オ・ト・ス・ク・ナ
―古代編―
1 音の妖
笛の音が響く。とふとふと。あるいは、はうはうと。
少年は夕闇の空へ、音の海蛇を泳がせる。
女の髪のように風に波打つ、黒くしなやかな体躯を備えた蛇である。
夕日が沈んでゆく。音の蛇は息つぎをしようとするように首をもたげ、幾度も伸縮する。少年の唇にその尾を咥えられ、蛇は呼吸することも忘れたように甘美に舞う。少年の瞼がゆっくりと閉じられてゆく。今、地平は緋色から赤紫へと変わり、蛇は肉感のある声でひとつ遠吠えると、黒髪がほつれるように、はらはらと夜の闇に消えていった。
あとは、ぬばたまの夜だった。
少年は笛から唇を放すと、彼のいつもそうするように、透き通った無音をひとつ奏でる。呼吸も瞬きも、動悸さえもしない。そんな気高き沈黙がやがて萌出づる思考に食われてゆく時、彼は目を覚まし、やっとその瞼を閉じ切る。
――おらはなんだ?
はじめに萌出づる思考は、いつもそうだった。
――おらはどこからきて、どこへゆくだ?
――なあ、春ちゃん……
丁度その時だった。彼は、声を聞いた。妖しい声だった。今宵はじめて聞く音程だ。
――おまえはオトスクナだ
そう聞こえた。女の声だ。少年はきょろきょろと辺りを見回す。
「はて、お客さんだべか?」
くるりと振り向くと、そこに黒々とした大きな塊があった。ゆらゆらと蠢いているように見えた。それは闇と癒着しており、姿がはっきりとしない。
「ありゃあ、なんだべか?」
少年が目をこすりこすりすると、そこに白い着物と黒い髪、そして女の立ち姿が現れた。女は少年を見据えて言う。
「おまえは、生まれたばかりのオトスクナだ。今宵はよき笛を聞かせてもらった……」
少年はふらふらと女のもとに走り寄ると、その顔をじっと見つめた。
「おお、女の人だ」
突然呟くなり、頬をゆるませてにこにこする。
「よかた、よかただよ」
少年は笑う。女は首をかしげて訝しそうにしている。
(なにごとか)
と言いたげだ。笑顔の理由が読めないことに、ではない。妖艶だった少年の表情が、寝惚けたような子どものそれへと豹変していたことへの驚きだ。一方、少年は、腕をぶらぶらさせながらのんびりとこんなことを話す。
「なあ、お妖怪さま。おらが何でうれしいかっていうとな、あのな、たまに現れるお妖怪さまは、ぬめぬめしたり、うにょうにょしてるのが多いだよ。そげな中、女の人が現れてくれっと、おら、嬉しいだよ。女の人、おら大好きだ」
口をぱくぱくさせ、少年がまだ話を続けようとしているようなので、女は黙って待っていた。が、彼は何事か考え考えしており、彼女をいらいらさせた。彼はやっと言葉を見つけたらしく、こくんと頷いてから、言った。
「うん、ほーんと、大好きだ」
どうやら頭の中で自分が女好きであることをじっくり再確認していた、ということらしい。
(何だというのだ、この小僧。痴れ者か)
彼は笛を片手にとことこと彼女のそばによると、
「お妖怪さま、おらはなんだっけ?」
女は表情なく少年をじっと見つめて答える。
「オトスクナ」
「ほー。みやびな響き」
と言いつつ、彼は立ったばかりの幼児が母親にするように女に抱きついた。
「あんがと、お妖怪さま。おら、オットコニャーだ」
「オ・ト・ス・ク・ナ」
「それだ」
女は目の動きで反応を返したのみで、少年をじっと観察していた。瞳の奥で何十もの少年の像が揺れる。彼の皮膚からはまだ、人間の呼気のなごりが感じられる。
「あったけー」
と少年がふぬけた声で言った。女は闇と癒着している不可視の腕を使い、少年の手をするりと掬いあげると、その腕にすっと、これまた不可視の牙を滑りこませる。彼女の瞳孔は動物的にきゅっと縮んだ。久々に心が躍った。その肉は、人並みの肉感があり、それでいて俗人の生臭さがない。
「ごめんよ、お妖怪さま」
少年が言うので、女は素早く牙を引っ込める。彼は目を閉じていた。
「おら、人肌がなつかしくってな。おら、眠くなっただ。ほんにあったけえ……」
女は心なしか口元をゆるめて言った。
「私の体温を感じるということは、それはもう、おまえが人間でないということだ」
「そうなのか?」
少年はぱちりと瞬きをした。彼は何かをゆっくりと思い出すように、ふらりと背を向けて、笛を抱きしめるとしゃがみ込んだ。女は黙って見つめていた。
「でも、いいよ。おら、人間いやだ。人間いじわるだ。あいつら、おらの笛、馬鹿にするだよ。おらのこと、嫌ってるだよ」
「そうなのか?」
今度は女が訊き返した。
「それは……」
