星野あざみ短編集
野良





彼は赤茶の大きな犬だった。人間に追われ、川を下ってここに来た。川の水はまだ冷たかったが、気にしなかった。彼がこれまで人間から受けて来た仕打ちに比べれば、水の冷たさなど、まるで苦にはならなかった。子どもらは、彼を見る度石を投げた。男達は棒で彼を叩いた。何故、人間は彼にそのような仕打ちをして来るのか、全然見当がつかなかった。彼は誰の飼い犬でもなく、誰の命令も聞かなかった。彼は自由な犬だった。それ故に人間から妬まれたのかもしれない。

彼は川から上がるとぶるんっと体を震わせて水気を払った。後ろ足の古傷が微かに疼く。それもまた人間に付けられた傷だった。が、彼は人間を恨んだりしなかった。今日を生き抜くこと。それがすべてだ。餌は豊富にあった。ゴミ捨て場にはいつも、彼が空腹を満たすには十分な食料があった。少し前にはライバルの白い大型犬がいた。だが、そいつは二カ月前、トラックに轢かれて死んだ。猫達は彼が一声唸れば、さっと何処かへ姿を眩ました。獰猛な烏達でさえ、枝に止まって、彼が食事を終えるのをじっと待った。彼は無敵だった。

だが、均衡は破られた。人間が敵意をもって突然彼にエアガンを発砲して来たのだ。弾は彼の後ろ足に命中した。苦痛と驚きが彼の中で怒りに変わった。彼は吠え、唸り、自分に酷いことをした人間に飛び掛かった。その男は情けない悲鳴を上げて銃を放り出した。しかし、彼は許さなかった。その人間が隠し持っていたナイフを出し、突き立てて来たからだ。彼はその男の腕に喰らいついた。ナイフが落ちて路上に転がった。人間の袖口から血が流れ、怯えた目で彼を見つめた。それでも、男は彼に向かって執拗に攻撃して来た。鼻っ柱を叩き、脇腹を蹴り付けて来る。一瞬、彼の瞳に鋭い光が走った。喉元を食いちぎってやろうかと思ったのだ。武器がなければ人間など弱者に過ぎない。だから、彼も余程のことがなければ、人間を襲おうなどとは思わなかった。だが、こいつはこれまでの連中とは違う。囮の餌を撒いて彼を誘き寄せ、至近距離からいきなり銃を撃って来た。すぐ近くには小さな子どももいたというのに……。子どもはびっくりして泣き出し、その声に驚いて家から出て来た母親は悲鳴を上げて子どもを庇った。更に騒ぎを聞きつけてやって来た近所の人達にその母親は告げた。
「犬が子どもを襲おうとしたんです」
すると、犬の下敷きになっていたエアガンの男が叫んだ。
「そうなんだ! こいつが子どもに飛びかかろうとしてたから、慌てて俺がエアガンで撃ったんだ! そしたら……!」
誰もそいつの言うことを疑わなかった。
「この畜生め!」
「誰か保健所に電話しろ!」
男達はそれぞれに棒を持ち、彼を叩いた。最初の一撃が傷付いた足を打ち、次の攻撃が頭を強打し、耳の付け根が裂けて血が流れた。
「きゃうん!」
噛んだままだった人間の腕を放し、犬はあとずさりした。そんな彼に人間達は容赦なく棒を振り下ろした。更に別の人間も駆け付けて来た。彼もさすがに耐えられなくなった。
「ガウッ!」
一声吠えて威嚇した。人間達が僅かに怯んだ。その隙に彼は痛んだ足を引きずり、向こう見ずに駆け出した。

しばらくすれば騒ぎも収まるだろう。彼は思った。だが、人間達は執拗だった。危険な犬を放置してはおけないと、躍起になっていたのだ。それは捕獲などという生易しいものではなかった。一度人間を襲えば癖になる。もはやあの犬を生かしておく訳には行かない。一刻も早く捕まえて処分しなければならない。人間達は決意していた。そんな事情までは彼にも知る由がなかったが、追って来る人間から逃げ回っているうちに気づいたのだ。
バイクに乗った若い男が執拗に彼を追い、轢き殺そうとしていた。彼は二度、タイヤに接触し、一度などは側溝に跳ね飛ばされた。このままでは殺される。その人間が放つ禍々しいオーラに恐れを感じた。ここにいるのは危険だ。本能のまま、彼は土手を駆け上がり、川の中へ飛び込んだ。
2月の冷たい水だった。しかし、気にしている余裕はない。逃げなければ……。彼は必死に泳いだ。しばらく水に浸かったあとで振り向くと、もうバイクの姿は何処にもなかった。どうやら、あの執拗な人間もついに諦めたらしい。しかし、彼にはそこが何処なのかわからなかった。が、もうあの街へは戻らない。

