PLANET DESIRE
Prequel Ⅰ シーザー
Part Ⅱ
「ここよ」
シーザーが拾って来た鉄のパイプで足元を確かめながら、彼女は瓦礫の中を手探りで進み、半壊した建物の隙間から潜り込んだ。シーザーは周囲を警戒しながら付いて行くと、ミアが消えた穴を覗いた。そこは崩れかけた石の壁と柱が斜めに支え合って、人間一人がやっと通れる程の小さな隙間になっていた。が、大柄な怪物にはくぐれない。シーザーは、そっと倒れ掛けている柱を持ち上げようとしてみたが、たちまち反動で反対側の壁が崩れそうになったので慌てて止めた。
「シーザー? どうしたの? 今の音は何?」
中からミアの声が響く。たった今建物の下敷きになり掛けたというのに、それは明るい声だった。ミアは、すっかりシーザーが人間であり、自分の仲間なのだと信じて疑わなかった。だからこそ、こんな自分達の隠れ家に案内して来たのだ。隠れ家……。だとすると、ここにはミア以外の人間、つまり、怪物にとっての餌がたくさんいるかもしれないと考えて、シーザーはほくそ笑んだ。
「シーザー?」
ミアが穴から出て来て言った。
「どうしたの? 何故入って来ないの? 大丈夫よ。もう、ここには、わたしの他には誰もいないから……」
寂しそうにミアが言った。
「い…ない……?」
「ええ」
シーザーは落胆した。
「……みんな、怪物に食われてしまったの」
「怪物……」
見れば、瓦礫の間のあちこちに噛み砕かれた骨の残骸が散らばっていた。やはり、ここは、既に怪物の襲撃を受けた後なのだ。今、目の前にいる少女しか食い物はなさそうだった。なら、何時食うか? 今か? それとも日暮れの夜食にか? 遠くで怪物の咆哮がしている。何処かでまた、餌を巡っての争いが起きているのかもしれない。砂漠ではいつもそうだった。少ない餌を巡っての勝敗がそのまま生死を分ける。ここでは、強い者だけが生きる権利を有し、弱い者には、その全ての権利は許されず、生きる資格さえないのだ。強くならなければ……。どんな事をしてでも生き延びて、そして……。シーザーはギンとした目で砂嵐の更に向こう、蜃気楼のように聳え立つ壁を見つめた。外と内とを分けた壁……。超えられない運命の隔たりを生じた悪魔を……。
「ねえ、シーザー」
ミアがいきなり手を出した。シーザーは慌てて飛び退いた。その肌はあまりに人間と違うのだ。もし、自分が怪物だと知れたなら……。もしも、ミアが知ってしまったら……? 怪物は小さく頭を振って否定した。
(何を迷う? わかってしまったのなら、食ってしまえばいい。それだけだ)
それだけの事なのに、何かが彼の中で蟠った。それだけの事なのに……。見つめるその瞳は澄んでいた。シーザーと同じ黒い瞳。そして、その髪はさらさらと靡いて柔らかそうに思えた。
「穴……小さい……シーザー……入る…ない……」
少女はようやく納得したように怪物を見上げた。
「そう。あなたは、随分大きな体をしているのね。背もとても高いみたいだし……」
と言ってミアは思案した。
「何処か別の場所を探しましょうか? あなたもいっしょにいられる所」
「いっしょ……?」
「ええ。……そうだ。この向こうにもっと大きな建物があったわ。入り口の壁が落ちてしまっていて、防護が出来ないからと言って見捨てた場所だけど、シーザーがいっしょなら怖くないし……」
「怖い……ない……?」
ミアが頷く。怖くない……。それは衝撃的な言葉だった。シーザーの事を怖れなかった人間は、これまで一人もいなかった。
「そうよ。だって、シーザー、強いんですもの」
「強い……?」
「怪物にだって負けない。とっても勇気があるわ」
「シーザー……負けない……。勇気……ある……」
――ぼくは、負けない
風の向こうで響く少年の声……。
――どんな事があっても、絶対に負けないんだ!