閉口すると、少年は涙ぐんだ。春はまだ遠く、草木を枯らすような、冷たい風が吹いていた。そんな中、しゃり……という小さな温かい摩擦音が夜の闇に響いた。女が少年の髪を撫ぜた音である。
「やつらもつまらぬ生き物だな」
女が言った。
「え?」
「おまえの笛を聞いて何も感じぬとは、とんだ阿呆がいたものだ。芸の道が聞いて呆れる」
「ほんとけ?」
女は頷き、その笛の首にそっと口づけた。
「本当だよ」
と女。
「おまえとおまえの笛は、血で癒着している。同じひとつの肺で呼吸し、同じ腸で飢えを覚える。それがオトスクナだ」
少年はきょとんとして、手持ちの笛を四方八方から見回し、穴を覗いたり爪で弾いたりしている。
「これはおらが削って作った笛だ。ただの笛だ。どっかの木で作っただ。不思議なこともあったもんだ。血が流れてるだか?」
「おまえがオトスクナだからだよ」
女は少年の手をとると、そっと引いた。
「おいで」
木陰と宵闇とが複雑に絡み合っている。少年と女は、純度の異なる闇が織り成す天然の楼閣を歩いてゆく。ゆったりと夜が濃くなっていった。
「音宿儺」。人間を越えたもの。人の形(なり)を有する、音の妖。その本性は彼女とて知らなかった。人間が妖に転じうるということも。しかし、事実として今、一人の笛吹きが、人間という峠から転がり落ちて来たのである。
「これは困った」
妖は思った。しかし、それは、贅沢な悩みであった。
(人間の妖とはな。芸を嗜む者は、奴隷として連れ帰る。飽きれば、喰らう。才は愛で、肉は食す。ずっと、そうしてきた)
女は少年の手を握りながら、考えていた。
(こいつはまだ人間の味がする。しかし、これは貴重な音の妖だ。食わずに愛玩品として持ち返ろうか。しかし、まだ人間の味がする。格別に柔らかい肉をしている。私は飢えている。だが……)
女は思う。笛を吹く少年の姿。絡むような、魔性の音。音が織り成す生命体。
(この少年が本当にあの少年なのか。あの、錐のような目をした……)
――喰らう
草陰から、何者かの意志が吠えた。飢えている。それは、ずるりずるりと地を這って、二人を狙っている。狩りをしているのだ。
――喰らう
地を這うものの野蛮の意志が、凪に乗って伝わって来る。
――人間だあ、喰らう喰らう喰らう
女が急に立ち止まって暗闇を睨むので、少年もにこにことした顔で蠢く闇を指差して、訊いた。
「お妖怪さま、何かいるのか。あの動いてるの、なんだべかー?」
「黙っていろ、オトスクナ」
と、突然、少年は見えない何かに突き飛ばされた。女は不可視の腕の1本で少年を伏せさせ、余る3本のかぎ爪で草陰を貫く。手応えなし。鳥の群れが悲鳴をあげて、飛び去る。
「どこだ」
女の輪郭がざわざわと揺れる。闇が嘲笑う。
――どこ見てっと? あたいはこっちさ
彼女は腹を鞭で打たれたように跳ね飛ばされる。と、次の瞬間にはざらざらとした図太い幹のようなものに巻かれていた。蛇だ。噛まれる、と思った途端、彼女の身体は瞬く間に枯れ、ひきつれ、その異形の本性が姿を現す。猛進する蛇の頭は地面に空しく激突し、首がもたげたその時には、巻きつくものと巻かれるものの立場が逆転していた。
――あれは、私のオトスクナだ
しなり、空を刺し、粘着する。……糸。
――手を出すでない
蛇の動きが静止すると、それに圧し掛かっている、ふくれ上がった異様の塊はじりじりと収縮し、たちまち一人の女へと戻った。
「できれば、知られたくなかった」
女は言った。
「見られたくなかった。……なあ、オトスクナ、どこにいる?」
振り返ると少年の姿はない。思わず蛇に背を向けて、ふらりと木立の間に立って辺りを見回した。
(逃げてしまったのだろうか)
女は肩を落とした。少年の笛の音を思い出そうとしたが、出来なかった。あれを傍の置こうと決めたばかりだった。
(あいつ、逃げたんだな、私から。じきにこうなると思っていた。でも、おまえに無理強いする気はなかったんだ。ただ……。せめてもう一度、あの笛の音を聞きたかった)
と、明るい声が響いた。
「見っけた!」
草陰からにゅっと少年の上半身が現れた。驚いた羽虫が飛び去った。
「おまえ……。逃げなかったのか?」
女が驚いて言うと、少年は左手で笛をふりふり語った。
「笛がな、ぶっとんだ。笛ァ、おらの全財産だよ。えらいこっちゃだべ。で、おら、探しただよ。ふふふ。落ちてただ」
女が何か言おうとしたその時、闇の中から、低い呼吸音がひゅううう……と鳴る。
――よくも。あたいの狩りを。邪魔してくれたな!
