ダーク ピアニスト
〜練習曲6 ダーク レイン〜

Part 3 / 3


ギルフォートは大学の薬学第2研究室の前に来た。そこは、様々な実験が行われるラボの並んだ研究棟だ。入り口に監視カメラとID認証装置が設置されている。が、ギルは、機械の前に軽くIDカードをかざすだけで通行が許可された。彼はここの正式な研究員として認可されている。ただし、所属しているのは第6研究室だったのだが……。

第2研究室には鍵が掛かっていた。今は、丁度2コマ目の講義が行われている時間だ。当分戻っては来ないだろう。ギルは、小型の電子機器を使ってロックを解除すると中に入った。そして素早く書類や薬品のサンプルを回収すると、持って来た何かを薬品棚の幾つかに置いた。と、その時。
「そこで何をしている?」
ジーンだった。時計の針はまだ10分も経っていない。
「ちょっと忘れ物を取りに来ただけです。ゲートマン教授こそどうされたのですか? 今は講義中では?」
「私もね、ちょっとした忘れ物を思い出したんですよ。時折、君のように好奇心旺盛な学生がいろいろ嗅ぎまわる事があるものでね。後始末が大変なのだよ」
「後始末?」

「最もそういう積極的に実験に参加してくれる者達がいたからこそ、いい物が仕上がって行くという訳なのだが……しかも、それで危険分子も一気に片付けられるのだから一挙両得、しかも、すべては事故として処理出来るのだからこんないい商売はない訳だ」
男は薄気味の悪い笑みを浮かべた。
「饒舌だな。だが、過信は身を滅ぼす」
「滅びるのは君達の方さ。愚かな旧人類の末裔が……」
「何を言ってる? 頭がイカレてるのか?」
「イカレてるのは君の方だよ。君程の腕と頭があればもっと賢明な選択とて出来たろうに……」
と哀れんだ目で見つめる。痩せこけた頬にギョロついた目。肌の色は青白く白衣の白さと相まって不気味だ。

「では、認めるんだな? おまえが非合法の薬を精製し、故意に学生やそれを融通してくれと言って来た取引先に有害な紛い物の薬を大量に流した事」
「さあ、どうだったかな?」
とシラを切る。
「ふざけるな! その為に多くの犠牲者が出たんだ」
「世の中は弱肉強食。弱い者が淘汰されて行くのは自然界の掟。仕方なかろう。大体、世の中には不必要な人間が増え過ぎたのだ。だからこそ環境破壊や温暖化等の問題が起きる」
「勝手な事を……!」
「勝手だと? 何もわからぬ若造が……! 世の中に何も為さぬ無用な者を排斥するのが悪いと言うのか? この星には居住者として最も相応しい美しい人間が残ればいいのだ。無能な者や醜悪な者、枯れるしかない年寄りやハンディキャップスや知恵のない者、肌の色のくすんだ者に生き残る権利などない!」

「貴様だっていずれ老いるんだろうに……」
「私は老いる事などないのだ。私が今、研究している若返りの薬が完成すれば……ずっと美しいままでいられる」
「最も醜悪な心を持ったままでか?」
「うるさいっ! おまえなら、箱舟に乗せてやるに相応しい容姿と頭脳を持っているというのに……毒されたか! いつまでもくだらん人形遊びなんぞしているからだ! あんな汚れたアジアの血の入った人形の何処がいいんだ?」
「アジアの血……何故おまえがそれを言う?」
「あんな者は美しいおまえには相応しくない。望むなら、もっと白くて美しい人形を買ってやろう。だから、どうだ? いっしょに来ないかね?」
「断る」

「そうか。残念だが仕方がない。所詮は人形遣い。何処までも人形とあるか。なら、共に地獄に落ちるがいい!」
ジーンがポケットから取り出したナイフを投げた。ギルは身を捩ってかわす。と、ジーンは間髪を入れずに棚の引き出しからメスの束を掴んで次々と投げる。ギルは近くにあったトレイや本で受け、それを叩き落す。そして、机の影に入るとそこにあった椅子を思い切り蹴った。キャスターの付いた椅子は滑りがよくジーンに激突する。
「うううっ!」
怯んだジーンにギルは棚にあった本を投げつけ、視界をくらませた次の瞬間、パッと机を飛び越え、男を羽交い絞めにした。

「ウウッ! 放せ!」
男はもがくがその力はギルに及ばない。
「死にたくなかったら大人しくするんだな」
と銃を突きつける。
「ウグッ!」
男は歯噛みしたが、観念したように動きを止めた。一瞬だけ緊張が緩む。と、次の瞬間。男がギルのみぞおちを突いた。
「ウッ!」
不意を突かれてほんの一瞬拘束の手が緩む。男はニヤリと笑って近くにあった棚から液体の入った瓶を手にした。男はそれを思い切り床に投げつけた。瓶の中身はニトログリセリン……。爆発するのと同時に全ての棚の薬品が飛び散った。ギルは咄嗟に男を突き飛ばすとワゴンと棚で身を庇いながらドアを開けようとした。が、ロックが掛けられて開かない。

