星野あざみ短編集
チェイサー





僕は眠っている間に過去を見る。夢ではない本当の時間を生きる。何処かで誰かが体験した本物の時間を……。それを、僕はこっそり覗き見ることができるのだ。ただし、それはあくまでも覗くだけで、過去に関与することはできない。そこに在る物に触れることも、人と会話し、何かを伝えることもできない。過去が変われば、歴史が歪み、世界に混乱を来してしまうからだ。

夜に見るのはランダムな過去だったが、昼には意図した過去を見ることができた。昼間、意識がはっきりしている時には、何時、何処で、誰が何をしていたかを規定し、選んで飛ぶことができた。その場合、僕は短い眠り、トランスレーションに陥る。その間は無防備になってしまうので、身体の安全を確保してから過去へ飛ぶことになる。ほんの一瞬前からおよそ200年前の間なら自由に飛べた。つまり、やろうと思えば、迷宮入りの事件の犯人を特定したり、歴史の教科書の間違いを指摘したりすることも可能なのだ。

だけど、僕はあえてそうしなかった。僕がそういった特殊能力を持っているということはまだ誰も知らない。話しても誰も信用してくれないだろうし、気味悪がられるのもいやだった。それに、既成の話でもよくあるように、興味の対象として実験施設に送られてしまう可能性だってある。そんなことになれば多分、ろくなことにならないだろう。僕にとっても、他の人にとっても……。だから、できるだけこの件には触れない方がいい。それでも時には、この力が僕自身や周囲の人を助けるような結果を齎すこともあった。けど、気をつけなければならない。余計なトラブルに巻き込まれないためにも、とにかく目立たないのが一番なのだ。

しかし、夜のトリップは自分でも制御できなかった。長い眠りは遠い過去へのトリップを可能にした。そして、思いもよらない事実を目撃することもままあった。
例えばある有名な歴史上の人物が、実は替え玉であったとか、世界を震撼させた殺人鬼が本当は女だったとか、数え上げればきりがない。歴史的事実として教科書に載っていることがほとんど間違っているなんてこともざらである。歴史とは、その時代の人々にとって都合のいいようにしょっちゅう作り返られているのだ。そして、真実は必ずしも一つではない。複数の人間が複雑に絡み合って一つの事象が起きる。どの視点から見、どういう立場で語られたかによってすべてが変わってしまう。正義や悪はいつだって簡単に入れ変わってしまう。そういう意味では大人もメディアも嘘つきであり、同時に犠牲者でもある。と僕は思う。

できることなら、この「過去を見る」という特殊な力を、自分の周辺だけに限定して使いたかった。けど、夜になると、意識は無数に開かれた時間をアトランダムに旅した。稀には楽しいこともあったけど、基本的には悲しい過去を見る方が多かった。多分、そうした負の場面には、何かしら磁気のような強い力が働いているのだろう。そんな過去を見るのは僕だって辛い。けれどそれは選べなかったし避けることもできなかった。

そんなある日、僕はいつものように過去へトリップしていた。そして、偶然、レイプの犯行現場を見てしまった。それは先週からマスコミを騒がせている女子大生殺人事件の現場だった。犯人は行為を行ったあと、彼女の首を絞めて殺したのだ。できることなら、そんな現場など見たくなかった。一刻も早くそこから逃げ出したいと思った。けれど動けなかった。彼女がぐったりと動かなくなると、犯人は振り返ってこちらを見た。でも、過去から僕の姿を見ることはできない。僕が過去の世界に干渉することができないのと同じように……。でも、僕の方からは男の顔をはっきり見ることができた。クリアなガラスの向こうに時間が透けているのだ。彫りの深い印象的な目と左右の濃さが違う眉毛。薄い唇。僕はその男の顔を見たことはなかった。でも、特色のある顔だ。もし、何処かでもう一度会えばわかる。けど、僕は探偵でも警察でもない。現場は僕が住んでいる街からは遠く離れていた。見つかる可能性は低い。仮に犯人を見つけたとしてもどうやって証明したらいいんだ。大人は多分信じてくれない。犯人だって否定するに違いない。そうなったらどうしようもない。僕は早くそいつが捕まってくれればいいと願いながら、毎日、テレビのニュースや新聞の記事をチェックした。けれど、犯人はなかなか捕まらなかった。

それから二週間が過ぎ、新聞もテレビもほとんどその事件のことを報じなくなっていた。世間にはもっと重大な事件や政治家の不正や芸能人のスキャンダルなどが溢れていた。人々の関心は移り気なのだ。
僕独りが悩んだところでどうにもならない。そんな事件は他にいくらでもある。僕はなるべくその事件のことを考えないようにした。現実は日々忙しく、過去もまた忙しい。僕は眠る度に次々と新しい過去を見続けていた。

