星野あざみ短編集
ステーション





僕はいつも右手に愛を左手に殺意を忍ばせて歩く。
雑踏の中、踏みならされた音楽はどこか空々しくて吐き気がした。
不意に男が駆けて来て、僕の肩にぶつかった。が、謝りもしない。殺るのは奴か。いや、そうではない。疲れ果てた心の中はデジタル化されたスケジュールでいっぱいだ。

エスカレーターを上って駅に出た。いつもより人が多い。
電車が遅れるというアナウンスに舌うちする会社員。改札から溢れ出て来る人々。駅員に文句をつけている女。ラッシュアワー時の混乱。
柱の前には制服を着た女子高生が三人、お喋りが止まらない。券売機前にも人の群れ。先程から変わらない掲示板の文字。

「車両故障だって」
ため息混じりの声。復旧の見通しは立っていない。会社や家族に連絡を入れる人々。早々に諦めて他の集団を求め、駅を出る人。時間が経つにつれ、混雑が極まって行く。
「これでは満員電車並みだな」
僕の前にも人が押し出されて来る。体や鞄が接触する。途方に暮れた顔の女子高生。あの三人組の制服とは微妙に違うデザインだ。それにしても……。背後の男の動きが気になった。僕はゆっくりとそちらに近づいて見た。盗撮か。男の持った鞄が不自然に彼女の下半身に接近している。

「ファスナー開いてますよ」
男の耳元に囁いた。そいつはぎょっとした顔で僕を見ると慌てて鞄を抱え、どうもと言って足早に立ち去った。気の小さい男だ。下衆な奴。
盗撮されていた彼女は気がつかない振りをして俯いた。僅かにカールした睫毛が長い。白い上質の陶器みたいな肌。固く握りしめた通学鞄。
彼女は恐らく男の行為に気がついていたのだろう。でも、口に出しては言わなかった。じっと耐えるしかないと思って我慢していたに違いない。そんな彼女の消極性につけ込んだ犯罪。卑劣なやり口だ。けれど僕は犯人を追わなかった。今は目の前の彼女のことが気になったから……。

「もう大丈夫ですよ」
僕は言った。
「痴漢男は逃げて行ってしまったから」
「あなたは警察の方ですか?」
上目遣いに彼女が訊いた。
「いや」
僕は軽く手を振って応えた。

「卑劣な行為が許せなかっただけです」
「ありがとうございます。その……」
「礼はいりません。僕はただ、自分のテリトリーが侵されるのがいやだっただけ」
「テリトリー?」
毛先に掛かったウェーブが微妙に表情を変える。アンバランス。右の表情と左の感情。消極性の中に積極性を帯びた一面がある。清楚な中に大胆さが潜んでいる。悪くない。

「始業は何時?」
「8時20分です」
今はもう8時12分。
「遅刻しちゃいましたね。でも、遅延証明をもらって行けばいい」
「そうですね」
彼女は頷く。人は更に増え続け、ついには駅からも溢れ出した。電車はまだ動きそうにない。

「どこの学校?」
「えっとそれは……」
彼女は言い淀んだ。警戒しているのだ。無理もないけど……。
「OK。知らない人間に情報を開示する必要はありませんから」
「すみません」
消え入りそうな声で言った。できれば、この場から離れたかったのかもしれないが、身動きさえ取れやしない。乱立する人の壁に、僕も彼女も押しつぶされそうになっていた。我鳴り立てるようなアナウンスが幾度となく繰り返され、人々は同じ不満を口にした。

「いったいいつになったら動くんだ!」
ホームに電車は入って来ない。着かない電車を待つために人は駅に押し寄せる。
「矛盾だね」
僕は両手をポケットに突っ込んだ。時間はまだ十分にある。僕はチューインガムを取り出して口に入れた。甘く刺激的なミントの香りが脳髄に広がる。何処か遠くを走る電車の音が心の奥に響いている。終着駅のない鉄の音……。

ターゲットはどこだろう。
防犯カメラは4つ。内、2つはダミー。使えない奴。構内に設置された小さなコンビニ。扉は完全には閉まっていない。とにかく人が多過ぎる。ガラスの向こう。雑誌を手にした男がレジに向かう。僕は手の中に握り込んだ小さなミラーで男の後を追う。
その時、足元の床が鈍く振動した。電車か。いや、違う。もっと深い地の底からの……。
「地震だ!」
突き上げ、それから左右に激しく揺れた。人々はどよめき、女性達が悲鳴を上げた。駅員が咄嗟にメガホンを取り、落ち着くようにと叫んでいる。何人かがバランスを崩して倒れ掛けた。が、あまりに人が多かったので何とか互いを支え合い、将棋倒しにならずに済んだ。
僕も彼女を支えた。背中側から押されたせいで、僕はまともに彼女を抱き抱える格好になった。

