PLANET DESIRE
Prequel Ⅰ シーザー

Part Ⅳ


朦々と立ち込める砂塵の中を前傾姿勢で走る影……。咆哮と共に相手の喉元を鋭い爪で掻き切る。その瞬間、赤い噴煙が散って乾いた大地の飢えを満たす。だが、憎しみでコーティングされたその爪で、どれ程敵を引き裂いたとしても、怪物の腹を、そのあまりに空虚な心の悲しみを決して満たしてはくれなかった。

失くしてしまった。
いなくなってしまった。
あの小さなやさしい人間は……。
連れて行かれた。
奪い盗られた。 彼の唯一の……。

「ミ…ア……!」

その目は憎しみに燃えていた。
「ミア……」
怪物は空を掴んだ。足元には荒くれた砂漠と怪物の残骸……。風の中、聞こえるものは何もない。彼の名を呼ぶ者もない。
怪物はまた独り、荒野に置き去りにされた。

まだ熟さないグリフィンの実を誰かが強引にもぎ取ってその枝を乱暴に踏み砕いた跡……。散らかった窪みと折れた枝の間に、小さな青葉がそっと顔を出している。そして、その真ん中で小さな白い花が咲いていた。怪物はそっとその花びらに触れた。鋭い爪で散らさぬようにゆっくりそっと近づけた。だが、その爪の先端が花に触れた時、花は怯えたように身を震わせた。
シーザーはその手を引っ込めると、天を見た。

ちがうのだ。この花と自分とでは……共に相容れない存在……。あの小さな人間とも……やはり、相容れないのだと知った。

「グオォオ――!!!」

怪物は吼えた。
そして、感じた。自分はとても腹が減っているのだ。
血が滴る新鮮な肉を……あの感覚を……今、猛烈に欲している。

この爪で引き裂いて、薄桃色に輝くあの肉を……。
人間の肉を。

――食いたい

(食いたい)

「食い…た…い……!!」

誰がそれを止めたのだろう。誰もそれを止めた事はない。ただ怪物自身がそうしなかっただけ……。ミアが咎めた訳ではない。怪物自身の心がそうさせたのだ。が、今はもう心の鞘さえも外された。

食ってやる……!
甘く柔らかい人間の……その記憶ごと噛み砕いて、次は存分に腹を満たす。

(食ってやる)
光る怪物の目に映るのは、捕食される者達の黒い影……。
そして、怪物は柵を越えた。そこにある裏切りというスパイスの効いた餌……。人間を狩るために……。


「怪物だ! 怪物が出たぞ!」
村の者達が騒いでいた。銃や剣を持ち、武装する者。家財を持ち出し、避難しようとする者。はたまた、頑丈な建物の中や地下に篭って何とかやり過ごそうとする者など様々だ。が、その方法はどれも怪物に対する対策としては役に立たなかった。村にも多少、剣や銃を使える者はいたが、怪物の皮膚は硬く、普通の剣や銃弾では、せいぜい表皮を傷つける程度で、とても致命傷を与えられるものではなかった。そして、コンクリートの建物は怪物の固い爪の餌食でしかない。怪物がその気ならば、頑丈な建物でさえ破壊する事が出来た。

そして、逃げるといっても、囲われた砂漠の周囲を巡るしかなく、たとえ他所の村へ逃げられたとしても、また別の怪物が柵を越えて現れるだろう。村の人間は、砂漠の、その囲いの外枠に集落を作り、細々と生きていた。山を越え、もっと中央へ行けば、ずっと大きな『街』というものがあるというが、村の人間達は生まれ育ったその場所を離れようとはしなかった。

が、時々、その『街』からいろいろな珍しい品が運ばれたり、旅人が行き来したりする事はあって、彼らはそんな人達から村の外の情報を得ていた。その旅人の中には怪物を倒せるような凄腕の剣士もいて、彼らが来ると村の者達は歓迎した。が、今はそんな剣士もいない。

「怪物って……?」
ミアが訊いた。
「ああ。このところ頻繁に出るようになったんだ。村外れにある北の門の壁が壊されてから……」
ラルフが言った。彼は砂漠からミアを救い出してからも村に残る事にした。その村には医者がいた。彼ならミアの目を治す事が出来るかもしれない。それに、村の者達と交流しているうちにここでの暮らしが気に入った。街にいた時ほど物資にも恵まれておらず、怪物が出るという災いはあったが、人々の心は純粋で温かく、自然の中で工夫しながら生きている。そんな暮らしが人間にとって幸せな生き方なのではないかと感じ始めていたからだ。

