ダーク ピアニスト
―叙事曲1 Geburtstag―

第10章


 「あのう、準備がよろしければそろそろお願いしたいのですが……」
ロッペグラフが言った。
「ええ、どうぞ。ぼくはいつでも構いませんよ」
ルビーはグラスに残っていたワインを一気に飲み干して言った。今夜はもう何杯のワインを飲んだろう。唇は赤く、頬は薔薇色に染まっている。しかし、彼はアルコールに強かった。地下室に閉じ込められた時、命を救ってくれたワインをルビーはこよなく愛していた。が、さすがに中毒症状を起こしていた彼を医者は治療した。そのことを彼自身はあまり覚えていないらしい。が、その記録を読んだギルフォートは、彼の生活面に関しても厳重に管理するよう部下や使用人に命じていた。だが、今日はそのギルフォートや使用人達もいない。彼は闇を払い、気分を高揚させるためにかなりのワインを口にしていた。

「ふふ。最高のワイン。最高のピアノ。そして、最高の演奏が始まる」
ピアノに関して彼は絶対の自信を持っていた。普段は従順で可愛らしいお人形も時には大胆な行動をする。しかし、彼はただ溺愛されるだけの人形ではない。愛らしい魔性の微笑みと悪魔の手を持って人々の心を魅了する。
「次にはぜひ、私のサロンにも来て下さいね」
「本当に何て可愛らしいんでしょう。このまま連れて帰ってガラスケースに閉じ込めて飾っておきたいわ」
ルビーはこの時17才になっていたが、見た目も声も幼いままだった。そんな彼を婦人達はもてはやした。が、その取り巻きの中に彼女がいない。フローラは何処だろうとルビーは思った。

と、その時。背後でざわめきが起きた。
「ヘル ケスラーよ」
「派手な服だな」
「婚約発表をするんですって。フローラ嬢が可哀想」
「奴のことだ。どうせ、また汚い手を使ったんだろう」
「しっ。今夜は大勢彼のSPが来ているわ。告げ口されたら大変よ」
それは見るからに好色そうな脂ぎった男だった。ケスラーは無遠慮に女達を値踏みし、金儲けの種はないかとじろじろと見回している。
(いやなタイプだ)
と、ルビーは思った。だが、その脇に彼女がいる。彼女は数歩下がって目を伏せていた。

「やあ。君が今夜私とフローラのために演奏してくれるピアニストかね?」
ケスラーはルビーに近づいてずけずけと言った。
「ええ。ここにいる皆さんのために……」
ルビーは言った。
「いいや。私とフローラのためだけに頼むよ。何しろ今夜はめでたい日なんだからね。婚約するんだ。わかるだろう? 何ならウエディングマーチでも構わんぞ。さんざじらされたんだ。今すぐ結婚したいくらいだよ」
と言ってケスラーは皮下脂肪の塊のような腹を揺すって豪快に笑った。そして、ルビーの肩を叩いて馴れ馴れしく握手を求めた。
「わかりました。では、最後にあなたが望む曲を……」
ルビーは言って演奏の前にまたグラスを取った。
男の手が触れたことがいやだった。何もかもを消して、無心でピアノに向き合いたかった。だから、彼はグラスを取ったのだ。透ける赤い液体に照明が当たり、その純白の光目が一瞬だけ十字架に見えた。彼女が持っていた聖書のイメージが残像として残っていたのかもしれない。

黒い森の獣達はとっくに眠りについている。なのに、人々は明かりを灯し、浮ついた心でパーティーをしている。月が眠そうに傾いて、風がそよそよと木の葉を揺らす。ルビーはそっと鍵盤の上に指を乗せた。そして、そよ風と呼吸を合わせ、心の底に沈むような最初の和音を弾いた。その瞬間、そこにいた者のすべてが彼の音楽に深く魅き寄せられ、呼吸さえも止まったような静寂がそこに訪れた。月も星も闇の獣達もじっと彼の演奏に聞き入っている。そして、あのケスラーでさえじっと目を見開いたまま、何かに魅入られたかのようにうっとりとした表情を浮かべている。しかし、その隣でフローラは泣いていた。月光の光にも似た高貴の涙がその頬に伝う。そして、その月光の銀色の光は、時に獲物を狙う狩人の銀の矢羽にもなり得た。