それが一体誰の声だったのか、あまりに遠くてもう彼には思い出せなかったのだが、忘れてはいけない気がして、怪物は今もそれを待っていた。
「ちょっと待ってて。今、いい物を持って来るわ」
ミアはそう言って、また、先程の穴の中に入って行った。そして、しばらくして戻って来たミアの手には幾つかの物が握られていた。
「これは、点火棒よ。ほら、このスイッチを押すと火が出るの」
ミアがボタンを押すと、円筒の先で赤い炎がちろちろと揺らめいた。
「これが火よ」
「火……?」
「これがあれば、とても便利に使えるわ。本当は、これは、アンディおじさんのだったんだけど、もう死んでしまったから……もらって行きましょう」
と、ミアは寂しそうに言った。シーザーはそれをしげしげと眺めた。と、そこへ、ミアが手のひらの中の何かを唇に当てた。すると、そこからピーという高い音が聞こえた。シーザーは、目を丸くしてじっと彼女を見つめた。やわらかい響きだった。彼女は短い曲を一曲だけ吹くと唇からそっとそれを放した。
「何……?」
シーザーが訊いた。
「オカリナよ」
そう言って微笑する彼女と手の中のそれを見て、怪物の頭の中に何かが過ぎった。揺らめく時間の波の向こうで誰かが彼のために奏でていたもの……。その面影が、今、目の前で笛を吹く少女と重なった。
「きれ…い……」
思わずそんな言葉が出た。それを聞いてミアも喜んだ。
「ほんとに? ねえ、あなたもそう思う?」
「あ…あ……」
シーザーはごつごつとした自分の指をぎこちなく動かしてみた。
「わたしね、この笛の音が好きなの。だって、とてもあたたかい音がするんですもの。でも、大人の人はみんなやめろと言ったわ。音を出せば怪物を誘き寄せる事になってしまうからって……。それに、笛の音なんてうるさいだけの騒音だって……でも、わたしは吹きたいの」
が、そんなミアのおしゃべりを怪物は聞いていなかった。その代わり、もっと遠く、ずっと昔に失くしてしまった記憶を探して、風の中でじっと耳を澄ました。しかし、それは時の彼方……失ってしまった悲しみの声さえ、怪物の耳にはもう届かない。乾いた風がザラザラと心を壊す……。そして、それが何だったのか思い出せないまま朽ちて行く……。
「もっと……」
枯れた心が言葉を発した。
「え?」
ミアが驚いて顔を上げる。
「それ……シーザー……もっと……聞きたい」
怪物が言った。
「うん」
ミアはうれしそうに頷くと短い子守唄を吹いた。
「いい……」
怪物は目を細めるとじっと何かを見つめていた。
沈黙の中で記憶の風が繰り返し回る……。ミアもまた想いの葉を捜している。たゆたうような時の狭間に二人の心は共鳴していた。泣きたい程素直な心で彼らは運命と向き合っていた。切ない程繊細な心で見えない明日に祈りを込めて……。そうして、いつか時間が重なり、ミアが何か言い掛けた。と、その時、怪物が言った。
「シーザー……これ、好き……」
その笛の音は怪物の耳に心地よかった。そして、それを吹くミアの姿は、怪物の目に、餌以外の者として映っていた。
それから、二人は、しばらくの間、そこで生活を共にした。怪物の肉は固いので、シーザーは遠い森まで出掛けて行って、彼女のために鳥や魚、小さな動物等も狩った。そして、それらを火で焼いて二人で食べた。オアシスになるグリフィンの実、野生のベリーやきのこ等も食した。シーザーは、ミアのために水や食料を運び、怪物から彼女を守った。瓦礫の家を整備し、頑丈な城壁も作った。
そんなある日、ミアが言った。
「ねえ、シーザー、どうしてあなたはわたしと一緒に寝てくれないの? 怪物が来るから? ずっと外で見張っているのは大変でしょう? もう、こんなに厚い壁を作ったんですもの。少しくらい中で休んでいても大丈夫よ」
