星野あざみ短編集
クロノス





壁の向こうに電車が着いた。僕の部屋のすぐ隣に……。そして、人々はその電車に乗るために、僕の部屋を通り過ぎて行った。このところ毎晩だ。おかげで僕はすっかり寝不足になっている。
何故そんなことになってしまったのか。僕にはまったく見当がつかなかった。ここは駅からも線路からも随分離れている。隣はマンションで、僅か1.5メートルの空間を隔て、壁が向かい合っている。とても電車が止まれるスペースなんかない。いや、そんなのはあまりにも馬鹿げている。そもそもそんなことはまったくもって有り得ないのだから……。

僕は自分のベッドに寝転がって天井を見つめた。何も変わった様子はない。この部屋にあるのは、ベッドと机。椅子。本棚。それにクローゼット。照明だって何の変哲もない四角い蛍光灯だ。窓には厚いカーテンが敷かれ、ドアにはカレンダーが掛けられ、机の上にはまるい時計が置かれている。シンプルな部屋だ。まるでホテルの一室みたいじゃないか。床に脱ぎ散らかした衣服と読み掛けの本などが散らばっていなければ……。

「静かだな」
僕はそう呟くと、大方犯人の見当がついてしまったミステリーの本を閉じた。時計の針は11時45分を示している。もうすぐだ。今夜は車もほとんど通らなかった。こんな日もあるんだな。住宅街といえども、近くにはコンビニやコインランドリーもあったので、夜でも人の通りはそれなりにあった。けれど、車の音はほとんど聞こえない。幹線道路からはかなり離れているからだ。だからこそ、あの音がよく響いた。

そして、今日も電車は壁の向こうにやって来た。僕のベッドの壁の向こうに……。車輪の音が近づいて来た。と同時に、人々が僕の部屋にやって来て、壁をすり抜け、ホームへ向かおうと列ができた。僕の存在など初めから無視していた。そこに何があろうと彼らは躊躇しなかった。足元には本が転がっていたし、壁にはぴったりとベッドが寄せてあった。そして、その上にはこの僕が寝そべっている。なのに、彼らは気にしなかった。お構いなしにどんどん壁を通って行く。彼らはいったい何なのか。実体のない幽霊じゃないのか。僕は目の前を行く男の腕を掴もうとした。けれど、伸ばした手はその身体をすり抜けた。
やっぱりそうだ。この人達はみんな実体を持たないんだ。こいつらは人間じゃない。大人も子どもも老人も……ここにやって来る人達はみんな……。
彼らは皆、ぼそぼそと何かを話していた。時折、笑い声さえ聞こえた。だけど、僕の声は聞こえないらしかった。
「あの、すみません」
何度かそう呼び掛けてみたけど、誰も返事をしなかった。そして、誰も振り返りもしなかった。僕の声は彼らの耳には届かないのだ。
そのうち、アナウンスが電車の発車の時刻を告げた。人々はそれを聞くと俄かに歩調を早めた。
「待って下さい!」
僕は慌ててそのあとを追おうとして壁にごつんとぶつかった。やはり僕にはこの壁を越えることはできなかった。やっぱりあれは幽霊列車なんだ。あの人達はもう既にこの世の者ではない。僕は背筋に悪寒を感じた。ならば、僕はその電車に乗ることはできない。当然だ。僕はまだ生きているのだから……。でも、何で僕の部屋が、その発着ホームへと続く通路になっているんだろう。僕は納得が行かなかった。そんなのって何だか理不尽だよ。気味が悪いし、何となく気持ちも落ち着かない。

そうしている間に人々はすっかり消えてしまった。いったいあの電車は何処へ行くんだろう。アナウンスの言葉はよく聞き取れなかった。ただ、夜中の零時に出発するということだけははっきりしている。毎晩同じパターンだからだ。時計を見た。11時59分。間もなく出発の時刻だ。僕は壁を見つめた。

「お兄ちゃん、何してるの?」
背後から突然声を掛けられ僕は飛び上がるほどびっくりした。僕には妹なんかいないし、誰かにお兄ちゃんなんて呼ばれたことだって一度もない。恐る恐る振り向くと12、3才の少女が一人、赤い鞄を持って立っていた。
「どうしたの? 早く行かないと乗り遅れちゃうよ」
「乗り遅れるだって? まさか、あの電車のこと?」
少女が頷く。
「君はいったい誰なんだい?」
「切符を忘れちゃったの?」
少女は首を傾げて訊き返した。
「切符?」
「そう。切符」
少女はポケットの中からそれを取り出して見せた。そこには確かに何か文字が書かれていた。でも、僕には読みとることができなかった。少女がすぐにそれをポケットに入れてしまったからだ。

「ねえ、君達は何処に行くの?」
僕はそう質問してみた。
「……」
そんなこともわからないのかというように、彼女は不審そうな表情で見つめた。
「僕は切符を持っていないんだ。それに、ここは僕の部屋なんだよ。なのに、毎晩、大勢の人がやって来て、この部屋を通り過ぎて行く。そして、壁の向こうの電車に乗るんだ。ねえ、あの電車は何なの? 君は、君達は何者なんだい?」
しかし、少女は質問に答えなかった。
「だめよ。もう行かなくちゃ……」
そう言うと彼女は強引に僕の脇を通り抜けようとした。
「待って!」
僕はその腕を掴んだ。やっと秘密が解き明かせるかもしれないのだ。しかも、この少女の腕を掴むことができた。普通にあたたかい手だった。幽霊なんかじゃない。彼女には実体がある。僕とコミュニケーションできる唯一の少女。このチャンスを逃がしたら……。だけど、彼女はきつい目で僕を睨んだ。その時、電車が警笛を鳴らした。出発の時間が近づいている。もしも電車に乗り損ねたら、この少女はどうなるのだろう。いや、大丈夫だ。電車は毎日やって来る。明日の電車に乗ればいいのだ。これまでたくさんの人達がこの部屋を通り過ぎて行ったけど、話が通じたのはこの少女だけだった。逃がす訳には行かない。何としてもこの滅茶苦茶な状況を説明してもらわなきゃ……。

「ねえ、どうして君はここに……」
皆まで言わせず、少女は僕の手を振りほどき、さっと壁の中に消えてしまった。
「待って! 行かないでよ! 君の名前は!」
せめて名前だけでも聞いておきたかった。今度会った時のために……。でも、痕跡はすっかり消えてしまった。少女は壁の奥に吸われ、電車はもう一度大きく警笛を鳴らした。それから、ゆっくりと車輪の回る音が聞こえた。少女は間に合っただろうか。多分乗れたんじゃないかと思う。それでよかったんだ。僕は心の底からほっとしていた。でも……。
――名前は? せめて名前だけでも聞かせて欲しい
胸の奥で自分の声がリフレインした。
「君の名前が知りたいんだ」
――セラム
その言葉は一瞬のうちに僕の頭の中に焼き付けられた。
「セラム……」
僕はカーテンを開けて夜空を見上げた。ビルの間にクロノスの長い光の帯が消えて行くのが見えた。
セラム。それが彼女の名前なのだろうか。僕はまた、いつか彼女に会えるだろうか。その夜、僕は少しだけ窓を開けて眠った。