 演奏が始まった。ギルフォートは闇に溶け込んで機会を覗った。暗視スコープの十字の下で何人もの人間が蠢いている。SPとそうでない者を確認し、尚且つ標的だけを確実に撃ち抜く。単純なことだが、それが意外にも難問だった。複数の人間と自然物、建造物などが複雑に絡んで視界を遮る。射程距離内にある有効なポイントはすべてSPに押さえられてしまっていた。守る方とて必死なのだ。そう簡単には撃たせてくれない。そうやって今まで何年となく主人を守り通して来たのだろう。
「完璧だな」
声にならない声で呟く。
「あれほど優秀なSPならグルドにも欲しいくらいだ」

彼は気配を消してまた移動した。演奏が終わるまでに仕事を遂行しなければならない。そうでなければ、ルビーを駆り出した意味がないからだ。また別のポイントに来た。そしてスコープを覗く。演奏しているルビー。そしてターゲット……。しかし、そこから狙うにはまだ邪魔な障害物がある。SPの一人がこちらを見た。瞬間、手にした物を下ろし、木の影に入る。迂闊に動けば不審を招くかもしれない。彼はしばらくそこで様子を見ることにした。

 演奏は順調に進んでいた。ベートーヴェン、バッハ、モーツァルト、そして、ショパン……。有名なクラシックばかりを集めた、いわばクラシックの入門のようなプログラムだったが、知っている曲が多いので客達は大いに満足した。

――無理矢理結婚させられるの

突然、泣きそうな彼女の顔が頭を過ぎった。

――お母様はそれで身体を悪くして……

(母様……)
今にも崩れてしまいそうな母の悲しそうな顔が浮かんだ。と、同時にポケットの中で何かが熱く燃えているのを感じた。

――結婚させられるの。愛も何もないのに……もう死んでしまいたい!

彼女は青ざめた顔でじっと瞳を閉じていた。その手にあの黒い聖書を持っている。白と黒の世界に彼女はいて、彼女だけが浮き立って見えた。熱く激しく波打つ鼓動……。
(どうしたんだろう? ぼく……)
内の世界で何かが変わろうとしていた。視界がなくなり、混沌とした何かがその中を満たす。鋼を打つような激しい音が頭に響く。
(これは何?)
鍵盤の上を這い回る手。その指先が高く振り上げられ四角いそれに叩き下される度、強い衝撃を持って心臓に打ち込まれて行く……。
(やめて!)
彼は叫んだ。が、その手は更に激しく動き回り、心臓に衝撃を与え続けた。
(痛い! 痛いよ! やめて!)
しかし、演奏は止まらない。観客は彼の演奏に酔っている。そして、ルビーはその痛みに悲鳴を上げながら、泥酔して行く自分を感じた。

(ワインが欲しい……)
グラスの中で揺れる赤い液体……。その向こうで母が微笑んでいる。撒き散らされた薔薇の花びらの中で……。ポケットの中で銀のナイフの先端が彼を傷つけ熱い液体を流していた。
(もっとワインを……あなたの血がもっと飲みたいんだ)
地下室で目覚めた時、付着していた母の血を彼はそっと舐めて微笑んだ。そうすることでもう2度と母と離れることはないのだと、それで一つになれたのだと強く感じた。しかし、時間が経てばその感覚も薄れ、彼はもっとそれが欲しいと願った。そして、それは赤いワインに似ていると思ったのだ。
(だから欲しいの。ワインを下さい。赤く美しく輝いたグラス一杯の賛美を……)

