火炎と水流
―邂逅編―


#5 封印された記憶

   

夜。遅くなってから急に雨が降り始めた。
ぱらぱら、しとしと、ザーザー……。
暗く冷たいこんな夜は、雨音に混じって遠い記憶が蘇って来る……。
それは、まだこれ程人間が忙しくなく、街も込み合ってなかった頃……。
人も妖怪もいっしょだったあの頃…。

――水流! 来いよ。あっちの方に花畑があるよ。川を渡って競争しよう!

「タケル……」
水流がフッとつぶやいた。思い出の中で、彼はうれしそうに笑っていた。初めて会ったのは、あれは、まだ田んぼに水が張られ、田植えが済んだばかりの頃だった。

――おまえ、河童の子か?
――ちがうよ。おいら、この川にずっと住んでるもんだい
――やっぱり河童じゃねえか。水を操れるんだろ? じいちゃんが言ってたぞ
――ああ。おいら、何だってできるよ。水鉄砲だって渦巻きだって
――なら、魚捕って来れる?
――ああ。お安いご用さ。ホラ

(すぐに大ざるいっぱい魚を捕って見せたら、みんな、目を丸くして見てたっけ……そうして言ったんだ)
――おれ達、おまえが何者だって気にしないよ。おれ達、友達だもんな
――友達……?
――ああ。ずっと、ずっと友達!
うれしかった。水流にとって、生まれて初めてできた人間の友達。それから、しばらくの間は毎日楽しかった。みんな、泥んこになって遊んだ。川で魚を捕ったり、泳いだり……。
(楽しかったなあ……)
浴槽の中で、水流はひとり、ポツンとつぶやいた。そう。本当に楽しかった。あのことが起こるまでは……。

それは、とんでもない事件だった。村の者が血相変えて報告した。
「大変だ! 山神様のお水に汚れの血が……!」
ある日、村の若者が山へ狩りに入り、よりによって神が住むという湖に汚れた動物の血を流してしまったと言うのだ。その神は水流と同じ水を司る太古の精霊だった。が、それは、水湖(すいこ)と呼ばれ、水流などとは比べようもない強大な力を持っていた。そして、その神は、人間が住むずっと前から存在していたのだ。当然、この一件は水湖の怒りをかった。そして、水湖は洪水を起こし、村を沈めてしまったのだ。まだ幼く力のない水流にはどうすることもできなかった。
だが、タケルは……。水流と一番仲良しだったタケルは、そうは思わなかった。タケルはその日、たまたまお使いを頼まれて、隣村に行っていたのだ。そのお陰で彼は無事だったのだが、戻ってみれば、村は跡形もなく消えていた。家も畑も、何もかも流されて無残な姿になってしまっていたのだ。あちこちさまよったあげく、僅かに残った小山の上で濁流に飲み込まれた村を呆然と見つめている水流を見つけて言った。

「こんなことになるなら、行くんじゃなかった……!」
「けど、タケル、そんなことしてたら、おめえまで死んでたんだぞ」
「かまわねーさ。おれは、みんなといっしょがよかったんだ。みんなと……!」
「タケル……」
「水流、おまえは知ってたのか? 洪水が来るって、知ってたのか?」
「……ああ」
「なら、どうして、おとうやおっかあを助けてくれなかったんだ? なぜ、小さいおれの弟や妹を、何で村を見殺しにした……!」
「それは……おいらだって助けたかったけど、水湖の力にゃかなわねー。水湖を怒らせたら、おいらだってただじゃすまねー。誰にもどうにもできねーんだ!」
「村の大勢の人の命より、おまえは自分の命の方が大事なんだ! しょせんはおれ達とはちがう化け物だからな! おまえは、血の通ってない化け物だから……!」
「ちがう……! おいらは……」
「来るな! 化け物! おれにさわるな!」
「タケル! そっちに行っちゃ危ねー! 行くんじゃねー! タケル――っ!!」


雨が降っていた。重く冷たいどしゃぶりの雨が……。
タケルは土砂と濁流に飲み込まれ、二度と戻って来なかった。
ポタポタと水滴が湯船に落ちた。
(もう、あんなこと、いやだ……!)
あの後、水流はどれくらい後悔したかわからない。呪われたその力を、自分自身を……。
(何で、おいら、人間に生まれなかったんだろう? こんな力あったって、いざという時、役に立たないんなら何にもならないじゃねーか! いざという時、使えねー力なんて……!)
だから、水流は人間になりたかった。人間体で人間と同じように過ごす。だが、まだほんの子供だった水流には難しかった。だから、いざという時のためにと力もつけておきたいとがんばった。だが、うっかり人間に正体がわかってしまえば化け物扱いされてしまう。人間が異質な者を拒否しようとする本能は今も昔もほとんど同じだ。
しかし、長い時の間に人間の考え方もまた変わってしまった。今はもう、誰も妖怪や精霊の存在など信じない。山神様を祀ったりもしない。その分、正体さえバレなければ、人間社会に溶け込むことは容易くなったのかもしれない。だから、火炎のように、人間社会に溶け込み、人間として生活している妖怪は案外多いのかもしれない。とはいえ、水流のように、まだ子供でしかない者にとって、それはやはり難しいことだった。彼らの成長は極端に遅いのだ。子供がいつまでも成長しないのでは怪し過ぎる。ましてや今の時代、子供では働くこともできない。
それなら、せめて人間の役に立つことをしようと、水流は考えて街中の噴水に潜んで、様子をうかがっていたのである。それが、救えなかった人間の友達に対するせめてもの償いの気持ちだったのだ。