そして、ミアと一緒にキャラバンで働いていたジャン バルチエ。彼の提案で村の青年団の中から怪物に対抗しうる警護隊を再編した。彼らは村を巡回し、砂漠を監視する。そして、怪物がいつ壁を越えて来てもわかるように見張りを置いた。そして、ゆくゆくは自分達の力で村を守り、怪物とも戦えるように訓練も開始した。それまでは怪物に対してまるで無力だった村にとって大きな進歩だった。

元々『街』から来たミアとラルフ、それにジャン。村の者達は彼らから街の情報を聞きたがった。すべてが順調だった。そして、何よりラルフを喜ばせたのは手術をすればミアの目が元通り見えるようになると医者が言った事だった。

「ねえ、ラルフ……。怪物って……」
ミアが訊いた。
「心配しなくていいよ。ミア。君は明日の手術の事だけ考えていればいいんだ」
ラルフが彼女の手を取って言った。
「でも……。その怪物はシーザーかもしれないわ。さよならも言わずに来てしまったの。きっと彼、心配していると思うの。もしかして、わたしを探して村へ来たのかも……」
「はは。まさか。怪物にそんな高等な知恵や感情がある筈がない。君の思い過ごしだよ」
ラルフは言った。
「でも、シーザーは違うのよ。彼は人間の言葉を理解するわ。それに、とてもやさしくしてくれて……シーザーは……」
しかし、ミアがいくら訴えてもラルフは取り合ってくれなかった。
「君の気持ちはわからなくもないよ、ミア。でも、怪物は人を食うんだ。彼らにとって餌であるものに対して、怪物が親切にしたり、心配したりするなんて僕にはとても信じられないんだ」
ラルフが言った。
「だけど、シーザーは……」
柔らかくてやさしいラルフの指が、そっと彼女の髪を梳いた。
「わかっているよ。やさしいミア……。でも、今は忘れて……。僕の事だけ考えて欲しいんだ」
「……」

ここに連れて来られてから既に1ヶ月が過ぎようとしていた。暖かいお風呂に入り、シチューやサラダや鳥の揚げ物……甘い飲み物やお菓子……。ここにいればお腹を空かせる事もない。そして、肌触りのいい織物の服……。ラルフがくれた美しい銀の細工が施された腕輪。砂漠でシーザーと暮らしていた頃とはまるで違った人間の暮らし。寝台には洗濯したての敷布からほんのり石鹸の香りがした。安全で快適で文化的な人間の暮らし……。ミアはすっと窓を開けて外の空気を入れた。微かに土の、砂漠の匂いがした。遠くで人間が騒いでいる。

「怪物が出たぞ!」
「銃を持て!」
「村に入れるな!」

怪物の悲し気な咆哮が空に響いた。

「シーザー……」
銃声が胸に突き刺さった。
「シーザー……!」
ミアはバタンと窓を閉めると手で顔を覆った。そして、そのまま寝台にもたれるようにうずくまった。


砂漠では、来る日も来る日も怪物同士の生死をかけた戦いが繰り広げられていた。突進し、引き裂き、爪で抉る。長い尾を掴んで振り回し、叩きつける。跳躍し、踏みつけて骨を砕く。断末魔の叫びは砂嵐に呑まれ、朽ち行く肉体を大地が食って、次の世代を育てるための肥やしとする。自然の摂理はそうやって延々と引き継がれて来たのだ。

やがて月日が経ち、彼は砂漠に君臨した。そして、周辺の村でもその怪物の恐ろしさは誰もが身に沁みて感じていた。誰もその怪物を傷つける事など出来なかった。そして、誰もその怪物を捕らえる事も出来ないでいた。
血走った目と黒く長い鬣……。
猛々しい青灰色の皮膚と長く鋭利な爪。
まさに王者の貫禄に相応しい巨体と雄々しさを備えていた。その形相は恐ろしく、見る者を震え上がらせた。砂塵の中に立つその姿は人から見れば破壊神そのものに見えた。