「おまえも道連れだ。このラボといっしょに……!」
炎の中で男が笑う。砕けたガラスに男の罅割れた顔と炎が揺れる。薬品の混ざり合った異臭が漂い、プツプツと燻った怨恨のように新たな爆発を呼ぶ。ギルはピストルでドアのロックを撃ち抜き、そのドアを蹴破って外に出た。と、通路を左に飛んで、新たな爆発に備えて身を伏せる。
同時に大爆発。建物が大きく揺れた。
そして、非常ベルがけたたましく鳴り響く中をギルは一気に駆け抜けて表に出た。爆発はまだ続いている。が、最初に比べればその規模は小さい。建物全体が崩れるような事はないだろう。元々研究施設用として造られたこの建物は、普通の建築物よりかなり頑丈に出来ていた。

「くそっ! 何てこった!」
せっかく集めた証拠品も書類も全てあの中に置いて来てしまった。元より、その張本人ごと失くしてしまったのは痛かった。どのみち奴は始末するつもりではあったのだが、出来れば、もっと確たる証拠を握っておきたかったのだ。もっとも、そうさせまいと奴は自滅したのかもしれないが……。『レッドウルフ』という巨大な組織の中では、ジーン ゲートマンなど、ただの捨て駒でしかないのだから……。
(それにしても、人形だって……? 奴は、ルビーの事を知っていたのか……?」
急速に不安が渦巻いた。

爆発騒ぎで学生や職員が右往左往している中で、彼はひたすら出口を目指した。が、外に出るまでは本館を抜け、二つの大きな建物を越えて行かねばならない。研究棟は、キャンパスの一番奥にあったからだ。遠くでサイレンの音が響いている。それがだんだんこちらに向かって大きくなる。恐らく誰かの通報でここを目指しているのだろう。

本館の向こう側の建物からはほとんど研究棟は見えない。が、学生達は自分達のおしゃべりに夢中で何が起きたのかわかっていない。あれ程の爆発音がして、空に煙が立ち上っているというのに、何か雰囲気が妙な気がした。しかし、今の彼にとってはそんな事よりルビーだった。ギルは走りながら携帯を取り出し、彼に連絡を取ろうとした。と、その時。

「君! 確かギルフォート グレイス君だったね」
突然声を掛けて来た者がいた。でっぷり太った温厚そうな中年の紳士だった。
「あなたは、確か……エルトン スミス教授……」
それは、この大学の看板教授。誰もが彼の講義を受けたがり、誰もが彼の真似をしたがるという抜群のセンスと知性を兼ね備えた人物である。が、ギルフォートは彼の講義は受けていない。彼も心理学を修めている以上、スミスの著作は何冊も読破し、その興味深い洞察と理論には敬服していた。出来る事なら、彼の講義を受けてみたいとさえ思っている。そんな憧れの教授から声を掛けられたのだ。

スミスはニコニコと親し気な微笑を浮かべて近づいて来た。
「君の論文読ませてもらったよ」
「論文ですか?」
「2年前、君がパリ大学にいた頃に書いた『人の進化と覚醒』についてのあれだよ。いやあ、なかなか興味深く読ませてもらった。出来れば、直接会って君の考えを聞かせてもらいたいと願っていたんだ」
「光栄です。スミス教授」
彼は恐縮した。
「その君が何とウチの大学に来ているとは……。正に運命を感じるね。こんなに早く出会えるとは……。それで、どうだね? 今、私は空き時間なんだが……。すぐに教授室まで来てもらえないだろうか?」
「でも……」

ギルは、本館の向こうの騒ぎを気にしていた。それに、今は一刻も早く戻りたかった。だが、教授は彼の腕を掴んで言った。
「ぜひ、君に見てもらいたい物があるんだ。いいだろう? 手間は取らせないよ。それに、私もなかなか忙しい身なものでね、滅多に空いた時間が取れないんだ。今を逃せば、次があるかどうかもわからない。どうだ? 来てくれるだろう? グレイス君」
「はあ……」
スミスの強引さにギルは仕方なく同意した。

消防車や救急車、人々が騒然としている中を悠々と抜け、同じキャンパスとは思えない程静かな教授室に来た。

「ちょっと散らかっているが我慢してくれ。ああ、そこらの本に躓かないように気をつけて」
教授が言うように彼の部屋は本だらけだった。机といわず床といわずあらゆる所に本が積まれ、僅かに人が通れるだけのスペースが辛うじて空いている。教授は奥の机の前に来ると彼に椅子を勧めた。そして、自分も向かいの椅子に座る。

「君の持論ね。人間の持つシックスセンスの大規模な覚醒という理論だがね。私は覚醒に感情の爆発や衝撃が必要だという君の意見は、ちと強引過ぎるのではないかと思うんだ」

「強引? いえ、それは、一つの可能性に過ぎません。ただ、潜在能力の目覚めに対して、それらの要因が少なからず関与しているのではないかと仮定しただけです。現に、自分はそういう事例を知っています。しかし、同時に、似たようなケースでもそれが起こらない場合もありますし、その感受性はその個体においても差異があります。全てが当てはまるものではありません」