「シーザー……休む……ない」
怪物は眠らずにもっと高く、もっと厚くと瓦礫を運び、積み上げていた。
「でも、ずっと眠らないでいたら人間、病気になってしまうわ」
「シーザー……病気……ない」
彼はキッパリと言った。
「あなたって頑固なのね」
ミアは小さくため息をついた。
「頑固?」
「そうよ。コチコチのガチガチ。意地悪な人。わたしの目が見えないのを知っているくせに、全然手も引いてくれないし……」
彼女は口を尖らせて言った。
「ミ…ア……」
寂しそうな怪物の声……。それを察してミアは慌てて否定した。
「ううん。違うの。そんな事はどうでもいいの。ただ、わたし、あなたの手に少しだけ触れてみたかったの。そうしたら、ちょっぴり安心出来るから……。ねえ、いけない?」
「あ……あ……あ……」
シーザーはゆっくりと後ずさった。その気配を感じてミアは慌てて詫びた。
「ごめんなさい。あなたって、もしかして女性嫌いなの?」
「嫌い……?」
「きっとそうなんでしょう? だから、わたしの側にも来てくれないし、触らせてもくれない……」
「あ……あ……あ……」
微かに漏れる怪物の声には、明らかに動揺と困惑が混じっていた。ミアはフーッと軽いため息をついて言った。
「やっぱりそうなのね……。ああ、それなのにごめんなさい。無理を言って……」
「ミア……」
「それでも、あなたはわたしを助けてくれているのにね。厄介者のわたしの面倒をずっとみてくれて……水や食料を運んでくれて、怪物からも守ってくれる……。わたし、あなたに迷惑ばかり掛けている……。わたしがいなければ、きっとあなたも楽になれるのに……わたしさえいなければ……」
ミアの目に涙が溢れる。何もかもがくすんで見えるこの世界の中で、少女の流すそれだけが、細く透き通った光の帯のように見えた。
「嫌い……ない」
怪物が言った。
「え?」
「嫌い…ないから……」
もう一度言う。その言葉を噛み締めてゆっくりと顔を上げるミア。
「シーザー…好き……。ミア、好き…から……いっしょ…いる……」
「本当に……?」
ミアは驚いて、それから僅かに微笑むと遠慮がちに訊いた。
「いいの? 本当に、わたしなんかがここにいていいの?」
「ミア……好き……」
怪物は深く頷くと言った。
「ああ、ありがとう。わたしもがんばってシーザーの負担にならないようにするね。ミアも強くなる。うんと強くなるから……」
それから、彼女は言葉の通り訓練を始めた。始めのうちは、なかなかうまく行かなかったが、ミアは地道に努力した。基礎体力をつけ、感覚を研ぎ澄まし、俊敏に動けるように、また敵の動きを耳だけで判断出来るように、来る日も来る日も必死に頑張った。いくら彼が守ってくれるとはいえ、ずっといっしょにはいられない。シーザーが水や食料を調達しに行っている間には、やはりミア一人が残されるのだ。そういう時、大抵はシーザーが作ってくれた頑丈な隠れ家の中に篭っていた。しかし、敵も怪物。いつ、それを破壊し、襲って来るかもしれなかった。この世に完璧な物など存在しないのだ。
「いつ、怪物が襲って来てもいいように剣を鍛え、腕を磨くわ」
ミアはシーザーに手伝ってもらって平たくなめした鉄を火であぶり、鍛冶師の真似事をした。無論、最初は失敗だらけだった。が、何度も繰り返しているうちにだんだん刃先が鋭くなって来た。それでシーザーが狩って来た鳥の肉を切ったり、木の実を切ったりする事も出来るようになった。
「でも、これではだめ。もっと強く……もっと鋭く……そして、わたしの手に馴染むように……」
そして、遂にその剣は完成した。ミアはそれを振り、10センチ程の小木なら一刀両断出来る程の腕になっていた。
「シーザー、今日はわたしも狩りに連れて行ってくれる?」