彼はここで新しい生き方を見つけようと思った。まずは餌だ。彼は再び、ゴミ捨て場を漁った。人間は何処にでもいたし、人間が住むところには必ず食料があった。今度はうまくやらなければと彼は思った。それにはなるべく人間に関わらなければいいのだ。彼は昼の間は人間の住処から遠いところに潜んで待ち、夜の間に行動することにした。それでも十分に餌は得られる。そうだ。これでいい。彼は納得した。

しばらくの間、それで何も問題は起きなかった。
しかし、夜の間にゴミ捨て場が荒らされる事態を受けて、人間達は決まりを変え、朝にならなければゴミを出さないようになった。それは彼のせいではなかったけれど、地域に住む他の生き物達にとっても困ったことになった。おかげで彼は夜、街を歩いても餌にありつけなくなった。腹を透かしたまま夜明けになることもあった。

そんなある日、背後からふいにバイクのエンジン音が聞こえた。まさかあの若い男か。こんなところまで追って来たのか。思わず身震いしてあとずさった。だが、それに乗っていたのはあの男ではなく、白髪交じりの年配の男だった。男は朝、新聞を配っている配達員だった。だが、彼にはそんなことはわからない。バイクや人間に敵意を感じて鋭く唸った。
すると、ふいに男の手が何かを投げた。それは数匹の煮干しだった。鼻先にそれが落ちた。うまそうなにおいがした。餌だ。今日はまだ何も餌にありついていない。空腹だった彼は思わず一歩足を踏み出した。が、騙されてはいけない。彼の中で信号が灯った。そうやって誘き寄せておいて、痛い目に合わせるのだ。姑息な人間がよく使う手だ。騙されるな。だが、その男の表情は穏やかに笑っていた。
「ほら、どうした? 食え!」
男がバイクから降りて彼を見た。特に変わった様子はない。この男からは敵意を感じない。彼は恐る恐る近づいた。周囲にも気を配った。誰も潜んではいない。それにこの男は武器になるような物を持っていない。長い棒もエアガンも……。
数秒の時間が過ぎた。風に乗り、うまそうなにおいだけが漂っている。彼は我慢できず、思わずその餌に口を近づけた。が、頭上でした鳥の羽ばたきに慌てて頭を引っ込める。よく考えろ。信用してはいけない。油断したら負けだ。奴はバイクを持っている。あれでいきなり轢き殺そうとしているのだ。そうに違いない。彼は再び唸り声を上げて数歩下がった。男はそれを見ると少し寂しそうな顔をした。
「じゃあ、俺がいなくなったら食え!」
そうして男はバイクにまたがるとその場から立ち去った。彼はそれを見送っていた。が、やがて警戒しながらも、彼はその餌にありついた。それはとても満足できる量ではなかったが、妙に満たされた気分になった。

そして、次の日。また、あのバイクの人間はやって来た。そして、再び餌をくれた。彼はまた、男がいなくなるのを待ってから食べた。その量は昨日より多くなっていた。もしかすると、あの男はこれまで彼が出会って来た人間とはまったく違うタイプなのかもしれない。彼は今まで人間に餌をもらったことなどほとんどなかった。遥か昔、子犬だった頃、一度だけ子どもにパンをもらった。それきりだ。そして、人間の子どもは彼を連れて帰ろうとした。が、大人がそれを拒んだ。
――駄目よ。こんな汚い犬なんか……
――欲しいなら、ペットショップで血統書付きのいい犬を買いましょう
彼にはまったく意味がわからなかった。が、自分が人間に嫌われて、疎ましがられているということだけは何となく理解できた。でも、何故……。
――ごめんね
彼の頭を何度も撫でた小さな手。撫でられる度、胸の中が熱くなる。そんな気がした。あれはいったい何だったんだろう。彼は昼間の間、ずっと人目につかない茂で眠りながら考えていた。

