千年祀り唄
―宿儺編―


5 音宿儺(前編)


それは命の歌だった。淡々と続く二つの鼓動……。そして、それを守るように大地の歌が重なって行く……。暗く温かい水の底で、二つの命は絡まり合って、互いの命を愛しんだ。

「残念ですが、双子のお子さんのうち、一人には染色体の異常が発見されました」
医者が言った。
「そんな……! せっかく授かった子なんです。何とか二人とも助けられませんか?」
彼女はずっと長い間妊娠を望んでいた。姑や周囲からの圧力や心無い言葉に傷付きながらも耐え忍び、努力と治療の末に、ようやく叶った妊娠だったのだ。そう簡単に諦める訳にはいかなかった。

「しかし、このままではもう一人のお子さんにとってもよくありません。月齢が上がれば、成長の妨げになってしまいます。それに、もし、無事に生まれたとしても、恐らく重い障害に苦しむことになるでしょう。それに、母体にとっても負担が大き過ぎます。リスクを考えるならば、健康な一人のお子さんを残して、一人は堕胎した方が……」
「おお……」
彼女は両手で顔を覆って泣いた。付き添って来た夫も凍り着いたように動けないでいる。
「でも、一人はちゃんとまっとう・・・・な子どもなんですね?」
夫は医者に念を押した。
「ええ」
医者は苦渋の表情で頷く。

「ごめんね」
と彼女は言って、そっと自分の下腹部を撫でた。
「産んであげられなくて……ごめんね」

やさしい波動が広がった。聞きなれた鼓動。そして音の振動……。それがほんの少し乱れている。ただそれだけだった。いつもと変わらない時間の中で、彼らは繰り返し同じ夢を見ていた。深い闇と鼓動……。せせらぎとやさしさと……。肉の壁が震え、水に伝わり、太古の記憶や感覚がゆっくりと流れ込んで来る。
何もかもが安定し、満たされていた。何も不自由なことなどなかった。そして、何一つ過不足なこともない。彼らはそこに命としてのみ存在していたのだ。

突然、鼓動が聞こえなくなった。安寧の中で、一つの命が終焉を迎えた。

――どうして?

射抜かれた心臓。一瞬だけその身体がピクリと跳ねた。

――どうして……

悲しみが水に透けた。自分は選ばれなかったのだ。閉じたままの瞳から涙がこぼれた。

「痛みはなかった筈です」
医者が言った。人工的に心停止させた胎児は、苦痛は感じなかった筈だと……。

――……

涙は水に溶けて見えなくなった。いつも並んで聞こえていた鼓動は深い闇の底に沈んで消えた。


それから、およそ半年が過ぎた。妊娠の経過は良好だった。しかし、難産の末に産まれた赤ん坊は産声を上げなかった。暗闇から突然解放されて戸惑い、恐れ、眩しさと憎悪に支配されたまま、拳を固く握りしめていた。
「先生、私の赤ちゃんは……」
たった今、出産を終えたばかりの女がか細い声で訊いた。
「大丈夫。必ず助けます」
医者は力強い言葉で応じたが、実際は一刻を争う緊急事態に陥っていた。

生まれた子どもは呼吸をしていなかった。心拍も聞こえない。

――必ず助ける

医者は言った。半年前には命を見捨てた同じ医者が……。今度は真剣に命を救おうとしているのだ。

――どうして……?

選ばれなかった命と選ばれた命。右手と左手。

――どちらが重い?

二つの心臓。
二つの鼓動。
それが絶妙に絡み合って命を奏でる。
無音の鼓動。
無音と一つ。
一つとおまえ……。
果てしなく続く音の波……。
音の命を支配する。


医師の手の中で、赤ん坊は夢を見た。
狭く温かい肉に抱かれ、ゆっくりと流れて行く時の鼓動を思い出すように……。
しかし、その部屋は清潔過ぎた。
すべての器具が消毒され、独特なにおいがした。
そして、医者の施す治療は皆、無意味に思えた。

銀色の細い針から注入された液体は肉の中にあった安定した温もりを破壊した。
医者の指が胸を強く圧迫する度に、自分とも、その医者の鼓動とも違うリズムを感じて不快だった。
そして、そこにいた誰もが、失われたあの鼓動と同じではなかった。あの美しい命の歌は、もう永遠に損なわれてしまったのだ。深い虚空の闇に沈んだ命は、どんなに望んでも、決して甦ることはなかった。

