星野あざみ短編集
ベルヌの塔





往来には殆ど人通りがなかった。初夏の陽射しと砂利を踏む自転車の輪が、しゃりしゃりと乾いた音を立てて進む。道の両端には田んぼが続き、整列した緑の苗が、豊かに満ちた水面からしなやかな葉を覗かせていた。水は光に満ちて甲虫のように輝き、底に沈む濁った泥濘を覗かれることを拒むようにぴんと張り詰めていた。

「ようく掴まってんだぞ、美久。そんで、足も開いてろ」
「うん」
盛は荷台に乗せた幼い孫に注意した。まだ自転車が珍しかった頃、近所の子どもが後輪に足を挟まれて骨を砕くという悲惨な事故があったからだ。美久は彼にとっては初孫だ。その大事な孫に怪我などさせては大変である。盛は何度も確認せずにはいられなかった。

美久は四年前の春、難産の末に産まれた。長女の弥生は前の年にも出産したのだが、産まれた子どもは息を吹き返すことなく逝ってしまった。そして翌年、あろうことか赤ん坊はまた仮死状態で産まれた。今度ばかりは死なせる訳にはいかないと、皆が懸命に努力した。盛も神仏に無事を祈り続けた。その甲斐あって美久は奇跡的に命を取り留め今日に至ったのである。

そうして、娘の弥生が昼間、仕事に出掛けている間、盛が美久を預かることになったのだ。美久は大人しくて行儀の良い子どもだった。しかし、娘の弥生には心配ごとがあると言う。美久はいつも家で本ばかり読んでいて、あまり外に出て遊びたがらないのだと言う。美久はやっと平仮名が少し読めるようになったところだったので、結局は親が読んでやらなければならない。それを何度も強請るものだから、弥生は少々うんざりしているようだった。本が好きだというのは悪くないと盛は思ったが、弥生の心配もわからぬ訳ではない。これくらいの年頃の子どもは、もっと外で遊ばせなければならない。家の中にばかりいては体が弱くなってしまう。盛の頭に一瞬だけ志乃の顔が過った。彼女の透けるように白い肌と孫のそれが重なる。美紅はどことなく志乃の面影に似ていた。色白で、体があまり丈夫でないところまで……。盛は孫の身体を気遣い、自分の所に預けられている間は、もっと外に連れ出して、のびのびと遊ばせてやらなければと考えていた。

「どこにいくの?」
美久が訊いた。
「川にな」
「かわにいって、なにするの?」
「釣りだ。フナを釣るんだ」
「おっきなのつれる?」
「ああ、じいちゃんは魚釣りの名人だからな」
そう言って盛は赤銅色に日焼けした顔を彼女の方に向けて笑った。

道は上り坂になっていた。慣れた道だが、時折大き目の石にタイヤが乗って車体が弾む。美久はその度、祖父のベルトや麻のシャツに強くしがみついてきた。盛はそんな孫の姿に、掛け替えのない命の温もりを感じた。もう二度と失くしたくない命の温もりを……。

「あれはなに?」
美久が田んぼの向こうを指さした。こんもりと茂った暗い樹木の中に建つ高い建物。それは陽炎のように細く揺らめいて見えた。そちらには幾つかの家も並んでいたが、それはどれも平屋建ての丈の低い建物だった。そんな中で一際高く、青空の下、屋根の上の金色の飾りに太陽が反射している。

「あれはベルヌの塔だよ」
盛はそう言うと視線を逸らした。目深に被った帽子の先で、遠い風が過去を渡る。
「ベヌヌの……?」
「神さんを祀ってるのさ」
「かみさんの?」
「ああ……」

テンツクテン……
風に紛れて太鼓が響く。
テンツクテン
忘れもしない。それは梅の花の咲く頃だった。
志乃の両親は家代々の地主で、神様の塔の管理をしていた。一人娘の彼女を両親は可愛がり、小さい頃から何不自由のない暮らしをさせ、専門の家庭教師まで付けていた。しかも器量良しの上に気立てのいい志乃は村の若い男達の憧れだった。
が、誰もが遠くからそっと覗き見るだけで、実際口を利くことは滅多になかった。それくらい身分が違っていたのだ。が、盛はそんな彼女と恋に堕ちた。

