千年祀り唄
―宿儺編―
1 踊る人形
夕方6時。駅前の広場を行き交う人の波はまるで途絶えることがなかった。電車に乗ろうと改札へ向かう人。立ち止まってスマホを見たり、駅の構内から溢れ出て来る人達を目で追ったりしている人。ベンチに腰掛けて、一休みしている老夫婦。そんな中、買い物帰りの主婦の集団が、ふっと立ち止まってそれを見た。老婆も腰を曲げて、孫に囁く。
「ほうら、上を見てごらん? そろそろ始まるよ」
学生達も足を止めてその時計を見つめた。それはデパートの外壁に設置された大きなからくり時計だった。時報と共に音楽が流れ、人形が出て来て踊るのだ。それを人々は楽しみにしていた。忙しい時間の中で、この瞬間だけは誰もが足を止め、天に顔を向けて微笑する。いつもスケジュールに追われ、殺伐とした時を過ごしていたとしても、一瞬にして癒される和みの時間。
そう、いつもなら彼女もそうだった。しかし、今日はとてもそんな気分にはなれなかった。琴葉(ことは)は落ち込んでいた。
彼女はトウシューズの入ったバッグの取っ手を強く握りしめて唇を噛んだ。
(夢だったのに……)
3才の時からずっとバレエを習って来た。
そして、誰よりも練習し、バレエを愛して来た。
(そうよ、いつか憧れのプリマドンナ、オデット姫になりたくて……)
その時、人々の間から小さな歓声が上がった。時計の中の人形が出て来て、音楽に合わせて踊り始めたのだ。琴葉もついそこに目が行った。楽しいメロディーに乗せて人形達がユーモラスな動きで人々を魅了した。すぐ前には小さな男の子を抱いた母親がそれを見上げていた。男の子は黄色いニットの帽子を被り、赤い風車を持っていた。まだほんの3つくらいだろうか。さらさらとした黒髪が肩の下まで伸びている。その子どもは人形のように愛らしい顔立ちをしていた。が、その足はだらりと垂れて力がない。子どもの目は真っ直ぐに時計の人形を見つめていた。その時、再び歓声が上がった。王子様の人形がお姫様の人形を高く掲げて回ったのだ。
(私なら……)
(ぼくなら……)
――もっとうまく踊れるのに……
琴葉の意識に誰かの声が重なった。
「誰?」
思わずそう声に出して訊いた。しかし、周囲の人々は皆踊るからくり人形に気を取られていて気づかない。と、さっきの子どもが振り向く。
(まさかこの……)
子どもは微笑し、そしてまた時計を見つめた。オルゴールが鳴りやんで人形が扉の向こうに消えてしまうと、人々は再びそれぞれの方向へ歩き出した。
子どもは母親の肩にもたれ掛かって琴葉を見つめた。
「おねえちゃんもおどるの?」
その子が訊いた。
「え、ええ」
琴葉は弾かれたように答えた。
「そう。ぼくもおどるよ」
「でも……」
その子の足は細かった。膨らみもなく、布でできているかのようにだらりと垂れたままだ。
「きょうのよる、またここにきて」
唐突に子どもが言った。
「夜? 何を言ってるの? 私は……」
琴葉は戸惑っていた。こんな小さな子どもが言うことなどまともに受ける必要などない。多分子どもは、どこかで覚えた言葉をただ口にしているだけなのだ。しかし、その黒い瞳の奥底に引き寄せられるように琴葉はその顔を見入ったまま動けずにいた。
「やくそく」
子どもは風車を持っていた方の手を軽く上げた。
「ママ」
それから、母親の顔を見て首をこくんと振った。
「ご用は済んだの?」
「うん。すんだの」
子どもが答える。
「こうえん、いく」
続けてそう言う子どもに、母親が微笑む。
「ええ。和音(かずね)、あなたがしたいように……」
そうして彼女は歩いて行った。
「かずね……」
それが子どもの名前なのだと知った。しかし、彼らの姿は人混みに紛れてあっという間に見えなくなってしまった。
――きょうのよる、またここに……
「馬鹿げてるわ。そんなこと……」
彼女は首を横に振った。
――きょうのよる……
(あの人もそう言った……)
――ねえ君、今日の夜またここに来てくれないか?
琴葉は黙って唇を噛んだ。
――この指輪を君に贈るよ。二人の愛の証に……
しかし、それは外されて、今は琴葉のポケットの底に沈んでいた。
すべての喧騒が、今は青白い照明に照らされて動きを止めている。
(信じていたのに……)
琴葉は石膏でできた大木のモニュメントの幹に額を寄せて俯いた。
秋の芸術祭。そして、それに続く海外遠征、パリ公演での演目は……琴葉がずっと憧れていた『白鳥の湖』に決まった。
(オデット姫が踊りたい)
それは幼い時からの彼女の念願だった。
が、彼女は選ばれなかった。実力がなかったのではない。彼が拒んだからだ。
――琴葉ですって? 駄目だ駄目だ。彼女の踊りはとても海外では通じませんよ
彼はバレエ団のホープで団長からも気に入られていた。その彼が選んだのはライバルの雛子(ひなこ)だった。雛子は街の有力者の娘。パリ公演の話は、その父親が持って来た。海外進出。それはバレエ団にとっての悲願であり、団員個人にとっても大いなるチャンスだった。世界の舞台に立つ。そこで認められればビッグになれる。
彼は自分の野心と琴葉とを天秤に掛け、自分にとって優位になるであろう雛子へと心変わりしたのだ。
(そうよ。私にはないものを雛子さんは持っていた。お金と権力。それに……)
1カ月後、彼は雛子と婚約した。
――結婚は大事だからね
――どうして? 私のこと、好きだと言ったじゃない。一緒に白鳥を踊ろうって……
――君のことは……好きだよ。でも、今はもう事情が変わったんだ。彼女は僕の野心を叶えてくれる
――彼女の父親がでしょ?
