星野あざみ短編集
肖像





行ってしまった馬車……。夕暮れに透けるおくれ毛の優しさ……。木陰に似た陰影の悲しみを映した鍵盤の前に佇んでいる僕。
久し振りにまた、あの夢を見た。悲しみが喉を締め付ける。息苦しさに目を覚ますと、君はそこにいなかった。白いシーツに残された襞だけが、君の存在を微かに証明している。
――あなたを失いたくないの
それは僕自身の言葉でもある。再び会えた喜びを自ら水泡に帰すなんて……。そんなこと、僕は断じて認めない。命よりも大切なものと引き換えにしたんだ。だから君は僕の命そのもの。僕らは決して離れることのない一つの炎に焼かれた番の魂になったのだから……。

思えば僕ら、類似点が多過ぎた。僕達はまるでショパンの影を追っているようだ。君は物語を書き、友人達に囲まれ、僕達は二人の子どもを育てている。画家もピアニストもいる。アドバイザーや評論家。そして政治に精通している者。庭には植物があって、ペットがいる。そして、僕達は常にマスコミや噂話の中心にいた。
運命はいつたって僕達を嘲笑っている。絆の脆さを笑っているんだ。そうさ。ちょっとしたボタンの掛け違いから、僕らは他人になるだろう。愛が憎しみに変わることだってあるかもしれない。それでも、僕は君を一人占めしておきたいと願っている。けれど、君は奔放でありたいと願っているんだ。君は風の流れを汲み、そこに流れる感情を拾い集めて物語を編む。それは形となって残るだろう。けれど僕が目指すのは風そのものだから、君の目には見えないかもしれない。多分、他の誰にも見えないのだろう。それは僕自身にも測り得ない喜びと悲しみを抱いて流れて行くものだから……。

ねえ、覚えているかい?この指に印された陰謀を……。
かつて、この指に愛が絡んでいた。君の細い髪と赤い血が……。愛を奏で、そして愛を殺したんだ。
心はいつも煮え滾っていた。そして運命はいつも、僕を弄んでいる。
触れられても尚届かない思い。遠い目覚め。君はいつだって未来を見つめ、僕はいつだって君を見ていた。忘れられない。この先、どんなに満ち足りたとしても……。

誰かが言った。僕の演奏は作曲者の意思を汲み、再現させるものであると……。ならば、この感情も、この意思も僕のものではないのだろうか。それは誰かの意思を再現するための手段であり、通り過ぎる風を満たす器に過ぎないのだろうか。だとしたら、僕はいったい何者なんだ。心はいったい何処にある。存在しない時間を切り分けるように、この手が他人に見えて来る。
先走る心と底なしに続く眩暈。
君の前ではいつも上手く言い回せない言葉。
揺らいで行く記憶。
想いを弾いたメロディーは何故か君に届かない。
その哀しみに風が結び付いて行く。
引き裂かれた肖像に吹きつける風。
冷たい夏の始まり。
あの時、僕らに何の非があったろうか。何もありはしない。そこにはただ、純粋な愛があっただけなのだ。

なのに、運命は再び僕らにそれを望むのか。
変えてやる。たとえ、どんな叱責を受けたとしても……。この手を裏切りの血に染めたって構わない。たとえピアノが弾けなくなろうとも……。絶対貫き通すんだ。誰にも邪魔はさせない。君が物語を編むというなら、僕はその結末を変えるだけ……。闇に浮かぶ影。何処までも僕らの運命に付き纏う。おまえはいったい誰なのか。そこに風は吹いていたか。僕という肉体を通り過ぎる風。君を愛撫し、僕を迸らせる。傷付いた目で、傷付いた心で、僕らは何を見て来たのだろう。出会うまでの道で……。君を守れずにいた僕の苦しみを知らずに……。どうかこの手に預けて欲しい。その肉体を、その魂を、そして、君の憎しみの何もかもを……。僕が受け止めるから……。

嗚呼、悲しいね。何てもどかしい夜。眠れない。君が欲しくて眠れない。
麗しい幻想と悪夢が続く街。
引き裂かれた心と二つの故郷。
僕は一人、ベッドの中で君を見つけられずにいる。
硝子に映る馬車の置き物。その車輪に轢かれて行くアコースティックな過去。
僕は彼じゃない。でも、他の誰でもない。それじゃあ、僕は誰なんだ。醒めない夢からそっと掬い出された命。君も多分オーロラじゃない。だけど僕らは出会ってしまった。合わせ鏡のような記憶の片鱗を持って……。君が僕のことを知っていたように、僕も君の存在に気づいていたんだ。そして、僕らが出会い、恋に堕ちるということも……。ピアノの上に彼の肖像画を飾るなんておよしよ。僕はここにいるだろう。そして、失われたもう半分の肖像は……。今はこうして僕の手の中にある。
幻想の中の時間は移り気のまま調べを回す。僕の傷付いた手に、君の傷付いた心が触れる。

「起きていたの?」
君は少し青ざめていた。
過去と未来をトランクに詰めて、たった今、遠い旅から帰還した。
「ごめんよ」
僕は言った。
「僕は詩人になれなくて……」
他の誰にもなれなくて……。僕は僕にしかなれなくて……。視線の先が意識していた。その先の運命を思って震えていた。肖像画の中の彼が運命に怯えていたように、僕もその恐怖から逃れられないでいた。あの頃とはちがう生き方を、僕らは選択したというのにね。
「眠れないんだ」
僕は言った。
「でも、もう少し眠らなくちゃ……」
彼女は言って、僕の髪にそっと触れた。
「眠らなくちゃ」
彼もまた眠るのだろうか。肖像画の中の彼も……。子どものように安らかに目を閉じて、自らの調べを聴くのだろうか。そうだったらいいのにね。僕の幸せを半分分けてあげてもいいんだ。僕は僕であるのと同時に、半分彼でもあるのだから……。そして、オーロラ。僕達は同じ一人の人を愛した。空気は少しずつ薄まって行く。そして、人も少しずつ変化して行く。時代の風が僕達を追い越して行く。
この手はもう、彼の音楽を奏でられない。失って行く悲しみと、獲得して行く苦しみと、夕暮れに霞む君の横顔。

鼓動が一つ波打った。失くした記憶の裏側で、瞼が赤く透けている。そこに血潮が集まっている。そして、僕らはそこで結ばれたから……。それは懐かしい母の胎内に似ていると僕は思った。熱い吐息と少女の匂い……。僕らは若い植物のように交尾して、白い小さな花達をたくさん咲かせ、草原に抱かれて眠るんだ。心地良い風がハープを鳴らし、この腕の中で君が眠る。フレーズから飛び出して来た彼と一つになって、フリーダムを奏でよう。他の何者でもない風の衣を纏って、僕は時を越える。彼が生きた時間を……。彼が愛したすべてのもの達を、僕が再現し、結末を書き換えてやる。
「眠らなくちゃ」
「そうだね。もう眠らなくちゃ」
ピアノの上のフォトフレーム。そこで微笑んでいるのはフレデリックじゃない。それは僕と君の上に降り注ぐこれからの未来。