星野あざみ短編集
水蜜灯





波打つ興奮の中で、僕はとろりとした闇に溶けて行った。僅かに開いた唇から熱い息が漏れている。天井に近い闇の深淵では、いつの間に紛れ込んで来たのか、蛍が2匹。戯れ合うように淡い光を投げ掛けている。壁際に吊るされた衣紋掛けには、ついさっきまで貴方が袖を通していた着物の影が揺らぎ、窓の下に流れる小川のせせらぎと、貴方の吐息が交じって耳に心地よく響いた。
好奇心に満ちた貴方の指先が僕の下腹部に触れる度、新たな喜びを僕に齎し、僅かに身体を震わせたり、小さな息使いが変わったりするのを貴方は楽しんでいるようだった。座卓の上には開かれたままの本と蜂蜜を溶かした麦茶のコップが乗っていた。夏には貴方が好んでそれを欲しがったので、僕が運んで来た物だ。それは半分ほど減っていたけれど、残りはそのままガラスの表面に汗を滲ませた。
「何を見ているの?」
不意に彼が顔を上げ、僕をまっすぐに見つめて訊いた。僕は答えず、貴方の背中に腕を回した。すると、彼は微笑して頷くと、蜜に濡れた指先を翳し、僕の唇にそれを塗り付けた。甘い蜂蜜のにおい……。彼はまるで悪びれない少年のような笑みを浮かべて、指先をぺろりと舐めた。それから僕の唇を吸った。そんな彼の唇も、僕の口中に滑り込んで来たなめらかな舌も、みんな懐かしい蜂蜜の味がした。それから、彼は僕の頬や鼻の頭に蜜を垂らすとまたうれしそうにそれを舐め回した。そして胸やお腹や、その下へと行為は繰り返された。熱く火照った身体が互いの胸の奥で燃え盛る。
「先生……」
思わずそう漏らした僕の声を、彼の唇が塞いだ。
「ああ……」
自らの鼓動に押しつぶされそうな激しさに悶えながら、僕は必死に喘ぎ、その人の背中を掻き毟った。また一つ、彼は僕の中に新たな秘境を見つけたのだ。
「痛くないだろう?」
彼は優しく撫でながら言った。
「……許して」
僕がそう細い声で言うと、彼は微笑していつも通りのキスをくれた。僕は彼の中で嗚咽した。闇に蛍が舞っていた。痛みよりも快感に震え、涙を流している自分に驚いていた。もっとずっとこうしていたい……。はじめはすごくいやだった。単なる実験の手伝いに過ぎなかった。それなのに……。今ではとても離れられない。彼を心から愛していた。彼の指がそっと僕の涙を拭う。僕はその指を掴んで吸った。それから、彼を抱きしめて顔をその胸にこすり付けた。貴方はそんな僕の頭を撫でて言った。
「蛍のようだね」
窓から射し込む僅かな光に照らされて、蜜を塗った身体の一部が光って見えた。それは淡い光だった。光とも言えない光だった。人は蛍になんかなれない。僕達は知っていた。それでも、彼は夢見ていたんだ。「身体論と宇宙に関する考察」。彼はそれを僕の身体の上で編んでいた。果てしない夢を追って……。