星野あざみ短編集





僕は風になって滑るように君の中を通り過ぎた。一瞬、世界はばらばらに砕け、それから凝集し、再びそれぞれの形を構築して行った。すれ違った電車を追い越して行く時間。大勢がひしめく車両の中で、僕の意識は君を捕らえた。白いブラウスと紺色の上着。薄紅に染まる君の頬が光に反射して煌めいた。襟もとに結ばれたリボンは落ち着いた雰囲気の紅色。上着の襟に付けられた控えめな紋章。手にしているのは文庫本。足元には鞄。周囲には君とおなじ服装をした少女達。多分、彼女らは皆、同じ組織に所属しているのだろう。四角い箱の中では大勢の人間がひしめいていた。背格好も年齢も不揃いな彼らはいったい何処へ行くのだろう。幾つも連なった車両には数え切れないほどの人間が押し込められていた。

朝。晴れ渡った空はブルーだというのに、彼らの表情は一様に暗い。彼らは疲弊しているのだ。この時代、人間はまだ過重な労働を強いられていた。そんな資料を読んだことがある。彼女達は学生だ。学ぶために学校へ向かっているのだ。同じ制服の中で、一瞬だけ煌めいた彼女の瞳の光が僕の心に映り込んだ。捕まえたい。彼女の意識を……。僕は千分の一も掛からない時間を旅して、時空を渡った。あらゆる時代を越え、風のように駆け抜けて行く。まるですれ違う電車のように……。僕の瞳には異なった時代に生きる様々な人々の生活様式が映り込む。僕はそんな彼らの意識を捕らえることができた。そして、そこに在る者の知識や時代の思考を取り込む。彼らはまさしく生きた教材そのものである。未来から来た者達は、そうやって世界を学んだ。それが未来の教育システムなのだ。僕は意識だけを持ってこの世界を旅していた。その時代の環境を学ぶために……。そして、僕は君に出会った。これを運命と言わずに何と言おう。けど、僕の意識レベルの移動は速過ぎて、僕は君を見失った。

何処へ行ってしまったのか? 僕は何度も意識を飛ばす。そして、何度も電車とすれ違った。数え切れないくらい多くの電車と……。けれど、その車両の何処にも、君の姿は見当たらなかった。それらの電車には、似たような人間がぎゅうぎゅうに詰められ、次々とステーションへ運ばれていた。
君も何処かで降りたのだろうか? それとも僕が飛ぶのが速過ぎて、時間がずれてしまったの? 僕はたくさんの電車を見送った。そして、何千、何万もの人々の間を飛びまわった。まさか、ここではなかったのか? 僕は不安になった。或いは別の次元に来てしまったのだろうか? 僕はカラフルな色の電車を見降ろして途方に暮れた。一瞬だけ煌めいたあの瞬間に、僕はもう触れることができないの?
突然、僕の目の前で旧式の送電システムがスパークを起こした。
「危ないな」
僕は周囲から集めた元素を使って壊れたラインを修復した。
電車は何事もなかったように走り続けた。僕はほっと胸を撫で下ろした。が、関与してもよかったのだろうか。僕からすれば、ここは過去。未来から来た僕が関わってよいことには制限がある。そうしなければ、未来の歴史が動いてしまうからだ。けど、世界はずっと一つではない。この時代の人々が考えているより、遥かに自由なのだ。そして、世界は時折分岐する。そうして枝分かれした未来は、決して重なりあうことはない。それぞれの空間でそれぞれの世界を構築する。その枝は無数に存在している。それは多分、僕のような未来人が、時折、触れてはいけない物への干渉をしてしまうことに原因があるのかもしれない。それを思うと、少々うしろめたい気がしないでもなかったけれど、みすみす事故が起こって大勢の人が死んだり、怪我をしたりするのはいやだった。それに、僕は彼女を探しているのだ。精神的には既に関与してしまっている。僕は自分にそんな言い訳をしながらまた、長い電車の群れを追った。

そして、遂に僕は見つけた。しかし、それは彼女ではない。彼女と共にいた少女達だ。同じ制服を着て、同じリボンと校章を付けている。間違いない。僕はそっと彼女らの意識の隣に立った。隙間がないので、はじめは意識だけを送り込んだ。が、次のステーションで扉が開き、何人かが降りたので、僕はそこに身体を滑り込ませた。恐らく、僕と少女達は同じくらいの年の筈だ。
「それにしてもショックだよね。美久が不治の病だったなんて……」
少女の一人が声を潜めて言った。不治の病? この時代にはまだ克服されていない病気がたくさんあるのだということは知っていた。でも……。
「ねえ、今度、みんなでお見舞いに行こうよ」
また別の一人が言った。
「でも、どんな風に会えばいいんだろう? 顔見たら泣いちゃいそうでさ」
「ほんとだよ。知らなきゃよかった……」
彼女達はそう言って俯いた。ぎこちなく揺れる電車の振動が僕の心臓を貫いた。
「あの……美久さん、入院されたんですか?」
僕は耐えきれなくなって、思わず訊いてしまった。
「え? あなた誰?」
彼女達が不審そうに僕を見た。当然だ。彼女達は知らないのだから……。
「あ、突然すみません。僕、彼女の知り合いなんです。時々この電車に乗っているところを見掛けていたので……」
僕は自分でもよくわからない言い訳をした。けれど、彼女達は僕を信じてくれたらしい。鞄を持って頷いた。
「そうなのよ。可哀想に、随分やつれてしまって、もう自分では歩く体力もないの」
少女の一人が悲しそうに教えてくれた。
「そんなに酷い病気なんですか? いったいいつから?」
僕は情報を得たかった。
「もう三カ月になるわ」
「彼女の場合、とても進行が早かったの。もう長くは生きられないって……」
そう言って、その子は泣き出した。
「何処の病院ですか? 僕もお見舞いに行きたいんですけど……」
「市民病院よ」
「ありがとう」
次に電車が止まった時、彼女達はそこで降りた。僕はそのまま電車に残った。市民病院か。僕は意識を飛ばした。