「恐ろしい……何て奴だ」
ある日、名のある剣士が村に来て怪物に挑んだ。だが、人々はその無残な光景を見て凍り付いた。その怪物の爪によって引き裂かれた英雄の末路……。
その男は怪物の鎧のような身体をも切ることが出来る、剣と腕とを持っていた。そして、これまでにも多くの怪物をその剣で斬り、村を守ってくれた。英雄と呼ぶに相応しい男だった。それが、あの怪物にはまるで歯が立たなかった。
いや、それどころかただ一度の反撃すら与えられずに散った。
剣を弾き突き立てた爪が、男の体を貫いたのだ。そして、その頭を掴むとぐしゃりと無造作に捻り潰す。怪物は自分に対して歯向かった敵に対して容赦がなかった。遠巻きにして怯えている村人達をギロリと睨むと、怪物はそこに腰を据えた。そして、転がっているその生々しい肉を鷲掴みにすると、引き千切り、骨を砕いてがつがつと食い始めた。

「奴は別格だ」
「破壊と殺戮を司る悪魔だ」
人間達が噂する。強さも大きさも桁違いなのだ。普通の怪物でも手に負えないのに、その怪物の前では人間はあまりに非力過ぎた。
「奴は本当に化け物だ」
人々の間に恐怖が渦巻いていた。村人達は怪物を恐れるようになり、村を捨て、別の村へ逃げて行く者まで現れる始末だ。


警護隊の若者達は集まって協議した。
「確かに人間は奴らに比べれば弱い存在だ。だが、恐れているばかりでは何も変わらない」
ラルフが言った。
「だからってどうすりゃいいんだ? いくら防護壁を強化したって破られちまえばそれでおしまいだ」
ジャンが言った。
「戦うのよ」
ミアが言った。彼女は美しい女剣士として成長していた。砂漠に住んで1年、村に来てから3年の月日が流れていた。目の手術も成功し、それからずっと彼女は剣を鍛えた。今では男にも負けない剣さばきで他を圧倒し、警護隊の中でも一目置かれる存在となっていた。

「戦うって……。ミア、おまえがいくら強くなったといったって怪物相手じゃ到底敵うもんじゃねえ」
ジャンが言った。
「敵わない? そんなのやってみなければわからないじゃない。それに、怪物の中にはシーザーのように人間の言葉を理解するものもいるわ。そういう怪物と話し合うことだって可能なんじゃないかしら?」
「やれやれ。また、ミアの有り得ない空想話が始まった。大体、怪物が人間と話し合いが出来るもんか。奴らは獣以下の知能しかないんだぜ」
バシッ! いきなり頬を張られてジャンが怒った。
「何すんだ! おれはほんとの事言っただけだぜ」
「シーザーは獣以下なんかじゃないわ」
「へえ、そうかい? まったく、冗談じゃねえぜ。ほんと、付いていけねえよな。お嬢ちゃんのくだらねえ空想話にゃよ」
「ジャン!」
いきり立つミアをラルフが止める。

「まあまあ。落ち着けよ、ミア。今はシーザーの話をしているんじゃない。村や人間に害を加える怪物に対してどう対処すべきかを話し合ってるんだ」
「そうよ! でもこの間だってその前の時だって戦ってくれたのは他所から来た人達で、ここにいる警護隊の人達は誰も加勢する者などなかったわ。それどころかみんな村の大人達の後ろで震えてたっていうじゃない。『警護隊だなんて名ばかりで臆病者のへっぴり腰集団だ』なんて揶揄されてるのよ。悔しくないの?」
「ミアはそんなこと言うけど、実際にあいつを見ていないから言えるんだよ」
マーチンが言った。
「そうだよ。おれ達だって一応出来る範囲の事はやってるじゃないか」
「やってるって何を? 警護隊が活動を始めてからもう3年になるのよ。なのに、状況はちっとも変わっていない。いいえ、むしろ悪化してるのかも……」
ミアは言ったが、皆下を向いているだけで誰も積極的に何かを始めようと言い出す者はいなかった。

「とにかく、今は見張りを強化しよう。それに、内側にも防護壁を作って少しでも怪物の侵入を防ぐようにする」
ラルフが無難な意見を言った。
「そうだな。おれ達に出来るのはまだそれくらいだものな」
他の者達は安堵したようにその意見に賛成する。

「それと、最近は怪物ばかりじゃなく、人間の盗賊も増えている。もっと役場や警察とも連絡を取って連携した方がいいんじゃないか?」
マーチンが言った。
「ああ。おれ達だけじゃ不安だし、出来ればもっと力のある大人や専門知識のある人達に手伝ってもらった方が安心だ」
ラルフが頷く。
「ラルフ……」
ミアがため息交じりに言った。
「仕方ないよ。おれ達に出来ることには限界がある」
「そうだよ。怪物より今は人間の盗賊の被害の方が酷くなってるんだし……」
他の若者達も次々と言い出す。