「す、すみません」
彼女は顔を赤らめて詫びた。でも僕の胸から離れることはできなかった。まだ足元が揺れていたことと、人の波が戻れずに密集して押されていたから……。
「大丈夫。動かないで。僕が支えていますから」
「本当にごめんなさい、私……」
更に押しつけられて彼女は身を縮めた。
「大丈夫。僕に身を任せればいい」

僕は片腕でしっかりと彼女を抱くともう一方の手で例の男の姿を追った。奴はコンビニから出ようとしていた。派手なゴシップの見出しが躍る週刊誌を読む振りをしながら歩いて来る。あの本のせいで右手の動きが見えない。僕は少しずつミラーの角度をずらしてそいつの動向を探った。地震の揺れはまだ収まらない。ここは山の傾斜を利用して作られた駅だ。橋桁の上にあるような物だから揺れも激しくなるのだろう。それでもようやく落ち着きを取り戻した人々が静かに揺れが収まるのを待っている。駅員もほっとしたようにメガホンを放して客達の安否の確認に動き出した。

そうして揺れがほとんど収まった時、蛍光灯が揺らいだ。それからふっと電気が切れた。停電だ。人々の間にまた不安が広がる。腕の中で彼女が一瞬、強く身をすり寄せて来たのを感じた。いいね。悪くない。できることなら、このまま両手で抱きしめたいところだけれど、僕には役割がある。すぐに予備電源が作動すると駅員が言った。が、明かりはなかなか点かなかった。朝とはいえ、建物の中は薄暗い。むやみに動き回るのは危険だ。駅員もそう叫んでいる。賢明だね。誰もが指示に従っている。静かな鼓動が音楽を奏で出した。ぴったりと重なった彼女の鼓動。僕よりも少し速い。緊張しているんだね。まるで柔らかな雛鳥のようだ。これはもう一つの僕の獲物。もう少しだけ僕の腕の中にいて……。
そして、本命はあの男。混乱に乗じて狙っている。
男は人混みを縫うように一歩また一歩と駅員に近づいて行く。僕は半歩だけ前に出た。そして、ミラーを握り込むと男との間の距離を測った。およそ4.5メートル。間に7、8人はいるけど問題はない。

「動かないで」
腕の中でもぞもぞと動き出そうとしていた彼女を強く抱く。彼女のあたたかい吐息が僕の心臓に掛かる。素敵だ。
男の右手に握られていたのは小型の消音銃。その銃口を駅員に向ける。こんな人混みでぶっ放そうというのか。大胆な奴め。ま、その辺りのことは他人のこと言えないけどね。

奴の指がトリガーに掛かった瞬間。僕はミラーを反射させて奴の目を射た。瞬くような点滅と共に電気が復活。男は顔面を週刊誌で覆うようにしながら更に駅員に接近し、ぴたりと背後に付いた。そしてその脇腹に拳銃を押しつける。
瞬間、駅員の目が男を見た。その表情が恐怖に引き攣っている。
だが、トリガーに掛かった男の指はそのまま停止している。僕の左手から飛んだミラーが男の側頭部を直撃し、間髪置かずに発射された風の弾丸が男の胸を貫いた。

鼓動が静かに刻を打つ。そして、ゆっくりと崩れ落ちる男の身体。その手から毀れ落ちる拳銃に覆いかぶさる雑誌。
「あなたは……」
手の中で怯える小鳥。光を帯びた残像が僕の爪先に宿る。
その時、電子掲示板の表示が変わり、遅れていた電車の到着時刻が表示された。
命拾いした某鉄道会社の御曹子と他の職員が出て来て倒れた男の介抱をした。ポーズだけだけどね。

「あの人……」
倒れた男の方を見て彼女が呟く。
「心配ありません。もう何もかもよくなったんです」
僕は言って、そっと彼女を両腕で抱いた。

「でも……」
彼女は納得が行かなそうだった。
「ドキドキしてるね。でも……」
僕は言って、そっと彼女の瞼を閉じさせた。
「みんな忘れてしまうんだ」

「あなたは……」
その時、電車の到着を告げるアナウンスが入って、僕達の周りからもどっと人が動き始めた。隙間ができて、僕達は自由になった。
「さよなら」

僕は手を放すと小鳥を逃がしてやった。もう二度と会えないかもしれない。でも、どうか元気で……。あの空のどこかで羽ばたいていて……。
ミッションは成功した。彼女が改札口へ消えてしまうと、僕は後処理のために駅長室へ向かった。遠くで鳴るサイレンと電車が近づいて来る音が交互に響く。今日はどっちも手に入れた。僕はポケットに両手を入れて考えた。次には愛だけを手にできるといいな。