ガッと女のわき腹に蛇が噛みついた。蛇の鱗に、蜘蛛の糸がまだらに絡んでいる。倒れざまに女は蛇の首を掴む。その腕は、黒い繊毛に覆われ、手首の先にはかぎ爪。目は怒りの赤に染まっていた。黒い腕に跳ね飛ばされた大蛇は、とぐろを巻いて体勢を立て直す。
その隣。少年はじっと女の変化したその姿を見つめていた。
「ほー……ずいぶん大きな……蜘蛛か?」
牙を生やした巨大な虫の頭が、ぐるりと少年を振り返る。
――そうだよ……
声なき言葉で言うと、顔を背けた。
――私は異形だ……。妖とは、こういうものだ
蛇のとぐろが完成する。蛇が呼吸を消すと、不気味に静止した。
――異形の蜘蛛だ。おまえのような、馬鹿でなければ、人も虫も獣も、みな私から逃げてゆく、……そうでなければ
言うと、目の前の蛇を牙で指し示す。蛇の目は戦闘本能をむき出している。そして、上位のものが下位のものを見る目をしている。力でだけ繋がる、種と種の絆。闘争本能という空しい絆が、そこにあった。
「何で逃げるだか?」
少年がほつりと言った。
――食われるからさ。雑食の大蜘蛛だからな。おまえだって、半分は餌だ
「蜘蛛ちゃん、おらを食ったりしねえ」
――まだ言うか。阿呆が
蜘蛛の前肢が微かに震え、食肢がぴんと緊張した。
――目を凝らしてごらん。人間を生きてきたおまえには、見えているのだろう。醜い容姿が。人からも同族からも忌み嫌われる・この・容姿
「そげなこと、ないだ」
少年は泣いていた。
「おらには、ちゃあんと、美人に見えるだよ」
潤んだ瞳の中に何が映っているか、わからない。少年は、今宵、彼の笛にくちづけをしたその牙をじっと見つめていた。
彼は笛を取った。
笛の口に唇を当てる。彼の透明な呼気が、ひとつの生き物のように笛の中を滑り、這い、羽ばたいた。今、少年の目は錐のように鋭い。哀しい一声をあげ、音の水鳥のその細い首がしなる。生々しく、若干の血の匂いを帯びている。手負いの傷をもつ、水鳥だ。
胸が早鐘を打った。音の水鳥は、彼を離れては同化し、離れては同化して、彼の心臓を痛めつけた。それでいて今の彼は、彼がいつもそうしていたように、眼前のすべてを忘却しはしない。両の目は目前の妖をしっかと見つめていた。
(おれ・の・蜘蛛……)
鳥が羽毛を散らし、荒々しい乱舞を踊る。
(おれ・の・蜘蛛ちゃん・を・殺す・な)
笛は絶頂を極める。音と水鳥。抽象と具体とが、無残に切り裂かれる。
(殺す・な)
灼熱の血液が聖と俗を熱し、あつく熱し、両極は硝子のように癒着する。沸騰するその融合物は、彼の呼気という一筋の芯に貫かれ、命を得て、のた打ちまわった。
――何だ
地を這う妖は警戒した。その身体がひたと静止した。
彼女は感じた。
何か大きなものが見つめてくる。見つめてくる。眼が。ふたつ。
(生きてるだ、このオト)
大きな両翼の下で、一匹の蛇、よろりよろりと地を這う蛇が、照らし出された。
(こやつめ、あたいを狙って……)
蛇は音を相手に、恐怖に悶絶した。
(あたいを、喰らわんとしてるだ)
少年の唇から笛がゆっくりと放され、ふつりと千切れたような悲しみの余韻が残った。少年の隣には黒い巨大な蜘蛛。そして、その前には少女がいた。後ずさる。思い余って、木に背をぶつけてふらついた。少年よりやや背が高い。田舎者らしい、人の娘。人の娘の風貌が、そこにあった。
「蛇ちゃん」
少年が言った。ぱちりと目を開くと、にこりとした。笛を腰に差すと、手持無沙汰な様子でふらふらしながら、馬鹿のように笑っている。
「蛇ちゃん、かわええだー」
と自分と同じくらいの背丈の少女の額をつつく。
「お、おまえ、なにやつ……?」
