ヤローの広い胸にもたれかかっておまえ、「気分はどうだ」と訊いた。後ろ向きに見上げるようにしながら、雲母をはがすような悪戯な調子でニヤリ笑った。おまえの頭に圧迫されて、柔らかい喉をへこませるヤローに、「息ができないだろ。もう降参か」と畳みかける。おまえは大いに馬鹿にした。ヤローの琥珀色の目。そのニス塗りのうさんくささを。ねじくれたヒゲを。おまえは向き直り、ヤローの瞼に無遠慮に触れた。「寝てろ」。そう言ってヤローを肘で押して倒した。その上に自分も重なった。
と、午後１０時のベルが鳴った。鳴り終えるまで、ふたりそうして横になっていた。１０回目のベルが鳴って、おまえが前髪を目から払った時、俺は眠くない、とヤローが言った。その腹の上に腹を乗せて、ヤローの仏頂面をおまえは見下ろした。頬をつねってみたが、抵抗はない。ただ、見上げ返す目は何かを言いたがっている。「言えよ」と言うと、何でもない、と返す。おまえはさらに顔を近づけ、溜めた息を吐き出すように「バカヤロー」と言って、クック笑った。ヤローはけだるげにおまえを抱えていた。
学校はどうだ、とヤローが言った。友達はできたか、とボソリ付け足した。少し間を置いてから、「殴ってきやがった」とおまえは言った。「殴り返してやった」と続けた。こたえになってない、と小さく呟く。ヤローは何かを考えていた。そして、おまえも。ベッドが撓んだ。おもむろに頬を寄せてきたおまえに押されて、ヤローの顔は笑っているような、困っているような妙な歪み方をした。ヤローの黒くて柔い毛束がおまえの耳をくすぐった。毛むくじゃら、とおまえは言った。ついでに「日干しの匂いだ」と罵るように付け足した。肩に鼻先を寄せてきたヤローに、ますます深く体重をあずけたおまえだったが、ガキの匂いだ、と言い返されて、プライドが少しばかり傷ついた。〝ガキが使うシャンプーの匂い〟。そう言い直してヤローは、隣に転がったおまえの腰に、太い腕をのせて、ひひひ、と笑った。
おまえはその黒い腕を脇に挟んで、ヤローの大きな額に、少し哀しそうに自分の額を寄せて、背骨を蛇にくすぐられたように、猫背になって笑い転げた。狂ったか、とヤローが言った。大きく息をついてから、「ぬいぐるみのパンダがよく言うぜ」。おまえはそう言い返すと、ヤローの胸の黒いところに詰まってる秘密を、色々と聞き出そうとするように、喉笛の下のあたりに耳を当てた。ねこじゃない、とヤローは言った。俺の喉はゴロゴロ言わん。それ聞いておまえ、「うるさい」と叱る。「診察なんだ」とケッケ笑う。薄赤い目に涙を溜めて、ヤローの黒い喉から白い大きな胸元へ、耳を滑らせ、おまえは診察する。聞き取ったのは不整脈。こうこうとなる風の音と、とても暗い葉擦れの音。
「ビョーキじゃないか、コノヤロー」とおまえはヤローの耳をつねる。
「心配があるなら言ってみろ」と兄貴ぶって肩を抱く。ヤローは返事を返さない。
おまえは目を閉じて、返事を待つ。いつまでもいつまでも、返事を待つ。
風が止む頃、なあおまえ、と小さな声でヤローは言った。俺はまだぬいぐるみのパンダか。そんなヤローの言葉におまえは笑った。「パンダでなけりゃ何なんだ」。そうかそうか、とボソリ言うヤローに、おまえはおまえらしからぬ真剣さで訊く。「じゃ、おまえは何になりたいんだ」。俺は、と言いかけてヤローは吃音した。「何だ」と言っておまえは、ヤローの閉じた口に指を入れて、そこにべろのないことを確認した。何も掴めない５本の指。かき混ぜ方を忘れたホイッパーの気分で、おまえは小さなその手を引き抜くと、「バカヤロー」と言った。バカヤロー、とヤローも言った。おまえがな、おまえがな、とふたり何度か繰り返した。おまえがな、おまえがな、おまえがな、おまえが、おまえ……。
やがてヤローとおまえの上に均等に掛け布団がのっかって、しばらくしてまたベルが鳴り出した頃、おまえはもう瞼が重くて開かなかった。窓の外では、また風の音が微かに鳴っていた。何になりたい、とおまえが訊いた。小さな小さな声で訊いた。更けてゆく夜に、ヤローは優しいため息を吐きかけて、何にもならない、と答えたが、おまえはそれを聞き漏らしていた。
俺はまだ〝ぬいぐるみのパンダ〟か。まだおまえにも、おまえの影にも、おまえのガールフレンドにもなっちゃいない。もうしばらくは、おまえのパンダか。俺もこれくらいの距離が好きだなぁ。
なあおまえ。俺はいつまでおまえのパンダでいられるんだろうか。
あまり長くはないのだろうが……もうしばらくは……もうしばらくは……。
ヤローはおまえを見つめながら、そう自分に言い聞かせた。