体力がつくと、ミアの行動半径も広がり、二人は砂漠のずっと奥にまで出掛けた。
ところが、そんなある日。突然ミアが高熱を出して倒れた。砂漠の太陽は暑く、筋力をつけるためとはいえ、あまりに無理をし過ぎたのだろう。一日中うわ言ばかりを繰り返す彼女の傍らで、シーザーはじっと彼女を見守っていた。
「ミア……」
シーザーは、オアシスの森で薬草を探した。森と言っても緑は乏しく、まだやっと生え掛けたばかりの物も多かった。シーザーは、そっと大きな手と爪でかき分けて丁寧に探した。そして、ようやくそれを見つけた時には、既に日は大きく傾いていた。シーザーは甘いベリーの実を摘み、冷たい水も汲んで隠れ家に戻った。
ミアはまだ眠っていた。彼女が持っていた布でそっと汗を拭いてやり、指先で唇に触れた。怪物の手の甲はごつごつとした固い皮膚に覆われていたが、掌の部分は人間のようになめらかだった。その指の先でやさしくその頬を撫でる。初めて触った少女の肌は繊細でやわらかく、いつも食している人間達とは違う生き物のように思えた。再び唇に触れる。唇は乾いていた。シーザーは汲んで来た水を木を削って作ったスプーンで掬い、彼女の口に流し込んだ。彼女は小さく息を吐いた。心なしか呼吸が少し楽になったように見えた。
それから、シーザーは火を起こし、薬草を煎じた。くつくつと煮える茶色の液体に浮かんでは消える泡を見つめ、彼は何かを思い出そうとしていた。前にもこんな事をした経験がある。それが何時だったのか、誰に薬草の知識を教わったのか、シーザー自身にもわからない。だが、この草が熱に効くという事だけは知っていた。彼は出来上がった薬を冷ますと、再びスプーンでミアの口に運んだ。始めは咽たり吐き出したりしたが、何度目かの時には、しっかりと飲み込んだ。シーザーは、それを何度も繰り返すとまた、そっと彼女の頬に触れた。熱は少し引いたように思われた。
と、突然、ミアが目を覚まし、頬に触れていたシーザーの手を掴もうとした。彼は慌てて手を引っ込めたが、彼女の小さな手がキュッと一本の指を捕まえた。
「何?」
彼女は驚き、悲鳴を上げた。
「キャアアッ! 怪物!」
彼女は跳ね起きて、指を掴んだまま後退した。
「ミア……」
シーザーが悲しそうな声を出す。
「シーザー? シーザーなの?」
思わず握ったままだったその指に触れてミアは言った。
「シーザー、あなたの手……」
ミアは涙ぐみながら、そっとその手を撫でた。
「可哀想に……。きっと酷い傷か火傷を負ったのね。だから、私に触れて来なかった……。わたしを驚かせないように……?」
と泣いた。それから、そっと両手でその手を持つと自分の頬に当てた。そして、微笑む。
「気持ちいい……」
とミアは言った。
「本当よ。あなたの手、掌も指もちゃんと元のまま……。やわらかくてあたたかい……。どうぞ、その手で撫でてちょうだい」
「ミア……」
「だから、あなたはわたしに触れようとしなかったのね。でも、大丈夫。わたしは気にしないわ。こんな時代なんですもの。傷や火傷で酷い事になってしまう事だってあるわ。だから、何も気にしなくていいのよ」
「ミア……」
彼女の頬に流れる涙をシーザーはそっと指の腹で拭ってやった。
「シーザー……」
それから、ミアは熱も下がり、元気になった。そして、またいつもの生活が始まる。また二人は森へ出掛けた。シーザーはそこでグリフィンの実を見つけて、それをもいだ。グリフィンの実は大きくて固い殻で包まれていたが、中身は甘くやわらかい果実だった。水分もたっぷり含んでいてこんな砂漠ではありがたい果物だった。しかも丁度半分にスパリと割る事が出来るので、その固い殻は入物や皿としても使える。優れた果実だった。ミアはそこから少し離れた所で木の根の下に生えていたきのこを採っていた。