赤ん坊の目から涙が溢れた。微かに赤らんだ頬と唇の端から洩れる吐息……。
「よし。鼓動が戻って来た」
医者の明るい声に一同が安堵する。

――聞こえる……。何もかも……

変化する拍動……。その機微を捉えて赤ん坊はむずがった。

――あれがすべてを奪ったのだ

赤ん坊が目を開けた。そして、そこにいた医師の顔をじっと見つめる。底の見えない深淵な黒い瞳で……。

――この音だ……ぼくの大切な音を奪って行った……この人間が……

憎しみが鼓動を速めた。
「もう大丈夫だ」
医者は微笑してそっと赤ん坊の頬に触れた。大きな影が赤ん坊の顔半分に掛かる。呼吸を助けるためのチューブが鼻に差し込まれた。赤ん坊はますますむずがって顔を歪めた。そして、フーともヒューとも付かない声を漏らした。たった一音上げたその産声が、医者の心臓を貫いた。

――苦痛は感じなかった筈です

医者は苦悶の表情を浮かべると、宙を掻くような仕草をしてゆっくりと床に沈んだ。
「先生!」
騒然とする室内から、赤ん坊は新生児の集中治療室へと移された。


「ママはどうしてぼくをうんだの?」
ベッドの中でまどろんでいた和音(かずね)が訊いた。彼は3才になっていた。が、その成長は遅く、他の子に比べて身体も小さかった。先日行われた3才児検診でも、明らかな発達の遅れが指摘された。和音は一人で歩くことができなかった。それを一緒に暮らす姑は気に入らず、何かというと和音を産んだ彼女に辛く当たった。それで、昨日も執拗に詰問され、彼女は返答に窮したのだ。が、そんな会話を和音が聞いてしまったとは思えなかった。そして、もちろん、自分は彼を産んだことに対して後悔などしていない。どんな状態であれ、自分自身がお腹を痛めて産んだ子には違いないのだ。たとえどんな苦労があろうとこの子を立派に育てようと心を決めていた。

「ねえ、どうして?」
和音がもう一度訊いた。
「あなたのことが大好きで、早く会いたかったから……」
「だいすき?」
「そうよ」
一瞬だけ和音はうれしそうに微笑した。が、すぐに悲しそうな顔をして言った。
「でも、ぼくは、うまれてきちゃいけなかったんだ」
「どうして? なぜそんなことを言うの?」
母は慌ててそう訊いた。

「ぼく、ほんとはもう、しんでるんだもの」
「和音!」
母は悲痛な声を上げた。
「どうしてそんなことを言うの?」
彼女の頬に涙が伝った。
「ママ……。ごめんね。ぼく、ママをなかせようとおもったんじゃないの。ほんとだよ。だから、なかないで、ママ」
和音が小さな手を伸ばして、そっと母の頬に触れた。
「和音……」
母はそんな彼を抱き締めた。その鼓動は彼に穏やかな安寧を与えた。慣れ親しんだ音……。やさしくて安心できる力強い鼓動……。しかし、もう一つ、そこにあるべき筈だった音はもう聞こえない。

それを懸命に思い出そうと彼は目を閉じた。断片のメロディーと確かなリズム、その水の底に木霊するもう一つのやさしさと鼓動……。しかし、それはいくら耳を澄ましても、遠い雷鳴のように定かではなくなっていた。
もう消えてしまったのだ。あの音は彼の手の届かない闇の深い場所に沈んでしまった。

――どうして?

暗く温かい闇の底……。

――ぼくはここだよ

「ぼくは……」
失ったものの代わりに、彼は暗く長い時を奏でた。


「パパがきた」
和音が言った。
「え?」
母は驚いてその顔を見た。時計の針はまだ午後の3時を回ったばかりだ。
「今日はパパは遅いのよ」
「かえってきたよ。ぼくにはきこえるの」
母は怪訝に思ったが、間もなく夫の車が車庫に入る音がした。本当に帰って来たのだ。それで、母は夫を迎えるために母屋に戻った。


「あら、どうしたんですの? こんなに早くお戻りになるなんて……」
妻の言葉に夫は刺々しく言った。
「早く帰って来たらまずいことでもあるのか?」
「そんなこと……」
彼女は夫が脱ぎ捨てた上着やネクタイを抱えるとハンガーに掛けながら言った。

