千年祀り唄
―宿儺編―
3 半音(後編)
「毛糸の帽子を被った男の子? いやだ、それって例の幽霊じゃない?」
亜澄の話を聞いた親友の菜緒が大仰に言った。
「ちがうよ。和音はわたし達と同じくらいだったし、それに手だってちゃんと温かかったもん」
「えーっ? 亜澄ってば、彼の手握ったの?」
「ちがうよ。彼が急にわたしの手を掴んで来て、それで……」
「やっぱ握ったんじゃない! いいな。亜澄ばっかり……。あたしだって彼氏欲しいよ」
「そ、そんなんじゃないよ。昨日初めて会ったんだし……」
「でも、間接キスしちゃったんでしょう?」
「だから、それはことの成行きで……。彼だってそんなこと意識してないと思うよ」
「もういいよ。あんたののろけ話ばかり聞かされたって面白くないもん。そんじゃね、あたし帰るわ」
「うん。バイバイ。また明日ね」
亜澄もそう言って友人と別れて塾に向かった。
来年はいよいよ高校受験を控え、秋からは部活もなくなった。その代わり、その時間に塾のコマを増やしたのだ。
そして、塾が終わったあの時間にまた、和音と会う約束をした。
――へえ、彼氏ができるなんて……。やるじゃん。高校受験も目の前だってのに……
――そんなんじゃないよ。和音は彼氏なんかじゃ……
「そう。彼はただの……」
しかし、否定すればするほど、胸が高鳴り、頬が紅潮した。和音の吹くメロディーが頭からずっと離れずにいる。昨日彼が返してくれたお守りを強く握ると、胸に当てて祈った。
――会いたい
幸福な感情がゆっくりと彼女の心を満たして行った。
(会いたい)
「もういちどあのこに……」
その日一日、和音は落ち着かなかった。空を見上げては太陽を恨む。
「あーあ。はやくしずめばいいのに……」
夕方、昨日と同じあの場所で亜澄と会う約束をした。なのに時間はなかなか過ぎようとしない。一度などは乗っていたキリンの背中から転げ落ちた。あまり何度も空を見上げていたためにバランスを崩したのだ。頭と背中をしたたかに打ったが、アスファルトの上に落ちたハーモニカが壊れてはいないかとそちらばかりが気になった。幸い、ハーモニカは無事だった。彼はそれを大事に抱えると少し大人しくしていることにした。
「ねむろう……」
彼はぼうぼうに伸びた芝生の山に潜り込むと夕方まで眠ることにした。彼女と会うにはまた少年の姿にならなければならない。そのためにも体力を温存しておく必要があった。
遠くでサイレンが鳴っていた。頭上で烏の群れが賑やかに鳴きながら通り過ぎる。
「いけない」
和音は急いで跳び起きた。もう西の空が真っ赤に染まり掛けている。彼はふーっと息を吐くと風に身を任せてそこに流れるメロディーをなぞった。
「なんだろう? いやなノイズがまじってる」
一瞬で少年の姿になると、彼は柵を跳び越えて道路に出た。東の空に煙がたなびいているのが見えた。そちらから幾つものサイレンが聞こえて来る。
「火事か……」
田舎では珍しい。彼は西に向かった。反対の方向へ車が何台も通り過ぎた。火事見物の連中だろう。和音はそういう者達のことをどうしても好きになれなかった。
(いやな感じ。今日はノイズが多過ぎる)
二つ目の交差点を右に曲がると、そこに小さな人混みがあった。その先には白い車。赤いライトが点滅している。火事の現場かと思ったが、方向が違う。
「何かあったんですか?」
近くの人に訊いてみた。
「轢き逃げだってさ」
「可哀そうに、まだ中学生の女の子だってよ」
「中学生の……」
胸騒ぎを覚えた。和音は人混みをかきわけて前に出た。丁度担架に乗せられて、少女の身体は車の中へ入るところだった。
「亜澄……」
彼は必死に耳を澄まして彼女の鼓動を探した。しかし……。
(聞こえない……)
彼は思わず叫び出しそうになった。
(君の鼓動が聞こえない……!)
「どうして……!」
救急車が走り去り、あとに残された人々にパトカーのライトが反射する。現場検証していた警察官の一人が側溝から何かを拾い上げた。その手からチリリと小さな鈴の音が漏れた。昨日、和音が返した彼女のお守りだ。
チリリ、チリリン。
――何があった?
和音はその鈴に同調し、その音の見た過去を救い取った。
「亜澄……」
――許さない……!
少年は風に紛れてその場を去った。
夜。男が運転するトラックの前に、いきなり少年が飛び出した。急ブレーキを踏んで車が止まる。
「馬鹿野郎! 轢き殺されたいか!」
窓を開けて男が怒鳴る。
が、道路には誰もいない。訝しそうに目を瞬かせている運転手。
――おまえが殺したのか?