病院の雰囲気は独特だ。白衣を着た人々と消毒薬のにおい。ここに来る人達は皆、どこかに病を抱えている。
僕はエレベーターで病棟に上がった。そこでドアの脇に掛けてあるプレートの名札を見て回った。美久……か。手掛かりはそれだけである。けれど、彼女の名前はすぐに見つかった。そこは個室だった。病状が思わしくない患者を隔離する部屋なのだと知って、僕は鬱になった。でも、とにかくドアをノックしてみる。だけど、返事はなかった。僕は思い切ってドアを開けた。彼女はベッドで眠っていた。
「美久……」
僕は静かにベッドの脇に近づいた。美しかった黒髪は抜け、頬は青白く、生気がなかった。点滴に委ねられた腕は恐ろしいほど痩せている。
「美久……」
透明な管を下る水滴が、僕達の間の距離を隔てた。もう少し前に来ればよかったのだ。僕にとっては一瞬の時間が、彼女にとっては何カ月もの時間に当たる。どうしてこんなことになってしまったのか? いっそここに来なければ……。でも、駄目だ。僕は知ってしまった。彼女の現状を……。この事実を今更元には戻せない。
「あなた……誰……?」
微かに目を開けた彼女が訊いた。
「僕だよ」
「……!」
見開いた彼女の目が僕を見つめる。あの時と同じ光がその瞳に射し込む。
「ずっと君を探してたんだ」
僕も彼女を見返す。
「知ってる」
彼女が頷く。それは意外な返答だった。枕元に置かれた花瓶には明るい色彩に満ちた花が生けられている。
「わたし、覚えてる。あの時、一瞬だけ通り過ぎたあなたのこと……」
「美久……」
僕は彼女の手を取った。その手は冷たくなり掛けていた。僕は首を横に振って、その手をそっと包んで頬に当てた。鼓動を感じた。やはり、僕達は出会うべくして出会ったんだ。
「待っててね。きっと僕が君を治してあげるから……」
でも、彼女は淋しそうに微笑んだ。
「無理よ。この病気は治らないって医者が言ったの」
「治らない? 嘘だ!」
「今の医学ではどうにもならないって……」
「それなら、未来の医学でならきっと治る。待ってて。きっと僕が君を治してみせる」
僕はそう言うと彼女のところから飛び立った。そして、未来に帰るとすぐに準備を始めた。
そして、僕は医学部に進み、研究を重ね、彼女を助けるための薬を持ってまたその病院を訪れた。

今度は時間がずれないように慎重にしたから、この間、彼女の病室を訪れた翌日に無事降りることができた。これなら大丈夫。きっとまだ間に合う。僕は急いで彼女の部屋に飛び込んだ。
「薬を持って来たよ」
僕は言った。
「あなた、大きくなったね」
「未来で医者になるための勉強をしたんだ。だから大丈夫。君の病は治るんだ。約束したろう? 僕がきっと治すって……。今日から僕が君の主治医だよ」
けれども彼女はやさしく微笑んだだけだった。
「さあ、早くこの特効薬を……」
僕が点滴の瓶を取り換えようとすると、君はそっと僕の手を止めた。
「怖いのかい? なら大丈夫。この薬は未来では安全に使われているんだ。臨床でも99%効果があった。だから、僕を信じて……」
僕は彼女を説得しようとした。けれども彼女は首を横に振った。
「わかってる。でも、それはできないの。未来が変わってしまうから……」
瞳に涙が溜まっていた。
「ならば、未来を分岐すればいい。僕達の幸福が待っている未来へ行こう」
それでも彼女は納得しなかった。
「何故?」
「わたし、うれしいの。最後にあなたに会えたから……」
「僕もだよ。だから、一緒に未来を生きるんだ」
「ごめんね。でも、わたしは逝かなくてはならないの。この世界を繋ぐために……」
「未来を……? もしかして君は……僕と同じ……」
彼女は瞼を閉じ、満足そうに微笑んでいた。そして、微かに唇が動いた。
「……ありがとう」

そうして、僕の手の中で命は消えて行った。
「美久……!」
僕はこの時代に残り、今もこの病院に勤務している。そして、彼女のように小児癌に苦しむ子ども達のために研究を続けている。成果も出て来た。この分なら、思ったよりも早く結果が出せるかもしれない。恐らく彼女はそう望んだのだ。僕が未来から持ち帰った知識と技術を、この時代で役立てるようにと……。それはもしかしたら、既に誰かの手によって改変されてしまっていたこの世界を修復するために必要なことだったのかもしれない。
時を越え、風が僕の胸を通り過ぎた。僕は定着し、もう自由に空を飛べなくなっていた。けど、僕は満足している。
――最後にあなたに会えてよかった
僕らは、はじめから、この時代に組み込まれていた……? そして、もしかしたら彼女は……。
「先生、12号室の患者さんが……」
ナースが僕を呼びに来た。
「わかった。すぐに行く」
僕はそう返事をすると窓を閉めた。無限の未来に続く風の通り道を、ただ一本の道に束ねるために……。