ところが、ある夜、僕は気づいた。何かが少しずつ違っていることに……。
僕が過去の時間に入り込んでいる間、あちら側の人間や事象には影響を与えない。過去からは僕を認識することはできない。そこでは僕の存在は透明になっている筈だ。なのに、視線を感じた。誰かが僕を見つめているのだ。でも、どんなに周囲を見回しても、過去は僕を頭数に入れずに進んでいる。僕はいない筈の人間だ。そんな僕に視線を送れる筈がない。けれど、その感覚はいつまでも消えなかった。翌日も、更にその翌日も、よりはっきりと強く感じ続けた。
いやだ。何だか気味が悪い。
しかし、その感覚はずっと付いて来ていた。僕がどんな時間へトリップしようと、その視線は自らの存在を強くアピールして来る。何処に行こうと、何時の時代に飛ぼうと、僕は監視されていた。

眠る時間をずらしてみた。或いは、昼、様々なシチュエーションでトリップを試してみた。が、奴は見透かしているように、ぴったりと僕の意識に付いて来た。
けれど、起きている時には、その気配は消失していた。視線も感じないし、圧迫感もない。感じるのは過去の時間へ飛んだ時だけだ。ならば、もう過去へ飛ばなければいい。でも、それはできなかった。眠れば必ず僕の意識は何処かの過去に落ちた。人が無意識のまま夢を見るように、僕は過去を見るのだ。駄目だ。止められない。過去を見ることを止められない。僕は眠るのが恐ろしくなった。眠れば必ず過去に行き、あの視線を感じてしまう。一昨日は妙な威圧感を感じ、昨晩は遂に足音を聞いた。奴が歩いて来る。どんどん僕に近づいて来るのだ。振り向いても誰もいない。でも、着実に足音は近付いて来る。
「いやだ!」
僕は汗だくで目を覚ました。ベッドの中だった。鼓動が激しく、息も乱れていた。眠りたくない。だから、僕はなるべく眠らないように努力した。

けど、三日目の晩、遂に僕は耐えきれなくなってうとうとした。そして過去に落ちた。奴はまた、僕に近づいて来た。ゆっくりと確実に足音は大きく響いた。でも、ここは過去だ。誰も僕に触れることはできない筈だ。僕は何とか落ち着こうと努力した。ガラスの向こうでは、隠れキリシタンの者達が火あぶりの刑に処せられるところだった。酷い。あんな小さな子どもまで……。火は容赦なく彼らの肉体を焦がして行った。眼前に燃え盛る炎。僕は思わず悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。熱さはない。大丈夫。僕が罰せられている訳ではないのだ。誰も触れられない。害をなせない。大丈夫。ここは安全だ。僕は守られている。たとえどんな状況だろうと僕に直接危害を加えることはできないのだ。僕は目を開き、振り返った。眼前にあの男が立っていた。掘りの深いあの男の目が僕を見つめ、薄い唇が微かに笑んだ。
「どうして……?」
有り得ない。ここには過去の時間が流れている。誰も過去に触れることはできない筈だ。そこに現代の人間が交わることなど決して……。しかし、奴はいきなり僕の手首を掴んで来た。
「……!」
この男は僕と同じ時間旅行者……。交わっているのは奴と僕の時間だったのだ。
「放せ!」
僕は強引にその腕を振り払うとその男から逃げ出した。そして、幾つもの過去を飛び、ようやく現実の世界へ、見慣れた僕の部屋のベッドに戻って来た。

「眠れない……」
鼓動が震え、瞼が痙攣を起こしている。
「眠れない」
眠るのが怖い。

数日後。家の者が心配し、僕を病院へ連れて行った。だけど、それがたとえ、どんな名医だろうと、僕の症状を治すことなんかできない。過去へ飛ばなくなるようにするなんて……。
けれど、医者は治せると言った。薬と心理療法で……。
睡眠薬なんて役に立たない。眠ればきっと過去へ飛ぶ。僕は精神病じゃない。椅子に座らせられた僕は、思わずうとうと仕掛けてはっと顔を上げた。駄目だ。眠ったら今度こそあの男が僕を見つける。
奴は僕に見られたことを知っている。だから、僕を追って来てるんだ。そして、僕を殺そうとして……。僕は奴に掴まれた手首をぎゅっと強く握った。そして、目の前の人物を見た。
「眠れないそうですね。でも、心配は要りません。すぐに楽に眠れますよ」
あの男だった。見つかった。奴は現実の世界まで僕を追い掛けて来たのだ。蛍光灯の四角い光がぐにゃりと歪む。早く警察に知らせなきゃ……。ここに殺人犯がいると……。男の手には注射器が握られていた。そこで僕は過去に落ち、身体は消滅した。