「見て! シーザー! こんなにたくさん採れたわ」
グリフィンの実の器にいっぱいのきのこを乗せてミアはうれしそうに言った。
「ああ……」
とシーザーは返事してそれを覗いた。それから、その中の幾つかを摘んで捨てる。
「また混じっていた?」
ミアがすまなさそうに訊いた。
「少し……でも、平気……シーザー……ちゃんと……捨てた」
食べられる物とそうでない物。それをシーザーは区別していたのだ。
「やっぱりだめね。わたし、シーザーが一緒でなかったらすぐに毒きのこに当たって死んでたと思う」
「毒……ない……シーザー……みんな……捨てた」
彼は真面目に言った。それを聞いてミアは笑いながら否定した。
「違うの。シーザーの事を言ったんじゃないのよ。わたしの事。シーザーがいてくれたおかげで、わたしはこれまで生きて来れたんだなって……。感謝してるの。ホントよ」
「感謝?」
「ありがとうって事よ。本当に心からありがとうって言うわ。シーザー、わたし、あなたの事が好きよ。出会えてよかった。本当に……」
「シーザーも!」
そう言って彼は妙に胸の中が熱くなるのを感じた。
と、突然、二人の間で大きな銃声が響いた。
「何?」
怯える彼女を庇うようにシーザーが立った。
「くそっ! 怪物め!」
3人の人間が銃を構え、こちらを睨んでいた。
「その子から離れろ!」
大柄な男が言った。
「よせ! 無駄だ。怪物に言葉なんか通じない」
もう一人の男が狙いを定めて言った。
「あの子、怪物に食われちまうぜ」
そんな会話がミアにも聞こえた。
「ねえ、シーザー、近くに怪物がいるの? あの人達は誰?」
だが、シーザーは何も応えずガルルルと低い唸り声を出した。
「シーザー?」
怪訝そうに怪物の前に出ようとするミアを見て男達が叫んだ。
「逃げるんだ! 早くこっちへ来い!」
しかし、ミアは動かなかった。
「何をしてるんだ! 早く!」
ミアがおずおずと杖代わりの枝を突いているのを見て、もう一人の男が言った。
「おい。あの子、見えないんだ」
「何だって? それじゃあ……」
男達は思案した。が、素早く展開すると一人がミアの方へ向かい、残りの二人が怪物に向かって発砲した。そのうちの一発がシーザーの腕にめり込んだ。
「うぐぐっ……!」
シーザーが苦痛の呻きを漏らす。
「シーザー! シーザー、どうしたの? シーザー!」
ミアが怪物に近づこうとすると、突然その腕を太い男の手が掴んだ。
「早くこっちへ来るんだ。大丈夫だ。もう心配ない。君を襲った怪物には止めを刺してやるからね」
男の言葉はミアには理解出来なかった。
「怪物? 止め? 何を言ってるの? ここには怪物なんかいないわ」
ミアは男の手を振り解こうとした。
「ああ、君には見えないんだね。でも、すぐそこに怪物がいたんだよ。だから……」
無理矢理連れて行こうとする男を突き飛ばしてミアはシーザーのいる方へ走った。何歩も行かないうちにガツンと何か大きな物にぶつかった。それは、固くごつごつとした岩のようにざらついて乾いた感触がした。
「シーザー! 何処?」
ミアが叫んだ。すると、ミアがぶつかった物の頭上から低い声が響いた。
「ミ…ア……」
それは苦渋に満ちたものだった。
「ちくしょう! あの子がいるんじゃ撃てないぞ」
人間達は考えあぐねた。
「シーザー……? まさか、あなた……」
見上げる少女の顔をそっと指の腹で撫でる怪物。
「ミア……」
あたたかくてやさしい血の流れを感じた。そして、それが破れ、心の中で鮮血に染まる。
――シーザー……あなたが好きよ
(ミア……)
薄い灰色の風……。乾いた空……その空に渦巻くおぞましい赤い幻影……。血塗られた壁……。その空を汚し、突き抜けた光……。消えて逝った魂の……。光……光……白い闇の炎――!