――同じだよ。僕はこれから世界に出る。輝かしい未来が僕を待っているんだ
月が傾いていた。
――なら……指輪を返すわ
――いらないよ。どうせ安物だったんだ。それでもお金に換えればいくらか君の生活の足しになるだろうから……
琴葉は平手で彼の頬を打つと、そのまま走って建物の外へ出た。背後では仲間達の陽気な笑い声が木霊していた。
――おめでとう!
――婚約おめでとう!
――パリ公演の成功を祈って乾杯!
「遊ばれていただけだったんだ」
琴葉の頬に涙が伝った。
「信じていたのに……」
――君のオデット姫が見たいよ。いつか二人で踊ろう
「信じて……」
ポケットが熱い。捨てずに持って来た思い……。
「このまま溶けてしまえばいいのに……」
心に丸い真空の穴が空いて、琴葉をどんどん暗い闇へと引きずり込もうとした。琴葉はポケットから指輪を出そうとした。が、それはあまりに熱くて火傷しそうだ。
「どうして……?」
(こんな物、捨て去りたいのに……)
「熱くてとても掴めない……」
琴葉は狼狽していた。
「それは君の心だから……」
背後で声が響いた。振り向くと、そこには中学生くらいの少年が立っている。肩まで伸びた黒髪に印象的な瞳。黒いシャツにズボン姿の彼は、頭に黄色い模様の付いた毛糸の帽子を被っていた。
「まさか……! あなた……かずね君?」
「そうだよ。熱くなり過ぎた君の鼓動が妙に気になってね」
「熱くなり過ぎた鼓動?」
「ああ。このままでは君自身を燃やし、焼き尽くしてしまう」
「焼き尽くす? でも、私は……私……」
彼女の手は吸いついたように指輪から離れない。金属は加熱し、白く熱い湯気を吹き出していた。
「どうして? 熱い! 手が離れないの。助けて!」
「大丈夫。さあ、こっちを見て! 僕のメロディーを聞くんだ」
和音の手の中に現れた小さな笛。彼がそれを唇に当てると、そこにあるすべての音が音楽に変わった。靴音も電車の音も、噴水の水の流れも……何もかもが一つの音楽を奏でた。
「これは……」
幻想的な青い光のステージで黒鳥が舞っていた。
「あなたは……」
少年は帽子を脱ぎ捨てると彼女を手招いた。美しいしなやかな動き。彼女は自然に吸い寄せられるように彼に従った。その調べはこれまでに聴いたどんな曲よりも心に響いた。少年は軽やかに彼女を抱える。そして、軽い羽のように踊った。
「白鳥が……」
白い羽が風に舞い、鳥になって飛んで行った。それは彼女のポケットに沈んでいた想い……。鳥は夜に溶けて、その羽は灰色に染まった。からくり時計の人形達が扉の向こうからじっとこちらを見つめている。
「おいで。僕のからくり人形。今夜は眠らずに、僕と二人で夢をみよう」
琴葉は少年の腕の中でうっとりと頷いた。
そして踊り続けた。そうしていれば何もかも忘れていられた。自分を裏切った恋人のことも、出られなくなった舞台のことも……。
「踊ろう」
少年が言った。
「そうね」
踊ることで二人の鼓動は重なって行く……。
(ずっとこうしていられたらいいのに……)
彼女はそっと心の中に涙を流した。
(踊りのことだけを考えて……。いいえ、何も考えずにただ踊り続けたい……)
「いいよ。その夢叶えてあげる」
和音が不意に足を止めてそう言った。
ビルと駅舎の隙間からまるい月が覗いている。時計の針はもうすぐ新たな時報を告げようとしていた。カチリと微かな音がして、人形達はいつでも扉の外に出られるように準備している。しかし、今は真夜中。オルゴールは止められ、秒針は闇に怯え、震えながら進む。
「君の夢、叶えてあげる」
和音がもう一度そう言った。
「夢を……」
「そう。君の夢を……」
その髪がふわりと風に舞った。
「ああ……」
少年は軽い調子で彼女を抱えた。そして、静かに回る。和音の長い黒髪の分け目からもう一つの顔が覗いた。それは歪な鬼の顔だった。
「あなたは……」
「僕は……」
少年はそう言い掛けて口を噤んだ。
「いいわ。言わないで」
少年の瞳に滲む感情を見て、彼女も沈黙した。それからまた、二人は鼓動を合わせて踊った。
そして、夜明けが訪れた時、そこに残されていたのは片方だけのトウシューズ。
時報が鳴ると扉が開いてからくり人形が踊り出す。小さな人形は道行く人々の目と耳を楽しませるために踊った。
そこに佇む一人の女性に抱かれて、男の子がじっとその人形を見つめていた。その子はニットの帽子を被っていた。片方の手には風車。そして、もう片方の手には週刊誌を持っている。表紙の見出しには、雛子の父親の会社の倒産とバレエ団のパリ公演中止の文字が躍っていた。
踊るからくり時計の人形は楽しそうだった。
「この人形はいいね」
「いつまで見てても飽きないよ」
人々が口にする。曲が途切れ、人形が扉の奥へ引っ込んでしまうと、また人々は広場から立ち去って行った。
「ママ……」
和音が訊いた。
「またここにきてもいい?」
「ええ」
彼女は頷く。
「和音のしたいように……」
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