星野あざみ短編集
シェスタ





赤ん坊は眠っている。母の背中で……。心地良く揺れる電車の中で……。
赤ん坊は思考した。眠りの奥で、加速する電車よりも早く。彼の瞳は、混沌と渦巻くあらゆる物の原理を捕らえていた。
彼にとってこの上ないノイズとは、望んでもいない要望を問われたり、コミュニケーションと称してさして興味もない物を押し付けられたりすること。そして、思考を中断されること。
窓の景色を追うように、思考が流れて行く。
電車はいいと彼は思った。
ここでなら、目を閉じて考えを巡らしていれば、誰にも邪魔されることはない。
電車はいいと彼は思った。
赤ん坊は時折、薄めを開けて周囲を見た。乗り合わせて来る様々な人間。その生態を見極めるのにも、電車は都合がよかった。

そして、彼は軽く目をこすって欠伸した。陽射しの中で人々はあまりにも無防備で、あまりにも考えなしに動いている。電車は電気というシステムで動いているという。ならば、人はどんな動力で動いているのか。一匹の蝶が紛れこんだ。彼はそれを目で追った。彼はその大きさと重さを思い、浮力を計算した。母の頭に巻かれているネッカチーフに手をやった。蝶の羽に似ていると彼は思った。けれど、それを広げたからといって、人は決して空を飛べはしない。女子高生が二人。古典の試験問題について話している。彼はそれを興味深そうに目を細めて聞いた。それからまた、ひとしきり電車のことを考えた。16両編成のこの電車に乗っている人数と実際に運べる人数との差について考えた。嫁達は姑の不満を言い、姑達は嫁の不作法をしきりに嘆いた。彼は人間の在り方について考えた。向かいの男は懐に何かを隠している。買い物帰りの主婦達が大きな荷物を抱えて乗った。
車内販売のおばさんがアイスクリームを売りに来た。母はそれを一つ買って、赤ん坊に食べさせた。甘く、冷たいその感触を、彼はとても気に入った。隣のお婆さんが赤い風車をくれた。彼はその風車の風光と風力を計算した。窓の外に見えて来た陸橋のことを母が口にした。
「もうすぐ大きな川が見えるよ」
振動が変わり、電車は川を渡って行った。彼はすぐ前に立った男の腕時計で時間を測った。彼は川幅を計算し、それが行き着く先のことを想像した。それから、水や命が生まれるところを考えた。そして、もう一度のんびりと欠伸して母の肩にもたれた。心臓の音が聞こえた。電車の鼓動も聞こえた。それから、風車が回る音を聞きながら、赤ん坊はようやく安心して、心地良い眠りについたのだった。