星野あざみ短編集
クロスバード





スコープの向こうで羽ばたくものを、俺は撃った。銃の重さにも、奪われる命の罪悪感にも耐えられる鉄の心が欲しくて、俺は一人で森の中を彷徨っていた。
撃ち落とした獲物は肉食の獣にくれてやった。それは群れから逸れた狼の子どもだった。後ろ足の片方が短く、関節が硬縮していたそいつは自力で餌を取るのは困難だろう。俺はそいつに獲物を分けてやった。はじめは警戒して逃げ出してしまったが、何度目かには、それを引きずって行った。更に日が経つと、俺が観ている前で獲物を貪った。俺は黙ってそれを見ていた。羽が散り、そいつの顎から血がしたたった。獲物は無残に引き裂かれ、獣の腹に収まって行く。
「そうだ。今のうちに喰っておけ。次にもまた獲物に有り付けるとは限らないからな」
そいつはウウッと歯を剥き出して威嚇した。
「誰も信じるな。俺はおまえの味方じゃない。人間はいつ裏切るかしれやしないんだ」
それからも何度か俺はそいつに出会った。その度に、俺は獲物を分けてやった。一度などは少し離れたところから、じっと俺の狩りを見つめていた。が、銃声に驚いて、そのまま何処かへ駆け去った。それでいい。ここは狩猟区。人間に慣れ過ぎては返って危険だ。それから数日の間、奴は姿を見せなかった。それでも俺は毎日森へ通った。奴のためではない。俺自身のためにだ。もっと正確に、もっと効率よく俺の獲物を狩るために……。

その日も俺はスコープを覗いていた。飛来する鳥の影を追って……。標的が十文字に重なる。逃がさない。瞬間的に発射角度と速度を計算してトリガーを引く。奇声のような断末魔を残し、影がさっと過る。命中。今のはいい獲物だ。俺は落下地点へ向けて駆け出した。
が、そこまで行くと、その獲物には既に他の獣が取り付いていた。後ろ足を引きずっていたあの獣だ。奴はたった今自分が仕留めたのだという顔をして俺を見上げた。
「いいだろう。その獲物はおまえにやる」
そいつは酷く痩せていた。毛並みも悪い。いずれは飢えて死ぬだろう。だから、今のうちに食えるだけ食っておけ。それは、俺にとっては必要のないものだから……。

その時、突然ライフルの銃声が響いた。近い。しかも甲高い悲鳴が犬の声に混じって聞こえた。あれは動物ではない。俺は反射的にそちらへ向かった。この辺の地形ならすべて把握している。狩猟区になっているとはいえ、この辺りにまで人が近寄ることはほとんどなかった。途中、要りくんだ木々の向こうを慌てて駆け去って行く男とポインターの姿を目撃した。撃った獲物を探しているのか。ここには鹿や兎も豊富にいた。ハンターはよく鹿を狙う。それにしても妙だ。男が獲物の声とは反対方向へ駆け去って行ったからだ。
道から逸れた現場に辿り着いた俺が見たものは……服を着た獲物だった。予感は的中した。倒れていたのは鹿ではない。人間の少女だった。彼女は膝下から血を流し、痛みに顔を歪めていた。
「誰にやられた?」
手を差し伸べようとした俺を拒むように、そいつはきつく俺を睨んだ。
「放っといて!」
「その傷、撃たれたんだろ? さっき逃げてった男か?」
俺の問いに彼女は答えず、木の幹にすがると、足を引きずって立ち上がろうとした。が、たちまち苦痛で体が屑折れる。
「無理するな。早く病院に行った方がいい」
肩に触れようとした俺の手をぴしりと打って彼女は言った。
「余計なことしないで!」
「何故?」
「そんなことしたら家に連れ戻される」
年はまだほんの12、3。俺より4つ、5つは年下だろう。そんな少女が帰りたくないと言う。だが、俺は否定しなかった。
「理由があるのか?」
「あんたにはわからないよ!」
子どもの目は荒んでいた。服もしばらく替えてないようだし、体のあちこちに痣が見えた。
「わかった。だが、手当はした方がいい」
俺はいやがる彼女を強引に抱きあげると森の中を歩き出した。
「いやだ! おろせ! このろくでなし! おろさないと、酷い目に合わせるよ!」
彼女は喚き続けた。そして、俺を叩き、傷のない方の足で思い切り蹴った。
「よせよ。体力が落ちるぞ」
「あんたがいけないんだ! 放っといてくれないから! あんたが!」
「ああ。だけど、放っといたら死んじまうだろ?」
「ははん。どうしてそんなことが言えるのさ?」
「今夜は雨が降る。一晩中冷たい雨に濡れてたら肺炎を起こすだろう」
湿気を含んだ雲が空を覆っていた。
「ふん。そんな柔じゃないわよ!」
彼女はぷいと横を向いた。
「そうだな。そうかもしれない。だが、放っとけなかった」
「何故?」
「誰も信じられないって目をしてたから……」
「そうよ! 信じられるもんですか! 人間なんてみんな獣よ! あんただって……!」
再び両腕を振り回して、彼女は俺の背や肩を打った。
「……俺は獣になりたかった。いや、今はもう獣になりかけているのかもしれない」
俺はあの狼の子どものことを思っていた。
「なら、何でわたしを助けるの?」
「さあ、どうしてかな? 俺と似ていると思ったからかな。同じにおいがしてたから……」
「同じにおい?」
「仲間から裏切られた」
仲間だと信じていた人間共に……。
「それで、あんたも森に住んでるの?」
彼女が訊いた。
「おまえはもりに住んでるのか?」
逆に質問する。
「住もうと思って……塒を探してたところ」
少女の目は青く澄んだ色をしていた。
「だから、そんなにぼろぼろになってたのか?」
「ちがう。これは身内にやられた……。ねえ、知ってる? 銃じゃなくても人が殺せるって……」
「ああ」
俺が頷く。
「学校も警察も、何の役にも立たなかった」
そうだろうさ。俺はその事実を十分過ぎるほど知っている。世間の冷たさを……。そして、人間が何処までも残酷になり得るのだという現実を……。俺はますますこの少女に興味を持った。