――私達のためにウエディングマーチを……

ルビーはふと現実を見た。
(いいよ。約束しよう。今夜、最高の曲をあなたに……)
拍手が周囲の何もかもをかき消した。
「それでは、最後にヘル ケスラーのリクエストを……」
火照った頬に浮かぶ陽炎……。ルビーは幻想の森を彷徨いながらメンデルスゾーンの曲を弾いた。
(そうして、森では妖精の結婚式が行われるのです。黒い森の黒い呪いの結婚式が……)

「ここだ」
ギルフォートは絶妙な位置からターゲットを狙った。すべての条件が一致する最高のポジションだ。彼はライフルを構えると男の振動を狙った。数ミリの狂いもなくピタリと合わせる。

――結婚させられるの

ルビーが演奏を始めたのでケスラーは満足した。そして、フローラの肩に腕を回し、いやらしい顔を近づける。抵抗する彼女。黒いスクリーンに焼き付けられて行く光景をルビーは瞬きもせずに見つめていた。そして、曲がクライマックスを迎えた頃……。男は強引に彼女の唇を奪おうとした。歪んだ横顔。抗えない運命に対する絶望……。哀れなその瞳が母のそれと重なった。

――いやだ

強い運命への逆風。髪の毛が総毛立つ。ばらけて落ちて行く鍵盤……。男が手にしたグラス。そこに反射する光が細い銀色の刃先に見えた。瞬間。

――やめろ!

ズギュンと何かが胸を抉った。
(母様!)
演奏は止まらない。再び鍵盤の上を動き回る10本の指……。そして、胸の痛み……。波打つ鼓動が逆流し、胃が激しく締め付けられる。周囲がざわついていた。しかし、彼は無表情のまま……。ひたすら演奏を続けた。が、いつの間にか曲想は変わり、それは静かな鎮魂歌へと流れて行った。

 「何!」
男は驚愕した。一瞬早く誰かが撃った。ギルフォートが引き金を弾くより早くターゲットの男は魂を手放したのだ。しかし、誰が……。ギルフォートはスコープを覗き、慎重に周囲を観察した。ルビーはまだピアノを弾いている。既にSPが行動を開始していた。だが、撃った奴の痕跡がない。
「まさか……」
もう一度スコープを覗き、それから男はすぐにそこを離れた。


 「報酬だ」
とジェラードは言った。が、ギルフォートは首を横に振った。
「それは仕事を遂行した者に、ルビーに与えてやって下さい」
「坊やに?」
「はい。今回の仕事はルビーの手柄です。最高のスナイパーとして奴はこの先もグルドにとって必要な人材となるでしょう」
弾痕も残さず、自分は演奏中だという完璧なアリバイを持ち、完全なる暗殺を遂行する。恐るべき暗殺者。
「ダーク ピアニスト……」
思わずそう呟いてギルフォートは苦笑した。
「おまえはいやがるかもしれないが、おれはその先を、おまえの未来を見てみたい……」

 ケスラーが死亡したことで、彼がこれまで行って来た不正や悪事が一斉に暴かれた。これにより、フローラの父の借金も相殺され、彼女の母親の手術も無事に成功したという。
そして、フローラはヘル ロッペグラフと正式に婚約した。彼がケスラーの暗殺を執拗に依頼して来たのはそのためだったのだ。が、それが成功したことで他の多くの人間も救われた。人を泣かして築き上げた城はまた、人によって滅ぼされる。結局は自分に罰が下るのだ。それは因果応報の道理だった。だが、その摂理を理解せず、自らの願望のために横暴を働く人間の何と多いことか。ギルフォートは武器の点検とメンテナンスを行いながら思った。
(いくら裁きを繰り返しても世の中に悪が尽きることはない。なら、人間にとっての救いは一体何処にあるのだろう?)
と……。そのために自分達は存在し、グルドにおいても社会にとっても大いに価値がある。そして、居場所がなかったルビーにとっても……。しかし……。