「そうそう。そっちの方が直接的だもんな。金品ばかりじゃなく、女子供もお構いなしに襲ってるらしいぜ、奴ら……」
ジャンが含み笑いを浮かべながらミアを見る。
「何が言いたいの?」
ミアが睨む。
「心配してるんだぜ。おれだって」
「無用な心配よ。今は怪物の事で頭がいっぱいなんだから……。人間の盗賊なんかこの剣の一振りで追い払ってやる」
「へえ。怪物のことで頭がいっぱいねえ。ま、ミアは、1年以上も怪物と暮らしてたんだもんな。怪物ってさ、あっちの方もでかいんだろ?」
「ジャン! わたしと勝負したいなら表へ出てちょうだい! 二度とそんな下世話なことが言えないようにしてやるから……」
「おいおい、よせよ、二人共」
仲間達が止めに入る。
「やだなあ。今のはただの冗談だって……」
ジャンが言った。
「冗談にしては悪趣味過ぎる! もういい! わたし、見回りに行って来る」
そう言うとミアは出て行った。
「おい、待てよ、ミア!」

慌てて、ラルフとマーチン、それにジャンも追って出て来た。
「一人じゃ危険だ、僕も行くよ」
「ラルフ、あなたは会議をまとめなきゃでしょ?」
「なら、おれが行こうか?」
ジャンが言った。
「お断り!」
ピシャリと言ってミアは隣のマーチンを見た。と、その時。彼の向こう、崩れた壁の向こうに影が浮かんだ。
「怪物!」
ミアが叫んだ。その声に皆が振り向く。
「村の者に知らせろ! 警報を出すんだ! 早く」
ラルフが言って、マーチンが駆け出す。

と、突然、ミアがその怪物に向かって駆け出した。
「ミア!」
慌ててその手を掴んで止めようとするラルフ。
「わたしが倒す! これ以上、村から被害を出す訳には行かない」
ミアが剣を抜いて構える。
「無理だ! 君の力じゃ、とても……」
そんなラルフの忠告も聞かず、その手を振り払って彼女は怪物の前に出た。が、生々しい怪物の威圧感に彼女は圧倒されていた。

実のところ彼女はこれ程至近距離から大型の怪物を見た事がなかった。砂漠に入って間もなく視力を失ってしまった彼女は、怪物という恐怖もその残虐さもすべては耳で聞いたイメージしか持っていなかったのだ。それが、実際に視覚というレンズに投影されて見るとそれは本当に恐ろしい姿をしていた。これまでにも何度か村に怪物が来たことはあった。が、それらはいずれも小型で四つ足で歩き、大勢で掛かれば何とか砂漠に追いやることが出来た。あるいは、剣士に大枚を払って退治してもらって何とかやり過ごせる。そんな程度の怪物は……。

しかし、その怪物は明らかに他とは異質なものだった。人のように2足歩行をし、獣のように前傾姿勢をして走る。そして、立ち上がれば2メートル50センチはあろうかという巨体で、その筋肉は人間の何倍も発達していた。しかも、強靭な爪と岩のようにごつごつとした固い皮膚。
憎しみに熱く燃えるような瞳……。そして、黒い鬣……。

「奴だ……」
ミアの背後でジャンが震えた。
「何て恐ろしい目をしているの……。これが、怪物……」
ミアは、それが皆が噂していた『砂漠の破壊神』と言われる怪物なのだと気づいて言葉を失った。
「Grrr……」
唸り声を上げながら、怪物が前進する。その度に、ミアはじりじりと後退する。構えた剣先が震えていた。

「こ、これ以上、村を、人間を襲ったら許さない……!」
彼女は強気に言うと怪物を睨んだ。
「ミ、ミア、駄目だ。逃げよう」
焦ってラルフが囁く。
「……」
彼女は怪物から目が離せずにいた。
「何をしているんだ? 早く!」
先に走り出していたラルフが叫ぶ。彼女はようやく頷いて踵を返した。と、その時、風の音に混じってざらついた声が聞こえた。