しばらくすると、怪我をしていた足もだいぶよくなった。新聞配達員のバイクはそれから毎日やって来て、彼に餌をくれた。今ではその人間が見ている前でも平気で餌を食べられるようになっていた。
「今日は肉を持って来てやったぞ」
男は日によっていろんな食べ物をくれた。そして、男は彼のことを野良と呼んだ。その言葉が自分を指しているのだということに彼が気づいたのはそれから間もなくのことだった。
「そうら、野良。今日は魚だ。お食べ」
彼がもらった餌を食べるとその男もうれしそうだった。いったい何処に住んでいるんだろう。彼は何となく好奇心を持った。

ある日彼は、こっそりその男のにおいを追って家を突きとめた。
「野良」
彼の姿を見つけた男が驚いて呼んだ。
「付いて来たのか? なら、待っておいで」
男は家に入ると中から食べ物を持って来てくれた。
「ソーセージだ。お食べ」
彼はそれをうまそうに食べた。

それからは、その周辺が彼の縄張りになった。一角にはたくさんの家があり、放し飼いの犬や猫も多かった。が、誰も彼のことを咎める者はいなかった。もしかすると、ここは前に住んでいた場所よりずっと居心地のいい場所かもしれない。そう信じ掛けた頃だった。
お気に入りの場所で眠っていると、突然、誰かが鉄パイプで彼を殴りつけた。あまりのことに悲鳴を上げた。やはり信用し過ぎてはいけなかったのだ。所詮、人間など誰でも同じ。彼にとっては異種族でしかない。つまりは敵なのである。中には人間に尻尾を振り、ペットになり下がっている奴らも大勢いたが、そんな連中はみんな人間に媚を売る負け犬だ。彼は傷付きながらも再び暗い茂みの中へ潜り込んだ。

それから三日の間、彼は外へ出なかった。怪我をしたこともあったが、これ以上人間に振り回されるのはごめんだった。もう人間を当てにすることはやめよう。ペットの犬達のことなんて言えない。自分もまた人間に餌を与えてもらうことに慣れ、いつの間にかそれを期待してしまうようになっていた。だから、こんな惨めな目に合うのだ。もうたくさんだ。彼は自分で傷口を舐めながら思った。

それから数日の間、ずっと雨が降り続いた。痛みはだいぶ消えて楽になった。が、彼はまだそこにいた。とても餌を探しに行く気分になれなかった。このままではどんどん体力が衰えてしまうだろう。へたをすればここで死ぬことになるかもしれない。惨めだなと彼は思った。が、それでも構わないとも思う。何故、疎まれなければならない。どうして理不尽に棒で打たれなければならないのだ。ただ、ここにこうしているだけで……。何がいけないと言うのだ。何も悪くなんてない。俺はここにいてもいいんだ。しかし、彼は動けなかった。

そんな時、誰かが呼んだ。
「野良……」
幼い声だった。覚えのあるにおいが鼻孔をくすぐる。食べ物だ。確かこれはソーセージ。目を開けると、まさしくそこにはそのソーセージがあった。
「お食べ」
しゃがんでいるのは小さな女の子だった。後ろにはあの新聞配達員もいる。
「野良」
男もいった。彼はゆっくりと立ち上がった。
「怪我をしていたんだな。このところずっと姿を見せないから心配していたんだ」
「心配したんだよ」
子どもがソーセージをちぎって彼の前に差し出した。彼はそれを口の中に入れた。
「食べた!」
その子どもがうれしそうに笑って配達員を振り返る。男も笑って頷き返す。するとまた、子どもはソーセージをちぎって差し出す。野良はそれをむしゃむしゃと食べた。その子どもはにこにことそれを見つめた。それから、彼の頭を恐る恐る撫でた。彼は黙ってされるがままにしていた。雨が降っていた。子どもの髪も濡れている。小さな手に雨の滴が落ちる。野良は微かに尾を動かした。そしてその手の露をぺろりと舐めた。