はじめは彼女が落とした髪飾りを届けたのがきっかけだった。盛は十四、志乃は十三になったばかりだった。広い庭の先にある梅の木の下で、彼女は赤い羊皮の本を持って佇んでいた。咲き掛けた花に似た白く艶めいた肌がほんのりと薄紅に染まって見えた。銅板を貼った塔に夕日が反射して彼女の周囲を染めていたのだ。
「あの、これ……」
花のかんざしを差し出すと、志乃はこくりと頷いて微笑した。
「ありがとう。よかったら何かお礼をさせてちょうだい」
「そんな、礼だなんていらねえよ。おれはただ……」
盛は急いで踵を返して立ち去ろうとした。志乃とは口を利いてはいけないのだ。
「待って! あの、盛さん!」
志乃が呼んだ。いきなり名前を呼ばれ、少年は驚いて足が止まった。あまりのことに心臓まで止まり掛けていた。
「なんでおれの名前……」
近づいて来る彼女に盛は訊いた。
「知ってるよ。この村のことならみんな……」
彼女はそう言ってくすりと笑った。
「あなた、本がとても好きなんでしょう? 憚りに隠れてまで読んでるって聞いたわ」
「何でそんなこと……」
少年は憮然とした顔で彼女の背後に沈む夕日を見つめた。
「怒らないでね。わたしも本が大好きなの。だから、いつかあなたとお話がしたかったのよ」
「おれと……?」
意外な言葉に盛は面食らった。
「けど、おれは話すことなんか何も……」
もじもじとして下を向く。
「さっきのお礼。よかったらこの本を貸してあげる」
「けど、おれ……」
「わたしはもう読み終えてしまったから、ゆっくり読んで。それで読み終えたら感想を聞かせて。あなたと本のお話がしたいの」
「でも……」
「これまで誰もそんなお話できる人がいなかったの。だから、ね? お願い」
志乃はその本を無理に押しつけて来た。表紙の厚いしっかりとした本だった。それはジュール・ベルヌ作『十五少年漂流記』と表紙に刺繍されていた。

それから、二人はちょくちょくその梅の木の庭で話をするようになった。志乃はそれからも盛に沢山の本を貸してくれた。彼はすっかり本の世界に夢中になった。できれば上の学校にさえ行きたいと願った。だが、家は百姓。そんな途方もない夢が叶う筈もなく、こっそり隠れて本を読んでいると、必ず家の者に見つけられ、野良仕事に駆りだされた。家には日雇いの小作人も大勢いたが、盛は長男。家を継がねばならなかった。

「上の学校に行かなくても勉強は続けられるわ」
志乃は言った。
「けど、朝から晩まで鍬を振るい、田んぼの世話をしなくちゃならねえ。日が暮れたらもうくたくたでとても勉強する気力もなくなっちまう。おれは一生こんな暮らしするなんて真っ平だ!」
「そうね。あなたには学問の才能があると思う」
志乃は何とか盛の願いを叶えてやりたいと心を砕いた。が、娘一人に自由になる金などたかが知れている。果ては年頃になった彼女に対して、親は縁談話を持ち掛けて来た。当然、盛と会うことも禁じられた。

「逃げよう」
祭りの日。盛が言った。
「ここにいたら、おれもおまえもおしまいになっちまう。だから、二人で家を出て、そんで……」
志乃が頷く。そして、真っ黒に日焼けして節くれ立った盛の手に自分の両手を重ねる。その手は細く透き通るように白かった。二人は頷くと、じっと互いを見つめ合った。梅の木がそれを見ていた。季節の花はまだ硬い蕾のままだったが、志乃の着物に咲いた梅が夕焼けに光を投げ掛けていた。

「では、今夜、ベルヌの塔に月が上った時……」
向こうから人が近づく気配を感じて、二人は慌てて握った手を放した。そして、志乃は急いで背を向けて歩き去った。
――今夜ベルヌの塔に月が上った頃……

二人が名付けたその塔の真上で、明るい夏の光が輝いていた。結局、あの晩、志乃は待ち合わせた場所に来なかった。家の者に発見され、鍵を掛けられてしまったのだ。プシュッ。自転車のタイヤがパンクして、シュウシュウと空気が漏れて行った。盛は急いで応急処置をすると自転車を押して、今来た道を引き返し始めた。
「かわは?」
美久が訊いた。
「タイヤがパンクしたんだ。ちょっとそこまで戻れば修理屋があるから……」
「なおるの?」
孫が訊いた。
「ああ」
強烈な光の眩しさに盛は顔を背けた。
(治せるならば……)

志乃は遠方に嫁いだあと、胸の病に倒れた。その頃は不治の病だった。半年ほど療養所で過ごしたが完治せず、故郷を思いながら亡くなったと風の便りに聞いた。最後まで嫁に行くことを拒んでいたと言う。が、間もなく始まった戦争によって、盛の人生も大きく変わってしまった。
テンツクテン
ベルヌの塔で鐘が鳴る。
テンツクテン
時代は変わった。結核は不治の病ではなくなり、戦争に行くこともない。学びたければいくらでも学べる。望めば大学にも外国に行くことさえできるのだ。いい世の中になったと盛は思った。本当に良い世の中になったと……。だから、いつかあの胸踊るようなわくわくする物語を、この孫に聞かせてやりたいと思った。