「着いたぞ」
俺は山小屋に入ると彼女を床に下ろした。
「ここ、何処? あんたの家?」
「ちがう。けど、俺の他には誰も知らない。ここには誰も近寄らない」
「秘密の場所?」
「そう。ここなら多少の食糧もあるし、薪もある。火を絶やさなければ獣も襲って来ない」
「まさか、あんたと暮らすの?」
「俺はここの住人じゃない。時々使わせてもらってるだけさ」
「帰る家があるんだね」
少女は少しだけ落胆したように言った。
「家はある。でも、それは俺の家じゃない。だから、時々ここに来る」
俺は子やの中にある物を説明し、彼女があまり移動しなくても届くように棚の上にあった物を下ろした。
「傷を見せて」
俺の言葉に彼女は警戒心を露にしてあとずさった。
「医者を呼びたくないんだろう? なら、消毒くらいしておかないと……」
散々てこずったが、何とか黙らせると傷を点検した。幸い、弾は残っていなかった。出血も止まっていた。ただし、骨に罅が入っているかもしれない。
「念のため、添え木をしておこう。もし、酷く痛むようなら、やはり病院へ行かないと駄目だ。詳しいことはレントゲンを撮ってみないとわからないから……。二、三日したら様子を見に来る。それまではあまり動き回らない方がいい」
それから、薪を燃やして缶詰のスープを温めて渡すと彼女が言った。
「あんた、いい人だね」
「何だ、人間は信じられないんじゃなかったのか?」
「そうだけど……」
「なら、信じるな。人は裏切るものだから……」
「何だい! 信じてなんかいないよ、はじめから!」
「俺は人から信頼されるほどいい奴じゃない」
そうだ。俺は俺が大切にしていたものを奪った奴らを憎んでいる。守れなかった自分の弱さを……。鋼のように強く……! もっと強く! 誰にも負けない強さを手に入れことができれば……。ふと、小屋の外で鳥の羽ばたきが聞こえた。俺は何も掴むもののない自分の拳を見つめた。強くなって、そして……。自分自身が求めるものも、今はまだ漠然とし過ぎていた。俺はこの手で何を守ろうとしているのか。或いは手放そうとしているのか。
「でも、もしおまえが社会に帰りたいと言うなら……」
「いやだ! 絶対に帰らない! 家にも学校にも! 秩序だってるありとあらゆる社会にも……」
彼女はそう言って暴れた。
「わかった。なら、好きにしろ」
俺はそうして山小屋を出た。

それから数日して再び森を訪れた時、あの狼の子どもが他の肉食獣に殺られたことを知った。ばらばらに引き裂かれた死体。他の足より短かく、変形したうしろ足。やはり生きてはいけなかったのだ。俺が奴に施したことは本当に正しかったのだろうか。一瞬でも喜びをもたらしたか。それとも、俺に付いて来れば分け前をもらえると、堕落させたか。強くなければ生きられない。野生でも、人間の社会でも……。弱い者を助けることが何故逆の結果を生むのだろう。護ろうとして行ったことへの報復。俺が間違っていたのだろうか。それとも世間が……。
結論はすぐそこに用意されていた。

山小屋は荒らされていた。少女を撃ったあの狩人が戻って来たのだ。小屋の外ではポインターが2匹。戸口近くのくいに繋がれていた。そして、臆病な狩人は小屋に押し込み、彼女を犯した。
結論はすぐそこにあったのだ。
「連れて帰ればよかった」
入り口に立ったまま俺は言った。ぎょっとして振り向く男。そこにあった食料をたっぷり胃袋に詰めて、男の顔はてらてらと赤く輝いて見えた。半裸にうつ伏せていた彼女の顔は炎に照らされて青く透けている。
「たとえどんなに拒まれたとしても、連れて帰ればよかった」
燃える炎の陰影を纏い、憎しみの銃弾が火を噴いた。