 「ねえ、ギル。乾杯しよう」
ルビーが言った。手にはグラスとワインのボトルを抱えている。
「どうして乾杯なんだ? そのワインを何処から持って来た?」
「ロッペグラフさんが送ってくれたんだよ。大きな箱にたくさんあるの」
とうれしそうだ。
「何のために乾杯するんだ?」
「えーとね、誕生日」
「誰の?」
「ぼく」
「おまえの誕生日は3月だろう」
「それじゃあ、ギルは?」
「おれは11月だ」
「何日?」
「27日」
「なあんだ。今日はまだ9日だし……。全然合わないねえ」
「合わないも何も11月にはまだ2ヶ月もあるだろう」
「うーん」
ルビーは名残惜しそうにラベルを見ている。何とか瓶を開ける口実が欲しいらしい。

「おまえ、この間のパーティーで何杯飲んだ?」
「100!」
ルビーがパッと顔を輝かせて言った。
「何?」
「ぼくね、ちゃんと100まで数えられたんだ」
「そうか。なら、今数えてみろ。ちゃんと数えられたら飲ませてやる」
「ほんと?」
ルビーは自信満々に数え始めた。が、20を過ぎた頃から怪しくなり、30で躓き、40の辺りで脱落した。
「46の次は?」
「えーとえーと、もうっ、気が散るの。あっち向いてて」
しかし、50までは何とか辿り着いたものの60になるとどうしてもわからなくなってしまうようだった。
「嘘じゃないよ。本当にあの時は出来たんだ」
懸命に訴える彼を宥めるようにギルフォートは言った。
「そう。嘘じゃないさ。信じてるよ。おまえはちゃんと100まで数えられた。そして、ケスラーに制裁を加えた。全部事実だ。そうだろう?」
「ケスラーに……」

――結婚させられるの

「あれは、フローラが可哀想だったから……。あいつが悪いことして、彼女を泣かせたから……。ぼくがやっつけてやるって約束したの。それで、ぼく……。ピアノを弾いていたら、突然、何かが弾けたの。夢を見て、母様を守ろうとして、それで……」
太股が痛んだ。銀色の刃先がホーゼの布を突き破って傷つけたのだ。ポケットの中にはもうそのナイフはなかったが、傷はまだ完全に治っていなかった。
あのあと、彼は病院へ運ばれ、傷の治療を受けた。そして、剥き身の刃物をポケットに入れてはいけないこと、そして、アルコールを飲み過ぎないことという2点において医者とギルフォートから散々注意を受けた。その太股の辺りをそっと撫でているルビーにギルフォートが訊いた。
「まだ痛むのか?」
「ううん。平気。でも、医者が傷が残るかもしれないって……」

彼は傷跡が残りやすい体質だった。深く傷付いてしまうと傷口が盛り上がり、ケロイド状になってずっとその痕が残ってしまう。だから、なるべく傷を付けないようにと注意を受けていた。
「でも、仕方ないよ。だって、ぼく、いいことをしたんだもの」
「なら、また、ケスラーのような悪者がいたら、同じことをするのか? あの力を使って……」
「わからない。でも、ぼくは役に立てた?」
「ああ」
「なら、そうするよ。そして、もっと上手に出来るように練習する」
「そうか。それじゃあ、乾杯しようか?」
「何のために?」
ルビーが訊いた。
「ダーク ピアニスト……おまえのために」
「ぼくのために?」
ピアニストと言われたことがルビーはうれしかったようだ。喜んでグラスを差し出した。
「それじゃ、乾杯!」

――今度はきっと上手くやる。だから、ぼくを殺さないで


 それから、更に高度な訓練が始まった。そして、翌年、ルビーは組織内で行われた射撃大会で脅威的な成績を残した。なみいる優秀なスナイパー達を押し退け、ギルフォートに続く次点という文句のつけようのない結果を皆に示したのだ。それまでルビーのことを馬鹿にしていた連中も皆彼に対して一目置くようになった。なお、知能面での遅れをからかう者はいたが、ルビーはそれでも十分満足した。ジェラードに認められたこと。表彰状をもらったこと。そして、ギルフォートが喜んでくれたことが彼にとっては何よりもうれしかった。

