星野あざみ短編集
鬼っ子





垣根の向こうから聞こえて来たのは女の子の笑い声ときゅっきゅっと鳴るサンダルの音。
(あれ? この家、誰かが越して来たんだ)
少年はびっしり生えたモチノキの隙間から中を覗いた。ここはもう随分と長いこと空き家になっていた。だから、彼もよく庭に入って遊んだ。でも、人が越して来たのではもう勝手に中に入ることはできなくなるだろう。広くて木陰もあるこの庭が、彼は好きだった。だから、ちょっぴり残念な気もした。だが、この家に子どもがいたら別だ。そうしたら堂々と遊びに入って行ける。できれば自分と同じ年くらいの子どもがいればいいのにと、彼は背よりも高いモチノキの隙間から中を覗いた。その時、ふいに何かが足に触れた。少年は驚いてあとずさった。見ると垣根の隙間から小さな手が伸びて彼の足に触れている。
「わっ! 何すんだよ」
思わず叫んだ。
「ボール……」
向こうから声がした。
「ボール?」
見ると彼の足のうしろにピンクのカラーボールが転がっている。
「何だ、これか」
彼はボールをつかむとそっとその子の手に乗せてやった。
「ありがと」
その子は言った。それから、くすくすと笑って訊いた。

「そこにいるのはだれ? はっぱさん?」
「葉っぱさんじゃないよ、おれ」
彼は急いで小さな枝や葉を掻き分けて顔を覗かせた。女の子はまたくすくすと笑った。
「やっぱりはっぱさんじゃない」
その子は大きな目をきらきらさせて言った。まだほんの三つくらいの子だった。胸当ての付いたスカートと大きなリボンの帽子がよく似合っている。母屋の近くには赤い三輪車があり、玄関の扉は開いていた。そこに何人かの大人達が荷物を運んでいるのも見えた。
(やっぱり今日越して来たんだ)
「おれは正夫。この近くに住んでるんだ。君の名前は?」
「チーちゃん」
女の子が答える。
「へえ。チーちゃんか。よろしくね」
その子がうなずく。チーちゃんというのは多分ニックネームだろう。本当の名前は知恵とか千代子とかいうのに違いないと正夫は思った。
「それで、チーちゃんはどこから来たの?」
「あっち」
その子はくすっと笑ってから、まっすぐ空を指さした。
「それって空だよ。空から人が来るなんて聞いたことないや」
正夫は言った。まだ小さいから仕方がないと思いながらも何だかおかしくなって笑い出す。
「ほんとだもん」
チーちゃんは不満そうだった。
「それじゃあ、君はあの空のうんと高い星から来たの?」
「うん。チーちゃんね、ほしからきたの」
女の子が繰り返す。

「じゃあさ、いろんなこと教えてよ」
正夫が言うと、女の子は少し首を傾げて言った。
「むかーしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがすんでいました」
女の子が言った。
「それで?」
その話なら多分、正夫も知っているだろうと思ったが、先を聞くことにした。
「おばあさんがかわでてんたくしていると……」
「それを言うなら洗濯だろ?」
「うん。かわでてんたくしていると、おおきなももがながれてね。いっぱいいっぱいながれていましたって」
小鳥が囀るような声だった。お話はあっちこっちに寄り道し、犬と遊んだり、猿とふざけたりして、ついに鬼が島に辿り着くことはなかった。
「それでね、みんなでなかよくほしをもってかえりました。おしまい」
鬼の出ない桃太郎。
「それでほんとにおしまいなの? 何か忘れてない?」
「おしまいなの! えーと、めでたしめでたしなの」
その子は言ってうれしそうに笑った。
「うん。そうだね。めでたしめでたしだ」
正夫も笑った。
(鬼だって、いつもやられてばかりじゃたまんないもんな)

それからしばらくするとモチノキに花が咲き、モンシロチョウがたくさん蜜を吸いに来た。
「きれいだね」
チーちゃんが言った。
「うん。きれいだね」
二人の足音に驚いたチョウ達が一斉に飛び立ったのだ。青い空に散って行くチョウの群れ。それはモチノキの先から幾重にも別れ、空に咲く幻想の花のようだった。正夫は、そこに立つ少女の背中にも同じ羽が生えているのではないかと思った。白いレースの短いスカートがひらひらと舞って、その子が駆けて行く方に光がさざめいていた。少女の影は実際、氷の欠片を散りばめたように光って見えた。薄いレースの模様が光に透けていたからだ。それでも風に飛ばされないようにと、ぎゅっとその子の手を握って放さなかった。

そうして夏の間はずっと、正夫はその子と遊んだ。
「おにいちゃん!」
チーちゃんもそう呼ぶようになっていた。シャボン玉をしたり、三輪車を押してやったり、家族で花火大会を見に行ったりもした。まるで本当の妹のように親しくなった。
「ほら、金魚。兄ちゃんが掬ってやるよ」
納涼祭の屋台で、金魚が掬えないと泣いていたチーちゃんに赤い金魚を掬ってやったのも正夫だった。
「おにいちゃん、すごいね」
女の子はとても喜んですごいすごいと正夫の周りを駆け回った。
「来年はもっとでっかいの掬ってやるよ」
そう言って笑う少年の目に金魚のオレンジが反射する。

秋の日には折り紙も教えた。鶴は難しくて、なかなか上手には折れなかったけれど、正夫の手先を見て、一生懸命に真似をした。
「そいでね、うらしまたろうは、おつきさまにかえっていったの。おしまい」
チーちゃんのお話はいつもそんなだった。幾つかのお話が混ざったり、短縮されたりして、ぜんぜんもとのお話と違ってしまう。それでも、いつも最後はめでたしめでたし。ハッピーエンドなのだ。ケンカもしないし、鬼退治もない。平和そのものの昔話。それでも話す彼女は楽しそうだったし、聞いてる正夫も楽しかった。
「そうだよ。いつも鬼ばかりがやられる昔話なんて間違ってるかもしれないんだ」
正夫が言った。
「そうなの?」
縁側に座って竹とんぼを飛ばそうとしていた正夫の髪を撫でて少女が言った。
「これはなに?」
少女がつかんだ物。そこに重なった二つの影。それは二本の角だった。
「ずっと友達でいてくれる?」
正夫が訊いた。
「うん。おにいちゃんのこと、だいすき!」
正夫は女の子をおぶうと、空高く飛んで行った竹トンボを追った。背中で少女が笑っている。正夫も笑った。
――ずっと友達でいてくれる?
――うん

けれど、秋も深まって来た11月。突然、青いトラックが来て、チーちゃんの家の荷物を積んで行った。
「あ! おにいちゃんだ! バイバイ!」
すれ違い様、トラックの窓からチーちゃんが顔を覗かせ手を振った。
「チーちゃん! どこに行くんだよ?」
彼はトラックのあとを追った。
「とおくにいくの。だから、バイバイ!」
トラックはじきに大通りに出て見えなくなった。
「遠くに行くって……。バイバイって……。こんなに急に……こんなに突然……」
正夫はふっと立ち止まって空を見上げた。一番星が光って見えた。
――チーちゃんね、ほしからきたの
(そうしてまた、君は星に帰って行ったのかい?)
――だいすき!
「また来年も遊べると思ったのに……」

表札の外された家。がらんとした庭にはもう赤い三輪車はなくなっていた。正夫は庭に足を踏み入れた。一歩行く度に日は傾いて暗くなり、やがてその影も完全に見えなくなった。