「和音がね、さっきあなたが帰って来たって言ったのよ。不思議ね。あの子にはわかるのかしら?」
しかし、そんな他愛ない言葉にも夫は顔を顰めた。
「和音の話はよせ! あいつがこの家に来てからろくなことがないんだ」
「あなた!」
妻が制する。高い塀の向こうの道路から、下校途中の小学生の声が響いている。そんな子ども達の声を通り越して郵便配達のバイクの音が門の前で止まった。姑が玄関を開け、挨拶している声が聞こえた。しかし、母屋のずっと奥にある離れの音は聞こえない。

「本当のことさ。俺が欲しかったのは五体満足な普通の子どもだったんだ。あんな化け物じゃない!」
「やめて! あの子は普通の子どもよ。少しばかり発達が遅いからといって何も問題ありません」
「君はあの化け物を産んだ張本人だからな!」
「そんな言い方……!」
古い柱時計が固い時を刻んだ。彼女はそこに彫られた梟の彫刻を見つめ、それから、俯いて言った。

「……和音はあなたの子どもでもあるのよ」
しかし、夫は無造作に靴下を脱ぎ棄てると言った。
「さあて、どうだか……」
「あなた……」
夫の言葉にはいちいち険があった。彼はそのまま洗面台に向かうとうがいをし、手と顔を洗った。そして、当たり前のように差し出されたタオルを受け取り、ぞんざいに拭うと彼女に返した。

「おまえ、あの医者とできてたんじゃないのか?」
「あなた、何を言いだすの?」
唖然としている妻を睨んで彼は続けた。
「不妊の治療を受けているうちに随分親しくなっていたようじゃないか」
「変なこと言わないでください。先生に失礼でしょう? 幸正先生は亡くなっているのよ」
「死人に口なしだな」
「やめてください!」
全身を震わせて妻は抗議した。しかし、夫は引き下がらない。
「わかるものか。俺の遺伝子を持っているなら、あんなものが生まれる筈ないんだ。お袋だっていつも言ってるじゃないか。うちの家計に問題のある者など誰もいないって……。何もかもおまえのせいだろ? あんな厄介者のガキが産まれたのも、俺がリストラされたのも、みんなおまえが悪いんだ!」

「あなた、落ち着いてください。どういうことですの? 会社をリストラされたって……」
「ああ、今日限りで解雇された。年老いたお袋や親父を抱えて、これからどうすればいいんだ。その上、あんなガキの面倒までみなくちゃならないんだ。俺の人生滅茶苦茶だよ」
「やめて! お願いですから、もうやめてください」
和音に聞こえたらと思うと気が気でなかった。

子ども部屋は離れにあった。夫とその両親が強く望んだからだ。離れは母屋からは家一軒ほども距離があった。加えて防音効果のある素材を用いているので母屋の音が聞こえることはほとんどなかった。それでも、もしかしたらあの子どもには聞こえているかもしれないと思うと恐ろしかったのだ。

――ぼくはうまれてきちゃいけなかったんだ

そう言う和音の顔が頭に浮かんだ。

――ほんとはみんな、ぼくのことがきらいなの

以前、そんなことを口にしたこともあった。なぜなのかと問いただしても、ただ、みんなが自分を嫌っているからだと言う。
もしかしたらこの子には、人間の本音が聞こえているのかもしれないと、彼女は思った。


夫は両親の部屋に行くと、また愚痴をこぼし始めた。彼女は耐えきれなくなって子ども部屋に食事を持って行くことにした。和音はまだあまり固い食物を摂ることができなかった。だから、彼女は和音のために、日に何度も柔らかな離乳食を運んで食べさせた。


「和音? 起きているの?」
母が部屋に入ると和音はベッドの中で向こうを向いていた。が、その肩が小刻みに震えている。
「どうしたの? どこか具合でも悪いの?」
彼は顔を伏して泣いていた。
「ううん。ちがうの」
「どこか痛いの? それとも」
「パパがまた、ひどいことをいったから……。ぼくはかなしくなったの」
「和音……あなた……」
彼は振り向いて、じっと母を見つめた。

「ぼくにはきこえるんだ。ぼくだってほんとはききたくなんかないんだよ。でも、だめなの。いくらみみをふさいでも、みんなきこえてしまうの」
和音が自分の耳を両手で塞ぐ。乱れた髪がその顔に掛かった。薄い髪の隙間から見える頭皮は青紫をしており、その肉肌は歪んでいた。
そして、後頭部に貼り着いたもう一つの顔……。醜く歪んだそれは見る者を震え上がらせた。

