星野あざみ短編集
赤いグランドピアノ





最初の音が見つからなかった。
僕はピアノの前にいて、観客は今まさに始まろうとしている演奏を聴こうと耳を傾けていた。眩し過ぎる照明が僕の目を射った。僕は光の隙間から黒い光沢のあるピアノを見つめた。コンサートは僕にとって初めてではない。それはもう既に何十回も続けて来たツアーの一つに過ぎなかった。なのに、何だろう? この感触……。淡い空気の揺らめきに僕は少しだけ眩暈を感じた。知らない土地。そして、見慣れない風習を持った人々。けれど、彼らは皆、僕の演奏が聞きたくて、ここに足を運んでくれた人々だ。ならば、聞かせてやるさ。僕の思いのありったけの演奏を……。なのに、どうしたことだろう。僕は曲を弾くことができなかった。メロディーがまるで思い出せないのだ。プログラムの最初から最後まで、どれ一つ思い出せない。僕の中からすっぽりと音楽だけが抜け落ちてしまったように……。ふと見ると、楽譜がひらひらと舞っていた。そこから音符が抜け出て行った。四分音符は全音符に抱かれ、休符は十六分音符に連なり、三連符はバックダンサーとなって八分音符が装飾音符達を従えて、遠い空へ羽ばたいて行った。
「待って! 行かないで! 僕を置いて……」
音が消えてしまったホール。僕は抜け殻。空虚な錘となって沈んで行く。ピアノの前に座ったきり、身動き一つしない僕を見て、観客達がざわついている。
「彼はいったいどうしちゃったんだろう?」
その問いが耳の奥で波のように木霊する。
僕は固く目を閉じて膝の上で拳を結ぶ。瞼の裏で水が煌めいていた。あれは何処の海だったろう。太陽の光が淡い虹のように反射していた。温もりが耳の奥でトクントクンと赤い鼓動を打っている。あれはいったい……。

肉の中の鼓動。赤く薄暗い記憶。僕は抱かれていた。僕は育まれていた。けれど、そのやさしさは、僕から何もかもを奪って行った。好きだったことも、嫌いだったことも、すべてを亡きものにしようとしていた。記憶を砕き、細胞を砕き、粉々にした。それから時と水と炎を注ぎ、撹拌されて、新しい僕が誕生した。それは小さな肉塊でしかなかったけれど、すべてが満たされ、僕はあらゆる感覚で神を感じ、あらゆる時空を越えて旅した。それから、唐突に満たされない渇望の世界へと放り出された。
そこで僕は光を見た。これまで生きて来た僕の記憶の片鱗が、高い照明の煌めきの中で踊っていた。僕はそれが欲しかった。あれはみんなかつての僕だった。けれど、いくら手を伸ばしても届かない。僕の手はあまりにも小さかった。そして、力はあまりにも弱かった。
どうして? あれはみんな僕のものだったのに……。返してよ!
産まれてはじめて声を上げた。
とても大切だったんだ。決して忘れないと誓ったのに……。だから……。散って行く光の中へ腕を差し入れ、僅かなそれを握り締めた。
それは僕にしか聞こえない音の欠片だった。何だろう? 何かとても大切なことだったような気がするのに……。嗚呼、何処にも繋がらないメロディー。

そして、3才の誕生日。僕の前には赤いピアノが置かれていた。きれいだけれど本物ではない赤いグランドピアノが……。僕は指一本でそれを鳴らした。調律は狂っていた。けれど、その音は美しかった。僕はもうピアニストにはなれそうもない。けれど、繋いだ記憶の片鱗が手のひらで疼いている。不完全な身体と不完全な記憶を持って生まれた僕。母親が僕を抱いた。その頭上で跳ね回っている光の行方を追って、僕は両腕を高く伸ばした。