闇の中から声が響いた。
「何?」
男がフロントガラスに目をやると、そこに赤い帽子をかぶった少年が四つん這いになって、じっと男を見つめていた。
「貴様、どこから俺の車に……」
「おまえが殺したんだ! あの子を……!」
その声は不自然なまでに大音量で響いた。そして、背後で鳴る鈴の音……。
「やめろ!」
運転手は強引にアクセルを吹かすと急発進した。
「……!」
その勢いで少年は弾き飛ばされ、道路に落ちた。赤い帽子が脱げてタイヤに轢かれる。
「お、おまえが悪いんだぞ! 俺は悪くない。そうだ。轢くつもりじゃなかった。あの中学生だって……。あんなところでぼうっと突っ立ってやがったから……それで……」
――だから殺したのか?
「携帯が鳴ったんだ。いきなりハンドルが……そしたら歩道にあの中学生がいたんだ。あんなところにいたのが悪いんだ!」
男は滅茶苦茶に車を走らせた。ダッシュボードの上に乗っていたビールの缶が落ちて、助手席を濡らした。
「畜生!」
男は右へ左へハンドルを切り、塀や縁石にぶつかってはまた車道に降りる。
チリン。
少女の鈴の音が聞こえた。
チリン。
閉ざされた男の心の闇に食い込んで来る。
チリン……。
フロントガラスにへばり付くように立つ少年。
「な……!」
黒髪が長く靡いている。少年は笑いながら鈴を振った。
チリン。チリン。チリン。
まるで輪唱のように幾つもの鈴の音が重なって行く……。
チリン。チリン。チリリリリ……。
「やめろ! やめろ! やめてくれーっ!!」
ついに車はブロック塀に激突し、ボンネットがめくれ、フロントガラスが割れて粉々になった。ひしゃげたドアをこじ開けて男が転がり出て来た。
「逃がさないよ」
少年が言った。
「絶対にね」
背後の歩道には少女のために供えられた花やぬいぐるみが置かれていた。
「ここはまさかあの……!」
男が怯えたように見開いた目を震わせた。
「そうだよ。ここであの子は死んだんだ。おまえの車に轢かれて……」
(美しい鼓動は永遠に止まってしまった……)
「おまえのせいでまた、ぼくは永遠の半音を失ってしまったんだ!」
少年の髪が闇にばらけた。そこに和音のもう一つの顔が現れた。怒りに燃えた鬼の形相、スクナの顔だ。
「ば、化け物……! 誰か……」
男は怯えながらも必死に走り、脇道へ逃げ込んだ。
――逃がすものか!
少年の長い黒髪が弦の端となって伸び、男の首に絡みついた。
「た、助けてくれ。何でもする。だから、頼む。殺さないでくれ……」
哀願する男に向けて少年は鞭を振るった。
「おまえに生きる資格などない」
少年の瞳が赤く燃えた。そして、鬼と化した手で地獄の弦を奏でる。
「ヒィ……! お許しを……」
追い詰められた男が塀にもたれて失禁する。恐怖に引き攣った顔は見るに絶えないほど醜く歪んだ。
「どうした? もっと逃げ回らないのか?」
和音が言った。
「逃げ回れよ。ほら、もっと! もっと! 歪んだ根性を曝し出せ!」
和音が吹くハーモニカの音色に操られ、男はぎくしゃくと踊る。
和音の三つ目の手が指を鳴らす度、男の肋が折れていく……。その度に男は悲鳴を上げ、涙に塗れて狂気の声で歌った。
「いい様だ。だが、まだだ。おまえの鼓動はまだ汚れている……!」
和音は亜澄の鈴を鳴らした。そして、男に向かってトラックを走らせた。呪縛を解かれた男が恐怖の表情で必死に逃げる。トラックはそれを執拗に追い掛け回した。運転席の屋根に乗った和音が鳴らすハーモニカが男の魂を追い詰め、トラックがその身体を轢き潰した。
――終わった
月も星も何もない夜だった。暗い街灯の下で和音はハーモニカの銀色を握った。そこに書かれた彼女の名前……。
AZUMI……。
――半音?
――だって、このハーモニカにはない音でしょ?
「君の音だよ。それはぜんぶ、君の音だったんだ……」
――わたし達って、どっちがシャープでフラットなの? いつもナチュラルにはなりきれなくて……。本当のわたしを探してるんだ。いつだって……
「亜澄……!」
銀色を握り締めて少年は泣いた。
(ぼくはまた、大切な半音を失くしてしまった……。永遠の半身と、永遠の君を……)
(二人、鼓動が重なり合って、同じメロディーを奏でてた……)
チリリ……
風が彼女を連れて行った。
(ぼく達は同じ孤独を持っていた……)
和音は産まれて初めて他人のために泣いた。
他人の死を悼む心を初めて知った。
「ママ!」
母に向けて両手を伸ばす和音。そんな息子を抱きあげて、彼女は子守唄を歌う。
「ねえ、このまちをでよう! いますぐにだよ」
母の顔を見つめて和音が言った。
「和音がそうしたいなら……」
母はやさしく子どもの頭を撫でて言う。
「そしたら、また、あたらしいぼうしをかってくれる?」
「ええ。買ってあげますとも……」
母の温もりに抱かれて和音はようやく満足した。
そこは悲しい街だった。永遠にでき上がらないホールのように、人々は、中途半端なまま、傷付け合って生きている。季節はもうすぐ冬に向かおうとしていた。
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