最初はそれほど目立ってもいなかった。髪に隠れて見えないほどに……。普通の頭部だったのだ。それが少しずつ成長するにつれ、はっきりと浮き立って鮮明になって行った。顔といってもそれが喋ったり、意思を持ったりしている訳ではない。ただ見る者によっては人の顔のように見えてしまう。能面に似ていると表現する者もいた。怒りの能面のような表情をしていると……。

悪い霊に取り憑かれているのだと言って、得体の知れない祈祷師を呼ぶ親戚もいた。だが、和音は怒るでもなく、暴れるでもなく、ただ黙って微笑していた。

すると、今度は頭がおかしいに違いないと精神病院に連れて行けと予約を取って来る者がいた。しかし、それも単なる発達障害の一つであると、そういう子ども達が通う施設を紹介された。いろいろな施設と病院をたらい回しにされ、結局、和音が産まれた産婦人科病院に併設された小児科の訓練施設で週2回リハビリを受けるということで落ち着いた。

今はそれでよかったと思っている。和音の障害はそれ以上でもなく、以下でもないのだ。とにかく、そこで少しずつ身体を動かして、せめて自分のことは自分でできる程度になってくれればと願っていた。後頭部の顔については、気にすれば気にするほどくっきりとした形に見えてしまい、よろしくないという医者のアドバイスを受け、なるべく意識しないように努めた。

しかし、夫とその親達はそれが不服だった。彼らは和音が自分の血を分けた息子であり、孫であるということを決して認めようとしなかった。

「ママは平気よ。パパはお仕事がうまくいかなくて少し苛々しているだけなのよ。だから、ね? 怯えないで。パパのことを怖がらないで」
和音の小さな背中をそっと撫でて母は言った。
「ちがう! パパのほうがぼくをこわがってるんだ」
「和音……」
「そうだよ。こわがっている。だからパパはいつも、ぼくをみないんだ。あのおとはいや!おおきくて、とがってて、いつもいやなおとがする」
しかし、その言葉の意味が母には理解できなかった。

歩けない彼を抱いて、母は病院に通った。和音はリハビリの先生の指示に素直に従った。遊びながらのリハビリは和音にとって負担がきつくなり過ぎないように計算されていた。
「あら、和音君。大きくなったわね」
病院の廊下で偶然、産婦人科の幸正婦長と会った。
「はい。おかげさまで……」
母が挨拶する。
「主人が見たらさぞかし喜んだでしょうに……」
婦長はふと感慨深そうに遠くを見た。

「本当にあの節はお世話になりました」
「いいえ。それが私達の仕事ですもの。命を懸けて救った赤ちゃんがすくすくと成長してくれればそれこそが産科医の本望ですわ」
和音を取り上げてくれた医師はその日、急な心臓発作で亡くなっていた。和音ともうひとつの出産が続き、過労だったのだろうということだった。

「ママ、リンリン、ぼくやりたいの」
和音が言った。
「リンリン?」
婦長が訊いた。
「ああ、この子、音が出る物が大好きなんです。今はハンドベルに夢中なんですよ」
母がうれしそうに言った。
「そう。それはいいわね。主人も学生の時にはフルートをやっていたんですよ。あまり上手ではなかったけれど、いつか自分が取り上げた子ども達とオーケストラを作るんだなんて言ってね。和音君にも入ってもらおうかしら」
婦長はうれしそうに言って笑った。

――いやだ! ふれるな!

和音は顔を顰めた。

――おんがくにふれるな! ぼくのたいせつなおとをころしたくせに……!

髪がざわざわと鳴った。
「それじゃね。和音君、上手になったら聞かせてちょうだい」
そう言って笑い掛ける婦長の鼓動は傲慢な鼓のような音に聞こえた。

「うぅああぁ!」
和音は叫んだ。その声が婦長の心臓を射抜いた。
「ああぁっ……!」
和音が急に手足を大きくばたつかせた。
「和音? どうしたの? 和音」
母が慌てて宥めようとする。その時、突然、目の前で婦長が床に倒れた。
「婦長さん! 幸正さん……! 誰か……!」


病院は大騒ぎだった。しかし、和音が興奮しているので、早く自宅に帰って落ち着かせた方がいいとリハビリの先生に言われ、彼女はそのまま和音を連れて帰宅した。

その日の夜、幸正婦長が亡くなったと訃報が届いた。
「ああ、怖かったでしょう。和音、あなたが教えてくれたのね」
母は小さな息子を抱き締めて顔を埋めた。