「……ミ…ア……」

砂漠から舞い込んだ砂が強い風に吹かれてパラパラとぶつかった。
「何……?」
ミアが振り向く。
「まさか……」
澱んだ空の向こうに見えるのは、閉ざされた者達の闇……。
その闇に浮かぶシルエット……。
「シーザー……あなたなの……?」
問い掛ける視線。
「シー…ザー……??」
が、怪物からの答えはなかった。その表情は固く凍りついたまま動かない。風がヒュンと足元に絡んで通り過ぎた。ミアは自問を繰り返す。記憶の中にいるシーザーと、今、目の前にいる怪物と……。しかし、それは辿っても辿っても重なることのない平行線の記憶でしかなかった。

「違う!」
ミアが叫んだ。
「あなたはシーザーなんかじゃない……。あのやさしいシーザーが、こんな醜く恐ろしい化け物のような姿をしている筈がないもの……。シーザーじゃない……!」
「……」
声にならない声が風に呑まれた。が、彼女はそれも否定した。少女にとってシーザーはあくまでも特別な存在だったのだ。

――シーザー、たとえあなたが怪物だって構わない

それは昔、ミア自身が口にした言葉だった。しかし、心で見るものと実際の目で見るものの姿には越えようのない大きな落差が存在していた。

――シーザー、あなたが好きよ。だから、ずっと側にいさせて

「ミア……」
怪物が言った。今度ははっきりと聞こえた。
「な…ぜ……?」
怪物が近づく。だが、彼女はそれを受け入れることが出来なかった。
「……来ないで」
彼女がうずくまった。震える背中……。その背に触れようと怪物が近づく。

「やめろ!」
と、突然、脇から怪物に突っ込んで行った者があった。その手にはギラリと光る刀剣が握られている。至近距離だった。怪物は咄嗟にその剣を人間ごとなぎ払った。
「うわっ!」
怪物の鋭い爪が剣を飛ばし、人間を切り裂いた。
「ジャン……!」
ミアが慌てて駆け寄った。
「ジャン……、何て無茶をするの? こんな……こんな酷い……」
ミアが慌てて傷口にハンカチを当てる。が、彼はその手をそっと払って言った。
「ありがとうよ……だが、もうそんな事をする必要はない……」
「ジャン………」
ラルフも戻って来た。そして、怪物を威嚇する。が、彼らをじっと見ていた怪物はそれ以上手を出す事もなく、何も獲物を捕らえずに砂漠へ消えた。

「ミア……聞いてくれ……あの怪物が……」
苦しい息の下からジャンが言った。
「奴がおまえの親達を……」
「え?」
ミアが訊き返す。
「奴が………おまえの両親を食った怪物な…んだ……。そう。あの破壊神が……」
「嘘……。だって、あれは……あれは……」
ミアは困惑した。
「嘘じゃねえ。おれははっきりと見たんだ。あの時……。怪物の首に光ってた銀色の……間違いねえ。奴がおまえの両親を殺し、その死体を食った怪物に……」
「そんな……!」

確かにその怪物の首と鬣の間には何か光る物があった。金属のような何かが鬣に絡みついていた。

「シーザーが……獰猛で残虐な破壊神で、わたしの両親を殺した怪物だったなんて……」
とても信じられなかった。が、突き詰めれば情報は全て一致する。
「なら、どうしてシーザーはわたしを助けたの?」
誰にともなく疑問をぶつける。
「ほら、御伽噺にあるじゃないか。もっと太らせてから食おうとしたとか……」
ラルフが言った。
「でも、シーザーは魔女じゃないわ」
「だが、怪物だ……」
薄く目を開け、ジャンが言った。
「そう…ね……」
彼女が頷く。
「わかってたの。本当は……。彼が人間とは違う生き物なんだって……。ずっといっしょにはいられないって……でも……。わたしは夢を見ていたかった。怪物と人間でも友達になれるって……信じていたかったの……!」
命の赤い水が流れ出ていた。ラルフが医者を呼びに走る。

「奴は……怪…物だ……」

ジャンが繰り返す。
「そうね。わたしの両親を食べたのなら、いつかわたしも食べるかもしれない……。シーザーはあなたを傷付けた。怪物の本性は、やはり怪物でしかなかった……。わたしのシーザーは、もういない……。ジャン、ごめんなさい。わたし、あなたに酷い事ばかり言って……」
その言葉にジャンは薄く微笑んだ。
「いや、おれの方こそ……。けど、よかった……。あの時、おまえを見捨てて逃げた事、ずっと後悔してたんだ……。臆病者になりたくなかった……。けど、あの頃のおれにとっては怪物が……」
「黙って……。今、医者が来るわ」
「ミア……お…まえのことが…好きだった……ずっと……キャラバンにい…た頃か…ら……な…のに……」
だが、彼の言葉は途中で途切れたまま、永久に還って来なかった。ジャン バルチエ。彼が警護隊の中の最初の犠牲者だった。