「何だろなぁ。おら、自分でもよくわかんねえ」
そう言う少年は、腰紐に笛をしまおうとして、うまく入れられずにもぞもぞやっている。やがて仕舞うのを一度諦めると、少年は蛇の娘に気さくに話しかけた。
「あのな、おら、女の人が好きだからな。蛇ちゃん、女だったらいいなって思ったんだ。そしたら、当たってた。よかっただよ。よかったよかった」
とその肩を叩こうとする。と、後ろに飛び退いた妖の輪郭が、一匹のシマヘビと、一人の少女の間で揺れる。が、黒々とした巨大な蜘蛛の脚の一本が、蛇の尾っぽと掴み込むと、妖は蛇の姿のままで降参したように動かなくなった。
「殺す気はない」
と蜘蛛。とがった黒い脚は闇に融けて消える。
「安心するだよ、蛇ちゃん」
と少年が言った。蛇はおそるおそる少年に訊いた。
「お、おまえの、名は……?」
少年は揚々と答える。
「オットコニャーだ、おら、オットコニャーだよ」
黒い蜘蛛がいた闇の吹きだまりから、女が顔を出して言った。
「そは蛇の訊いている名ではない。そなた自身の名をお言い」
少年は考えた。口を半分開く。すぐに答えるかと思えば、まだ考えている。蛇は表情を示さない。舌を三度出し入れし、待つ。さらに速い速度で四度出し入れし、待つ。さらにさらに速い速度で五度出し入れし、待った。蛇の苛立ちを嗅ぎつけた蜘蛛の女が、
「しばし待て。辛抱だ」
と囁く。少年はあまり気が進まない様子で、とうとう言った。
「誰かがおらのこと、春吉って呼んでただ」
言ってから、彼は目を見開く。
「春ちゃん……が……」
唐突に何者かを呼んだ。瞳の中でゆらゆらと光が揺れた。少年は膝をつき、胸を押さえてうつむいた。
「おらの春ちゃん……」
と呟いた。
「春ちゃん……いなくなっただ。消えちまっただよ……」
ぐずっている。蛇の娘が途方に暮れた様子で、
「何だよ、こいつ」
と春吉と名乗る少年を指差す。情けない顔で蜘蛛の女を見る。蜘蛛が黙っているので、蛇は蛇の身体に戻ると、のそのそと少年の身体を這い上った。
少年は抵抗しない。蛇はひとつため息をつくと、少年の肩で眼を光らせる。と、蛇のちいろりちろりと蠢く舌が、少年の涙を舐めた。
――春吉、笛吹きの春吉
蛇はするりと彼の首にゆるく巻き付くと、尾っぽで彼の肩をそっと叩いた。
――そう呼んでもいいだか?
「ええだ」
――ええよな。他に呼び名がねえ
蜘蛛の女も言った。
「ことの成り行きを話してごらん」
「いやだ」
と少年。蜘蛛は表情を変えずに付け加える。
「わかっている。それは話せる日が来れば、だな。何も考えるな、笛吹きの春吉。気長に待てることだけが、我々の得意だ」
春吉はぽつりと言った。
「おらもだよ。ずっと、春を待ってるだ」
「ふた月もすれば、また巡って来るだろうよ」
「それはきっとまた新しい春だよ。昔の春は、来ない」
春吉は小さな声で、しかし強い語気でそう言うと、鳴らない口笛をひとつ吹く。その無音の呼気に、煮えるような孤独の気が内包されている。蜘蛛は幾本もの闇の腕で少年の身体を撫ぜてやった。
「はるきち、か」
蜘蛛が言った。少年はいつのまにか眠っていた。
「いい名だ。おまえの笛はいつだって、春を待ち、春に焦がれる幽霊のようだよ……」
夜が明けるまでまだ時間がある。二人の女は本性に返る。
――おまえの血と肉よりもなお……
――おまえのオトが、欲しくなった……
夜の闇はいよいよ深い。二人の女の影は、二匹の異形の影となり、笛吹きの少年に絡みつくと、底知れぬ闇へと連れ去って行った。
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