世の中には、法では裁けない悪人が世界中にいる。そして彼らのせいで多くの人々が犠牲になり、不幸な状況に陥れられて苦しんでいる。そして、その多くは泣き寝入りを強いられているのだ。そういう人々の恨みを晴らし、悲惨な状況から救うため、悪事を働く者に対して断固とした制裁を加える。それがグルドの本質であり、正義だ。そう教えられた。ルビーは疑うことなくそれを信じた。現にそうしてフローラは救われたのだから……。


 そしてその日。彼らは何度目かの仕事をした。喝采と眺望の中でルビーは確実にターゲットを仕留めた。が、そんな彼を誰一人疑うことはなかった。警察も観客も演奏中だった彼にそんなことが出来る筈がないと信じ込んでいた。
「冷えて来た。上着を着とけよ」
「うん」
帰り道。車窓からは延々と続く森や畑が、平和の象徴のように流れていた……。

「ねえ、次は誰を殺す?」
無邪気な顔で彼は問い、
「この写真の男を」
とギルフォートは平然と答える。

世の中には悪人が多過ぎる。殺人依頼、暗殺依頼の数は年々増加傾向にあった。だが、その仕事を行う人間は生身だ。余程強靭な精神の持ち主でなければとても重圧に耐え切れない。しかも復讐という連鎖が起きることも稀ではない。一度足を踏み入れたなら、いつ、何処で誰に狙われているかわからない。一瞬たりとも気を抜けない。実際、その緊張に耐えられず自ら没していく者も少なくなかった。そんな過酷な運命に繊細なルビーの神経が耐えられるのか。僅かに生じたギルフォートの懸念。しかし、ルビーはあっさりと否定した。
――ぼくは役に立ちたいんだ。そのためなら何だってする。たとえ、ぼく自身がどんなに傷つこうと構わない。その傷と引き換えに誰かが幸せになれるなら……。悪魔が人々を苦しめるなら、ぼくはこの手を血濡れた十字架に変えてその心臓を打ち抜く。
「ルビー……」

常緑樹の森が去り、剥き出しの土と青いシートが繰り返し現れては消えていった。そこに見え隠れする過去の子供達。その中で小さいルイが泣いていた。

――社会にとって役に立たないのならいらないや。おまえなんか消えちゃえ! 消えてしまえ!
ゲルトが言った。心地よい振動とまどろみのような幻想が彼を傷つけた。それは、逃げ場のない思い出の枠組み。教室はざわめいていた。投げつけられた赤い果実。散らばった記憶……。ぶつけられた言葉の切っ先で、容赦なく切り刻まれていった心……。
――黙れ!
大人になったルイが言った。
――ぼくはもう昔のぼくじゃない!
そして、憎しみに向かって引き金を引いた。赤い実が弾けて散り、闇がそれを貪り食った。
――消えろ!

しかし、本当に消え掛けているのはどっちなのだろう。悪夢の中に飲み込まれて行く教室で、呆然とした表情のまま薄れていく子供達……。丸い硝子の中に閉じ込めた思い出。その小さな硝子の中で悪魔が睨んだ。
(ゲルト……。おまえにとってぼくはいらない存在なのかもしれないけど、それでもぼくはいるんだよ。ここにいるんだ)
そのビー玉を握り締めて空を見る。
(そして、そんなぼくを必要だと思ってくれる人がいる。ぼくだって役に立ちたいんだ。誰かに喜んでもらいたいんだよ。生きててよかったって思いたい……。だから、ぼくは今ここにいる。銃は重いよ。人間の命と同じように……。もし魂に重さがあるとしたら、多分この銃と同じ。命の熱さと重さを感じる。そして、ぼくはこの銃で命の駆け引きをする。それはきっと終わらないロシアンルーレット。ぼくの心を締め付けて、銀の針で刺すだろう。けれどぼくは屈しない。いつか、痛みに耐えられなくて発狂しても……。あの病院にはもう行かない。守りたいものがここにあるから……。大好きな人がここにいるから……。そして、まだ出会っていない心の君に出会うまでは……。どんなことをしてでも生き延びる。必ず掴む。そして、いつかシュミッツ先生が言っていたような光になるんだ。憧れの光に……)

