星野あざみ短編集
ネペンテス





彼は子どもの頃から自分の容姿に強いコンプレックスを抱いていた。頭の形が歪で氷上筋が歪み、顔が引き攣れて見えるからだ。その影響で首や肩の位置も普通の人とは少しずれていた。彼を見た者は大抵、一種の嫌悪感ともいえる違和感を覚えた。

鏡を見るのがいやだった。自分では笑っているつもりでも、端から見ると眉を吊り上げ、怒っているようにしか見えないからだ。それでいつも、損ばかりしていた。可愛くないとか、怒ってばかりいるから近寄り難いとか、変な目でばかり見られた。しかも悪い病気が伝染ると困ると、親達は自分の子どもと彼とを接触させようとしなかった。だから、彼はいつも一人ぼっちだった。教室で本ばかり読んでいた。本を読んでいる時だけが彼の唯一の幸福であり、好奇心を満たしてくれた。

そして、もう一つ。彼の好奇心を満たしてくれたもの。それは虫だった。人間から忌み嫌われる昆虫。その生態に興味を抱いた。図鑑で調べると、彼らも様々なところで環境に役立っていることを知った。ミミズや蜘蛛や蟻に毛虫……。人間からは嫌われても皆、壮大な命を循環するための一助を担っているのだ。醜いからといって根絶してしまえばいいという単純な問題では済まなかった。人間にとっては有害でも、他の生物にとっては掛け替えのない存在かもしれないのだ。一つの種を人為的に駆除すれば、すべての生態系が崩れてしまう。自然に淘汰されて行くことはあっても、人間が自ら手を加えることは許されない。
「そうさ。あえて加害者になることはないんだ」
彼は思った。共生して行くこと。それが肝心なのだと……。だから、大人になった彼はそんな研究を続けた。一人、研究室に籠り、実験を繰り返し、観察を続け、書物に埋もれながら論文を書いた。結婚はおろか、女と交際したことさえ一度もなかった。当然だ。自分はこんな容姿なのだ。見た目がすべてのこの世界では、誰も相手になどしてくれない。そう思いこんでいた。

周囲は彼を変人と見なしていた。或いは見た目の不自然さから、少し知恵の足りない者だと思われている節もあった。たまに訪ねる役所や病院の窓口で、
「これ、わかりますか?」
などと何度も念を押されたり、ゆっくりと大きな声で繰り返されたりしたのは一度や二度ではない。まるで幼い子どもか耳の遠いお年寄りに話し掛けるような調子で説明されることもよくあった。相手は善意のつもりなのだから、多少腹の立つことがあっても彼は我慢し、黙って頷くことにしていた。余計な厄介事はごめんだった。今は静かな環境で、思う存分研究が続けられることが彼にとっては大事だった。

そんな彼が、ある日、花屋の娘に恋をした。それは笑顔の似合う可憐な娘だった。夏のはじめ、店先に並んだ食虫植物を眺めていたのがきっかけだった。グロテスクに身をくゆらせて、魅惑的な芳香を醸し、ぱっくりと開いたその唇の奥に虫を誘き寄せるのだ。
「ネペンテスに興味がおありですか?」
娘はそう言って話し掛けて来た。
「ええ」
男は言葉少なに頷いた。
「店の中にはもっと見事な鉢もありますよ」
清潔な身なりとそこから漂い出る芳しい香り。男は誘われるままにふらふらと店の中に足を踏み入れた。そして、勧められるままにネペンテスの大鉢を一つ買った。
娘が言った通り、それは見事な品だった。それはきっと、これからの彼の研究に役立つだろう。男は大いに満足した。そしてもう一つ。娘の示した態度も、彼の目には新鮮に映った。娘は男を普通の人間のように扱ったのだ。会計の時も、育て方のポイントをアドバイスしてくれた時も、彼を特別扱いなどしなかった。そして、何より、彼女はレジの上を這い回っていた蜘蛛を逃がしてやった。それを見た男は心の中で微笑した。

それから男は事あるごとに花屋を訪れ、その度に娘と親しくなった。そして、ある日、遂にその娘を自分の研究室に招いた。彼女が彼の研究内容に興味を示したからだ。そこには山積みの本と蜘蛛がいた。
「今は蜘蛛の研究をしているんですよ」
男が説明した。
「でも、これだけいると少しぞっとしませんか?」
娘が僅かに首を竦める。確かにその部屋にはあらゆるところに蜘蛛と蜘蛛の巣があった。
「いいえ。だって、あなただって周り中植物に囲まれて過ごしても平気でしょう? 同じことですよ」
男が平然と答える。すると彼女も平然と言った。
「そうですね。言われてみれば、あなたのおっしゃる通りです」
彼女が笑ったので、男も半分引き攣れた笑顔を作った。
「わたしね、実は思っていたんです。人間だけが言語を獲得し、思考する知恵を持っているのではないんじゃないかって……」
声を潜めて娘が言った。男は身を乗り出してそれに応じた。
「おお、何ということだ。私もです。そのことは常々思っていました。人は視覚で物ごとを判断し過ぎているのです。どこかで本質的なことを見誤っている。例えば、ここにいるこの蜘蛛達はちゃんと学習するのです」
「それは実験か何かで?」
娘が訊いた。
「いえ、読書です。彼らは本を読むのです。彼らは言語を理解している。表現する手段を持たないだけで、実は人間よりも数倍賢いのかもしれない」
「ああ、それは植物にも言えることかもしれません」
少し考えてから彼女も言った。
「発声器官や目に見える文字という媒体を持たなかったとしても、それが知恵を持たないという証拠にはなりません。脳の大きさや重さについても同じです。我々は人間という枠組みや物の見方に囚われ過ぎているのかもしれない」
「本当にその通りだと思います。人間は少しの差異も認めようとはしないのですもの。あなたのように、どこからどう見ても人間の枠内にあるものを押し出してしまう。それでも高等知能生物と言えるでしょうか」
娘の目は爛々と輝いていた。
「そうですとも。私のような人間は今の社会では生き難いのです」
男の目にも熱意が漲る。
ネペンテス。
芳しい巨大な蜜壷の中で二人は愛し合った。傍らには山脈のように本が積まれ、天井に張り着いた1匹の蜘蛛の複眼に映る光景を、人類はまだ誰一人気がついていなかった。