星野あざみ短編集
セピアの瞳





店の入り口に飾られていた一枚の絵。霞んだ少年の瞳は、じっとこちらを見て微笑んでいた。好奇心いっぱいの目を見開いて……。
その店の前を通り掛かる度、私は決まってその少年の絵を見つめ、長いことそこに佇んでいた。少年は一人そこに立っていて、背景はなかった。白い半そでのシャツとサスペンダーの付いた半ズボンを履き、大きな瞳とふっくらとした頬が愛らしかった。けれど、それは名画でもないし、描いた人のサインもない。シンプルな額に入れられて、いつも道のこちら側をじっと見ていた。小さなプライスには1万8千円と書かれていた。買えない金額ではないけれど、ぜひ家のリビングに飾りたいという雰囲気でもない。私はそこを通る度、その子を見つめ、少年もまた私を見つめ返した。ただそれだけで、私達は満足だった。
他のどんな物が売れてしまっても、その絵はずっとそこに掛けられていた。季節がどんなに変わっても少年は微笑んでいた。

ところがある日。私がそこを通ると少年の絵が外されていた。
「どうして……」
売れてしまったのだろうか。倉庫にしまわれてしまったのだろうか。それとも、作者に返却されてしまったのか。大きな木製の格子と素通しになったガラスの向こうを見つめたまま、私はしばらくの間動けずに、その店の前に立っていた。
すると、小さな鈴の音がして、戸口から若い男が一人出て来た。慌てて立ち去ろうとする私を呼び止めて、その人は言った。
「待って! 君はいつもそうやって僕の絵を見ていてくれた人でしょう?」
「もしかして、あの絵……あなたが描いたんですか?」
「いや、そうじゃない」
彼は軽く頭を振って言った。
「あれは僕そのものだから……」
そのもの? なるほど。言われてみれば、その顔立ちはあの絵の少年に少し似ている。じゃあ、この人があの少年のモデルなの?
「正確に言えばモデルではありません」
その人はまるで私の心を読んだかのように言った。
「でも、僕はずっとあなたを探していた」
「探していた?」
それはまさしく、あの絵の少年と同じ瞳だった。その煌めきがいたずらっぽく笑う。
「ここでずっと……」
陽炎が揺らめき、私達の周囲を囲む。
「どういうこと? あなたはいったい……」
時間が遡り、彼は小さな男の子になっていた。あの絵と同じ少年の姿に……。そして、私を見て言った。
「お姉ちゃん!」
その時私は思い出した。私には生まれてすぐに亡くなった弟がいたのだ。忘れていた訳じゃない。でも、私はその弟の顔を知らなかった。難産のせいで脳に酷い損傷を負い、そのまま荼毘に伏されたのだとあとから父に聞いた。
「ぼく、ずっと会いたかったんだ。だから、いつもここを通る人を見ていたんだよ」
少年は言った。
「いつかきっとお姉ちゃんがこの道を通るって……。そして、ぼくは見つけたんだ」
生まれてすぐに亡くなった弟には名前はなかった。何と呼んだらいいのかわからずに、私は黙ってその子の頭を撫でた。薄い髪は柔らかく、その下の皮膚は青く変色し、傷付いていた。出産の時、無理に吸引された痕かもしれない。そのせいで弟は命を落としたのだ。さぞ苦しかったろう。痛くてとても恐ろしいことだったろう。それを訴えることも泣くこともできずに赤ん坊のまま逝ってしまったのだ。
「不憫な子……」
けれど、弟は顔を上げて言った。
「可哀想じゃないよ。今はこうしてお姉ちゃんに会えたもの」
「私、あの絵を買うわ」
そうすれば、いつだっておまえと一緒にいられる。もう寂しい思いなんかさせずに……。けれど、弟は首を横に振った。
「いいんだよ。ぼくはもうお姉ちゃんに会えたから……。あの絵はいらないんだ」
「でも、それじゃあ……」
「いいんだよ。これからはずっと一緒にいられるから……」
すっと伸ばしたその子の手が透けて、私の腹部へと滑り込んだ。腕と身体と最後に残った少年の顔は笑っていた。セピア掛かった記憶と共にじっと私を見つめている。
――鬼ごっこしよう
気づくとその店はなくなっていた。そして、そこにあったはずのすべての背景もまた消えていた。
「いいよ。鬼ごっこしよう」
走り回る少年と笑い声が木霊した。
――捕まえた! もう放さない
「もう二度と……」
数年後、私は結婚し、男の子を生んだ。