手の中のビー玉。彼はそっとそれを転がしてぶつける。その一つ一つに瞬間の思いが閉じ込められていた。その思いのすべてを強く握る。苦い思いでも悲しい思いでも何もかも……。手のひらに爪が食い込む。彼は少しだけ表情を歪めるとそれらを全部ポケットに入れた。それからしばらくの間、彼はぼんやりと景色を眺めていたが、ふと思いついて訊いた。
「ねえ、ギル。今日のお仕事はどうだった?」
車の中。バックシート越しに身を乗り出して訊く。
「上出来だ」
その答えに満足すると彼はポケットから一つだけビー玉を出した。そこに宿った闇を見て、彼はくすくすと笑った。

――ぼくはあなたを信じるよ、ギル

(成長した)
と、ギルフォートは思う。出会った頃とはまるで違う。
「ねえ、見て! ビー玉の仲にも鳥が映ってる」
微かに声変わりの兆候があった。が、ギルフォートから見れば、未だに彼は従順で愛らしいお人形に見えた。しかし、その人形に武器を与え、その使い方を教えたのは誰なのか。そして、取り返しのつかない彼の狂気を呼び覚ましてしまったのは……。

――ねえ、次は誰を殺す?

遠い空を横切って飛ぶ鳥の群れ……。

――ねえ、見て! 鳥がいっぱい!

(失くしたくないのはおれの方なのかもしれない……)

――強くなって守ってあげる

ふとハンドルに置いた手首に巻かれた時計に今日の日付が浮かぶ。
(Geburtstag)
ふと、バックミラーを覗くとルビーはビー玉を光に透かして微笑している。その無邪気な黒い瞳にきらりと光目が反射した。そして、その瞳の奥に罪の十字架が一瞬だけ閃く。
(それはおれの罪なのか? それとも……)
男は思う。が、ルビーは首を横に振った。

――ちがうよ。これはぼくの意志なんだ

そして告げる。

――ベートーヴェンは貴族に迎合したりしなかった。ショパンは最後まで誇りを捨てたりしなかった。だから、ぼくも自分の使命を果たそうと思う

「アインツ、ツバイ、ドライ……」
何気なく掲げたビー玉に後続の車が映った。その中に縮小された罠……。黒光りする銃口。迫り来る危険。しかし、狙われることには慣れていた。ルビーがおもちゃ箱の中からお気に入りの銃を取り出して笑う。ギルフォートがバックミラー越しに頷く。と同時にすっと窓ガラスが沈み、ルビーが開かれた窓からビー玉を放る。と同時に手にした銃が火を吹いた。一発、二発……。ビー玉が弾け、ダイヤモンドダストのような粉が散った。次の瞬間。彼らの車を追って来たワゴンは右の前輪と運転手を失ってバランスを失した。そして、急速に蛇行すると道路脇の側溝に突っ込んで炎上した。

ルビーはポケットの中からビー玉を掴み出すと、手のひらに並べて言った。
「アインツ ツバイ ドライ……。一つ足りなくなっちゃった。ねえ、また、ぼくに新しいビー玉を買ってくれる?」
「ああ。特別なワインとおまえの望む物を……」
「え? 本当に? いいの?」
ルビーはまだ熱の冷めない銃身を握ったままうれしそうに言った。
「ああ。今日はおまえの誕生日だから……」


Fin.