月光は時の彼方。静かに満ち欠けを繰り返している。闇に眠る童子、無月《むつき》は、時代を刻む笛の音に、ふっと心を研ぎ澄ます。光の中で眠る童子、有月《うづき》は、淡い吐息を吐き出した。互いに見えぬ夢を追い、互いに会えぬ悲しみを抱いて夜気に忍ぶ。そうして再び時が巡り、会える時が訪れるまでじっと息を潜めて待ち続けるのだ。
「満ち足りるにはあと少し……」
「闇に足るはもう幾つ？」
光と闇とを結ぶ影。互いに届かぬ輪に眠る。人と神との境界で、彼らはもう随分と永いこと、夜の帳の番人をしていた。

　新月の夜。人の姿に転じた闇の子は、せせらぐ水のほとりに立った。そして、そこに飛ぶ小さな光の群れを見た。
「これは何……？」
彼はそっと近くに寄ると腕を伸ばした。
「小さな有月がいっぱいだ……」
伸ばした腕の隙間から、彼の着物の袂から、それは連なって空に飛び出していく……。それは蛍というものなのだと誰かが言った。
人の子が三人。その蛍を捕らえて籠に入れた。籠の中の蛍は光も弱く、悲しみに満ちていた。
「有月を捕まえないで……」
無月は言った。
「お願いだから、有月を……」
しかし、子供らは捉えた蛍を数えたり、大声で喋ったりしながら川下の村へと駆け去った。

「有月を……」
無月の胸がとくりと鳴った。
「あの子はいない……」
彼女は月の光の向こう側……。無月の手の届かない場所で眠っている。その有月の欠片のような光を散らした蛍の群れが彼の足元から、闇の空に向かって駆け昇る……。その空にも小さな光が瞬いていた。あれは星というのだと誰かが言った。それはもう随分と昔のこと……。それが人間の子供だったのか、それとも草や木の精霊だったのかはもう忘れた。しかし、それが星という名前の光なのだということは覚えている。彼らと同じ闇の夜を照らすものだとわかるから……。

地上も闇で満ちていた。その闇から飛び立っていった蛍は空に上ってあの星と交わるのだろうか。それとも、彼ら自身が空に浮かぶ星になるのか。無月には知りようもなかった。それでも、彼は空を見上げ、腕を伸ばした。
「有月……さあ、降りておいで」
風がそよそよと草の葉を揺すった。
「大丈夫。もうここには誰もいないよ」
――ほんとう？
「ああ。だから、おいで。いっしょに蛍を見よう」

その手に伝わる微かな気配……。
「無月……」
その腕の中にふわりと現れた少女が面を上げた。透ける光のような顔で彼女が笑う。無月は１４、有月は８つ。彼らはずっと神の領域に生きる子供だった。やがて月が満ちて、満月となれば、二人の年齢は逆転する。が、そうなったとしても、無月はずっと有月のことだけを考えた。淡い光の中に生きる有月は１４の少女になっても変わらない。無邪気に笑う幼子のまま……。透ける光の中に生きる少女……。

「ごらん？　蛍の群れだよ。まるで有月の涙が散っているようだね」
「有月の……？」
彼女は不思議そうな表情で無月の黒い瞳を覗いた。決して光の差さない無月の瞳。そこから熱い何かが流れ落ちる。そっと手のひらを当てて拭うと、有月が笑う。
「蛍……きれい……」
「ああ……有月みたいに……」
無月はそっと彼女を抱え直すと空を見上げた。

「天の川のようだ……」
地上から続く星の河……。天を流れるその河の端と端で愛し合う者たちがあるという。年にたった一度だけ、会うことが許される恋人たち……。その神話を誰に教わったのか彼は思い出せなかった。が、それはまるで自分たちのようだと無月は思った。一つ月の端と端。新月から満月までの満ち欠けに応じて、彼らは姿を変えていく……。彼らは月の引力に捕らわれて、決してその領域から抜け出すことはできなかった。１４の少年は、決して１４の少女と出会うことはない。すれ違うだけの片恋のまま……。そして、少女はいつも幼子のまま……愛されるために生まれてきた光……。

「ああ、有月……。強く、激しく抱き締めて、散らしてしまいたい……この蛍のように……おまえのすべてをこのおれの中に閉じ込めて……」
「無月……？」
無邪気な瞳……。影を持たない光の少女……。

「無月？　何を見てるの？」
「有月……おまえを」
無月はそっと少女の唇を吸った。
「有月……おれはいつもおまえだけを見つめている。おまえだけがおれの中に光を映す鏡となれる」
「ううん。ちがう。無月だけがわたしの中に安らぐ影をくれる」
有月は少年にその手を絡ませて言った。
「無月だけが心のすべて……」
「有月……おまえこそがおれのすべて……」
満ちては欠けるその引力に二人の運命は捕らわれていた。子らは光と影となり、慈しんでは互いを我が者として愛し合った。

「蛍は何処へ帰っていくの？」
有月が訊いた。
「未来へ……」
「それじゃあ、わたしたちは何処へいくの？」
「遠くへ……」
無月はぎゅっと有月の手を握る。
「行こう、明日へ……」

　空にはすっかり日が昇り、月はすっかり見えなくなった。
「行こう、光に満ちたこの世界へ……」
しかし、無月の身体は闇の影。光に焼かれて溶けていく……。
「行こう、未来へ……」
それでも彼は放さない。有月は光の中で輝いた。
「有月……。おまえはもっと広い世界へお行き……何にも捕らわれることのない光の世界へ……」
「無月の身体が……」
「ああ……」
「消えてしまう……」
「おれは光の中では生きられない。おれは闇に映る影だから……」

しかし、有月の身体も消え掛けていた。昼の光は強過ぎて、淡い彼女の光を飲み込んでしまう……。二人、向かい合った月の子は、抱き締めて鼓動を確かめる。
「行こう、まほろばへ……」
「まほろば？」
「ああ。そこでなら、いつだっておれたちは共にいられる……まほろばの国でなら……」
光に散った二人は光の小さな粒子になった。それはまるで蛍の光のように儚く、高く遠く空の彼方へ上って行った……。二人が目指したまほろばの国……決して離れることのない理想郷。月の国へと帰っていった……。