――奴がおまえの両親を殺し、食った怪物なんだ

ジャンの言葉が心の中に木霊した。
「許さない……!」
砂漠から降って来た固い砂粒が頬に当たる。
(両親の事も、ジャンを傷つけた事も……)
ミアは真っ直ぐ自分が進むべき道を見つめた。それから、ジャンが携えていた剣を地面に深く刺した。
「シーザー……」
そして、彼女はその剣に映る自分自身に誓った。
「いつか必ず、あなたを倒す!」


砂漠の風は、いつも灼熱の想いと凍える魂を運んで来た……。叩きつける砂粒の痛み……。壊れた過去の痛み……。そして、今、ここに生きていることの痛み……。怪物は半分埋もれた瓦礫の中で、唯一元の姿のまま真っ直ぐ置かれた壷を見つめた。その中に差されたままの花は風に散って、大分減ってしまったが、幾つかは枯れても尚、花の形を留めたままそこに残存していた。

少女がその花を愛でることはないだろう。
少女はすっかり大人になっていた。
それは人間の匂いがした。
そして、その周りには人間の仲間が……。

シーザーはそっとその壷の表面に触れた。すっかり砂がこびり付いていたが、何度も触れているうちに少しだけ砂が落ちてすべすべとした部分が出来た。その感触が何となく少女の肌の感触に似ていると、怪物は思った。だが、それは冷たかった。そして、柔らかくもなかった。それはもう二度と戻って来ない大切な何かだった。

そして、怪物は失くした物が何なのか思い出そうとした。瓦礫をほじくり返し、穴を掘り、必死で何かを見つけようとした。だが、それはなかなか見つからなかった。それが何なのかもわからなかった。それでも怪物はそれを探した。瓦礫のずっと奥深くまで……。そして、更に深く……。爪が何かに当たった。ピンと何かを弾いて音が出た。長い金属の棒の束とハンマーと……連なった板……。それは何かしら音が出る物なのだ。怪物はあちこち触れてみたが、それはとっくに錆びついていた。結局それが何なのか怪物には理解出来なかった。が、四角い白い物に触れた時、何故かとても懐かしい気がして彼の心は満たされていた。

突然、高い音が心に響いた。怪物は急いで瓦礫の上に出た。それは確かに聞こえたのだ。この砂漠の何処からか。風に乗り、砂に紛れて……。快い音だった。甘く切ない旋律が怪物の心に呼び掛ける。
「音……」
彼は見つけた。人間の男が歌っているのだ。その男が胸に抱いた箱に付いた糸を弾く度、音は聞こえた。糸は短い物から長い物へと順に並んでいる。それは、ミアが持っていたオカリナとは全く違う柔らかい響きだった。怪物はしばらくの間じっとその音に聞き入っていた。が、やがてそれが何なのか、もっと近くで見たくなった。怪物は人間を驚かさないように、風下から足音を忍ばせてそっと近づいた。

が、不意に男は演奏を止めた。怪物に気がついたのだ。洞察力のある男だった。

彼は持っていた楽器を置くと素早く跳躍し、いきなり矢を射掛けて来た。腰には剣も携えている。男はどうやら単なる『音を奏でる者』ではなかったようだ。それは服の上からでもわかる。鍛えられ、よく張った筋肉……。それは、かなり上質な肉だった。人間は次々と矢をつがえて射って来た。だが、そんな物が怪物に効く筈がない。怪物に当たった何本かの矢は折れ、また何本かは固い皮膚に弾かれて落ちた。が、それでも微かに腕に食い込んでいる矢があった。怪物はそれらを無造作に抜くと、怒りの咆哮を上げて矢をへし折った。

男は剣を抜いた。
睨み合う二人。
男は不敵の笑みを浮かべている。

怪物が跳躍し男に飛び掛かった。
男の剣と怪物の爪が火花を散らす。強い獲物だ。久々に手応えを感じ、血が滾った。心を切り裂く魂の死闘に、燃える二つの魂を映して歪んだ太陽が砂漠に沈もうとしていた。

Fin.