「火炎。まだ、起きてたのか?」
深夜を過ぎていた。水流が部屋をのぞくと、まだ火炎が間接照明の下で本を読んでいた。
「どうした? 眠れないのか?」
火炎が顔を上げて言う。
「……ああ。雨の音がうるさくてさ。おめーは何読んでんのさ?」
訊かれて、火炎が読んでる本の表紙を見せたが水流は首を横に振った。
「わかんねーよ。おいら、文字なんて読めねーもん」
火炎はしおりをはさむと、パタンとその本を閉じて、おもしろそうに言った。
「ホウ。文字も読めないのに学校には行きたいのか?」
「ああ。だって、教えてくれんだろ? 学校ってさ。おいら、知りてーんだ。もっといろんなこと。人間やおいら達がどこから来て、どこへ行こうとしているのか……とかさ」
「そうだな。だが、おまえがどこに行きたいのかは、おまえ自身が決めることだ」
「じゃあ、おめーは? 火炎はどこへ行きてーのさ? 人間になりたくねーのか?」
「おれは、桃香を育てるためにこうしている。別に、人間になりたい訳じゃないさ」
「フーン。じゃあ、何で桃香を育てんのさ?」
火炎は、すぐには答えなかった。雨はますます激しさを増し、いつの間にか遠く雷が鳴っている。稲光が幾度も二人の顔に反射していた。

「おれは……あの子の、桃香の母親を愛していた」
火炎はポツンと言って、それから、フッと遠い目をした。
「愛していたんだ……彼女を」
ピカッと稲光が閃き、それから、地の底にズシンと響くような雷鳴がとどろいた。その瞳に映る影……。
「だが、救えなかった……!」
火炎は口調を変えなかったが、表情は苦渋に満ちていた。
「おれは、ずっと見ていた。古い暖炉の火の中で……。あの家族を……。桃子さんのことを……。ずっと見ていたんだ。彼女が結婚した朝も、桃香が生まれた夜も、そんな、彼らを眺めているだけで、おれは充分幸せだった。桃香は火を見て、『あたたかい』と言ってくれた。『きれいでやさしいね』と……。おれにとっては、それだけで充分だったのに……!」

瞳の奥で炎が燃えた。
「砂地が台無しにした。ワナを仕掛けたんだ。一家が経営していた会社はつぶれ、家の主を死に追い詰めた。そして、それに気づいたおれが、奴を追って離れた僅かなスキに、家から出火した。だが、それも皆、砂地の計略だったんだ! そのせいで、彼女は死んだ……! おれが救えたのは桃香一人だった……。だが、そのせいで、桃香は火を恐がるようになってしまった。もう二度と、桃香は、火をあたたかくてやさしいもの、とは言ってくれないだろう。が、それでもいいんだ。おれは桃香を守りたい……。人間の寿命は短いからな。せめて、桃香が大人になるまでは……」
「火炎……」
二人の間を何度も雷光がきらめいて火炎の手元の本を照らした。「臨床心理学――乳幼児の心」とその本には書かれていた。

(こいつも、おいらと同じなんだ)
水流は、ジンと胸の奥に熱いものを感じた。火炎は、じっと脇で眠る桃香の寝顔を見つめている。うーん、と突然桃香がうなされたように体を震わせた。火炎はサッと桃香の手を握り、やさしく頭をなでてやった。
「大丈夫。もう、恐くないよ。おれがいる」
火炎は繰り返しささやいた。すると、安心したように、桃香の表情は穏やかになり、また、スースーと寝息をたて始めた。ホッとして離れた火炎の瞳は、しかし、怒りに燃えていた。

「おれは、砂地を許さない……!」
それから、水流に向き直って言った。
「あの時も、ようやく奴を追い詰めたところだったんだ。それを……!」
「ごめん。おいら、そんなこととは知らなかったんだ」
「知らなかったで済むか! 今度、邪魔してみろ? 二度と復活できないように命玉ごとバラバラにしてくれる!」
と、火炎は怒ったが、水流は、何だかひどくうれしかった。
(こいつは、悪い奴じゃない。そして、おいらと同じ痛みを知っている……)
「なあ、火炎。おいら達、ホントに、いい友達になれるかもな」
と、水流が言うと、火炎は驚いて首を横に振った。
「冗談じゃない。おれは、おれの道を行く。おまえは勝手にどこへでも行っちまえ!」
雨は小降りになっていた。