の中央にある土蔵を目指した。監視カメラのスイッチは事前に切っておいた。闇に潜んでいた犬が唸り声を立てた。が、男はポケットから出した食べ物を放って黙らせた。
「いい子だ」
男は軽く犬の頭を撫でた。それから蔵の扉に合い鍵を差し込んで回した。錠は外れ、扉は簡単に開いた。
中には底なしの闇が広がっていた。そこにはこの家に代々伝わる因縁の品々が詰まっていた。世に出れば何十万、何百万という値が付くであろう品物が無造作に置かれている。
しかし、男はそんな物には見向きもしなかった。それらの大道具達を横切ると一番奥にある飾り箪笥に向かった。その引き出しの奥にもう一つ鍵の付いた小引き出しがある。男はその鍵穴に細い針金を差し込む。鍵はすぐに開いた。そこには一枚の板があった。およそ15センチ四方のただの板のように見える。男はそれを大事そうに取り出すと指の腹でそっと撫でた。
その時、また、潮の香りがした。微かに開いた天窓から流れ込んで来るようだ。
(外か)
ふいに犬の唸り声が響いた。彼は土蔵の壁に因ると耳を澄ました。向かい側にある土蔵の方からだ。それに人の気配もする。彼は持っていた板を急いで懐に入れ、箪笥の引き出しを閉めて、すべて元通りにした。それから用心深く辺りを見回すと闇に紛れて外に出た。扉のところで、さきほど餌をやった犬がとろんとした目で彼にすり寄って来た。
「ほら、もう一つやるからお眠り」
彼は囁くように言うと犬にそれを与えた。犬はすぐに眠りに落ちた。だが、問題は……。東の土蔵の一つから人影が現れた。少年だった。彼は周囲を見回し、誰もいないのを確かめると急いで塀に向かって駆け出した。そして、高い木の枝を渡り、あっと言う間に壁の上に達した。
(ほう。見事じゃないか)
男は感心したように見つめた。が、少年を追手いた犬が塀に飛び付き吠え立てた。彼は慌て、犬を追い払うような仕草をした。が、犬はしつこく食い下がる。
(何故とっとと行ってしまわないのだろう?)
男は一歩踏み出して、その訳を悟った。犬がその者の靴紐を咥えて放さないのだ。
(なるほど)
男は落ちていた小石を掴んで投げつけた。
「きゃん!」
犬は悲鳴を上げて噛んでいた紐を放した。その隙に塀の上の少年は姿を眩まし、男は眠り薬入りの餌を投げて、その犬を沈黙させた。
「さてと、坊やは何処に行ったかな?」
男は軽く塀を跳び越え、闇を嗅いだ。微かに潮風の香りがする。
(海のにおいはあの少年か)
あとは楽勝だった。その香りのあとを追えばいいのだ。彼は先回りして待ち伏せた。

少年は夢中で駆けていた。絶対に捕まらない自信があった。だが、今回は失態だ。犬はきちんと餌付けたのだ。そのための対策は万全だった筈だ。だが、今回は彼が撒いた餌では足りなかったようだ。犬は更に寄越せというように絡み付いて来たのだ。それに、まさか靴紐が弱点になるなどとは想像もしていなかった。次からはもっと注意しなければと思った。それに、靴紐だって用心していた。ちゃんと接着剤で固定していたのだ。なのに……。風が冷たくなっていた。彼は自分を助けてくれた男のことを思いながら角を曲がった。途端、誰かに腕を掴まれた。その男はふいに闇の中から現れて彼の耳元に囁いた。
「戦利品は何だったの?」
「あの、僕は……」
何のことだかわからないといった風に少年はしらを切ろうとした。が、その男にはそんなごまかしなど通用しないと直感した。少年は力を抜き、項垂れて唇を噛んだ。
「僕をどうするつもりですか?」
「別に……」
少年の問いに男は即座に答えた。
「少し興味があったのでね」
「興味?」
「君はなかなか良い尻の形をしている」
男の手が素早く少年の尻を掴んで撫で回した。彼はひっと悲鳴を上げてそこから逃れようともがいた。が、男はそんな彼の腕を更に強く握って来る。
「怖がらなくてもいいんだよ。君を警察に突き出すようなことはしない」
少年は半信半疑だった。が、無邪気さと冷たさが同居しているような不思議な目で見つめられると、何も言い返すことができなかった。
「ほんとに僕を助けてくれるんですか?」
男は頷く。
「さっきも助けてあげたろう? 私もね、君の行いを責めるような立場の人間ではないんだ」
「でも……」
「言っただろう? 興味があるんだ。純粋にね」
少年は俯いた。風がゆっくりと東へと流れていた。
「まずいな。雨が降り出して来そうだ」
男が言った。
「でも、天気予報では、今夜は曇りだって……」
「私にはわかるのさ。さあ、こんなところにいたのでは風邪を引いてしまう。場所を移そうか」
男が腕の力を緩めたので、少年はいきなりその手を振り払って駆け出した。
「やれやれ。私も信用がないんだな」
が、彼はあとを追わなかった。
「まあ、いいさ。君にはまたいつか会えそうな気がする。君が追手いる物と私の因縁とがクロスしているようだからね」
そう言うと男は闇に向かって微笑した。その肩にほつりほつりと雨粒が当たる。
「また、いつか会おう。」
水滴が男の影を揺らす。懐には彼が欲した獲物が入っていた。からくりに閉ざされたページの一枚が……。そこに示された闇を解くために、彼は危ない橋を渡っていた。だが、あの少年は……。
「可哀想に……」
闇の風の語り部に耳を傾けていた彼がそう呟く。
「次はあの子を手に入れよう。私にはさほど時間が残されていないのだから……」
彼は旅館の一室から夜を見上げた。