「グオオオォォオ――!」
怪物は天に向かって爪を立て、狂ったように吠え立てた。それは、あまりに悲しい咆哮だった。
「シーザー……?」
ミアが叫んだ。が、その声は彼の耳には届かない。怪物は血走った目で人間を見据え、本能のままに彼らを襲った。血管が浮き立って盛り上がり、怒りに筋肉が波を打つ。腕の痛みが、いや、それ以上の苦痛と怒りと悲しみが、怪物を怪物へと目覚めさせたのだ。彼は、鋭く吼えると爪を突き立て、岩のような拳でその頭を叩き割る。そして、憎しみの炎で銃を踏みつけた。人間にとって最強の武器であるそれは簡単に拉げ、飴のようにぐにゃりと曲げられ、一瞬で使い物にならなくなった。そして、また別の男の銃を取り上げると、今度は腕の力で捻じ曲げる。ヒイヒイと悲鳴を上げて逃げる男に跳躍して踊り掛かり、容赦なくその腹を引き裂くと血走った目でギロリと睨む。周囲は血の臭いで満たされ、肉片が飛び散って凄惨な状況になっていた。
――血……。人間の赤い息吹……
食欲をそそられた。久しく食らっていない人間の……新鮮でてらてらと淡く薄紅色に輝くそれは、怪物にとっては魅惑的ないい獲物だった。しかもそれは上質な獲物。今まで何故それを我慢しなければならなかったのか? こんないい獲物を逃す手はないのに……。
(食らう。すべてを食らい尽くしてやる! 人間は餌だ。この肉はおれの獲物だ)
「グゥルルガゥ……!」
何故この感覚を忘れていたのか? こんな快い充足感と興奮を……。
「ガゥゥッ!」
怪物はぐわっと鋭い爪でその肉を引き裂こうとした。と、その時。
「シーザー……」
甲高い声でミアが呼んだ。
「……?」
振り向くとミアが怯えたように拳を唇に押し当てて震えている。怪物はじっと背を向けたまま、残骸となってしまった三人の人間を見た。そして、足元に散らばったきのこ……。それから、彼らが持って来た銃を……。
――シーザー
固い殻のずっと胸の奥の何かが疼いた。
「シーザー……」
怪物は、人間の手から転がり落ちた唯一破壊されていない銃を拾うと、そっとミアの前に差し出して言った。
「ミア……これ……使う……」
「これって……?」
手の甲に当たっているそれはぞっとする程冷たい感触がした。
「これって銃……? これで、どうしろって言うの?」
困惑しているミアにシーザーは冷たく言った。
「これで……シーザー……撃つ」
「出来ないわ!」
ミアは驚いて叫んだ。
「わたしには出来ない……。どうしてそんな事言うの? そんな、酷いこと……」
ざらついた風に混じるのは血と悲しみの臭い……。
「シーザー……怪物……から……人間……ない……から……」
「どうして……?」
搾り出すような声でミアが言った。
「シーザー……人間…殺す……」
それを聞くとミアは手で顔を覆った。
「シーザー……」
それから静かに怪物を見上げて訊いた。
「怪物は人間を食べるの? なら、わたしも? ミアも殺す?」
シーザーはゆっくりと首を横に振った。
「ミア……殺す……ない」
「何故?」
「ミア……オカリナ……好き…から……ミア…好き……から……」
そう言って怪物は背を向けた。そして歩いて行こうとする。
「待って!」
ミアが叫んだ。その声に怪物は僅かに肩を震わせた。が、再び歩み出そうとする。
「お願い! 行かないで! シーザー。わたしを独りにしないで……」
ミアは転びそうになりながら必死に追って怪物の背中にしがみついた。
「ずっと側にいて……」
「ミア……」
「たとえ、あなたが怪物だって構わない! だって、シーザーはシーザーなんですもの」
泣きながら顔を押し付けて来る彼女の頬をシーザーは、そっとその指で撫でた。その頬に細く赤い線が2本付いた。風の向こうに立つ淡い蜃気楼……。その先に閉ざされたままの過去と未来が眠っている。だが、二つの赤い道のりの果てにあるものに気づく者は、まだ誰もなかった……。
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