「ふむ」
スミスは机の上で手を組み、熱心に聞いていた。が、僅かに眉を上げて言った。

「だが、人は自然と進化するものだ。そして、自然に進化した者こそ真の進化を遂げた良種であり、人為的な刺激により無理矢理覚醒させられた能力など、汚い憎しみのエネルギーでしかない。それを社会に放出する事は即ちこの世界を汚す事に他ならない。つまり、所詮は劣っている者の悪あがきでしかないという訳だ。

品質の良い種を残す為には、人ももっと努力すべきだ。花も果物もそうだろう。大きくてきれいな花を咲かせ、品質の良い実を実らせる為には選らなければならない。動物も植物も皆そうして強く選ばれたものだけがこの世を謳歌する事が許されるというのに、人間だけが全ての者と同列に生きなければならない。

そんな馬鹿げた事をしているから、本来享受されるべき物が与えられず、何もかもが不足し、環境は破壊され、真理さえも踏み躙られて行く。そんな事が許されていいのか?

いいや。否! だ。

我々健全な肉体を持ち、知性と教養、それに美を兼ね備えた人間のみが大地の恵みを受ける権利があるのだ。

人は淘汰されねばならない。そしてここに来て、また人は進化の兆しを見せ始めた。それが君の言うところの覚醒だ。が、それはあくまで自然に際しておかねばならない。ましてや生きるに値しない者達の覚醒など、許す訳にはいかんだろう。

彼らは劣っているのだ。その有用な能力をくだらない事に使いかねない。連中には知恵がないのだからな。そういう覚醒は無意味だ。いらぬ者なのだ。そういう者が将来の危険分子に成りかねない。もし、そういう者があるなら、見つけ次第抹殺しなければならない。わかるね?」

「社会進化論ですか? 適者生存の原理なんていったところで、誰がそれを線引きするのですか? 神でさえも難解なこの問題をあなたには解けるとおっしゃるのですか? スペンサーもゴールトンも所詮は愚かな人間として過ちを犯した。あなたもまた、彼らと同じ愚を侵そうというのですか?」
「黙りなさい。失礼だろう? 愚を犯しているのは、君を含め、現存する人類の方なのだよ」
「どういう意味ですか?」
「君は、愚かな人間とそうでない人間の区別がつかないと言うが、そんな事は簡単だ。誰が見ても明らかじゃないか」
「は?」
ギルフォートは、まざまざとエルトン スミスの顔を見つめた。自分の、いや、多くの心理学を学ぶ者の尊敬と憧れを一身に集めて来た者の正体を……。その肉付きのいい厚顔に狂気を浮かべた彼は、恥じらいもなく結論を口にした。
「即ち、我らアングロサクソン系が最も美しく、優れているのは明白なのだからな」

「心外ですね。あなたが優生論者だったなんて……」
ギルは心から落胆し、侮蔑を込めた目で睨んだ。
「何を言うか! 真理が何たるかも理解出来ぬひよっ子風情が……!」
「理解していますとも。おれは、おれが信じる正義の為に生きているのです。その為なら、あえて人間を善と悪とに分ける事もする。たとえ、それが神の領域を侵す事になろうとも……。ただしそれは、単に肌の色が白いからだとか、IQが高いとかの問題じゃない。真理はあなたが考えているより、もっとずっと複雑でかつ奥深い所にあるのです。おれは、そういう例をたくさん見て来た。だから、おれは、おれの正義で戦うまでです」
「ほう。なら、もっと具体的な話をしよう」
男は脂ぎったその顔に笑みを浮かべた。
「それは、どういう意味ですか?」
スミスは意地悪い瞳で彼を見た。そして、両手を組み直し、唇の端を微かに上げて言う。

「では、訊こう。君は風の能力者かね?」
「いいえ」
ギルは否定した。
「そうだ。君は風の能力者ではない。だが、もしも君の理論が正しいと言うならば、精神に強い衝撃を与える事によりその能力が覚醒するかもしれない。そうだろう?」
「それは……。確率的には0ではないでしょう。しかし、自分にその資質があるとは思えません。おれには闇の風など見えません。目覚めるなら、とっくにそうなっていた筈です。でも、そうはならなかった……!」
ギルは苦々しく言った。決して自分はその能力を望んだ訳ではない。だが、もしその闇が見えていたなら、人生や物の見方が随分変わっただろうと考えたのだ。彼は、弟を思い、ルビーを思っていた。

「それにもし教授がおっしゃるように、強制的覚醒による能力の発動が人の進化とは認められない悪しきものだと言うなら、今、自分が目覚めたとしても、それは悪しき力なのではありませんか?」
「その通りだ。だが、私は見てみたいのだよ。君が提唱する理論が正しいのかどうかをね」
スミスは身を乗り出して言った。
「どういう意味ですか?」
ギルフォートは彼の意図をはかり切れずに訊いた。
「今、ここで君に想定しきれない程の精神攻撃を与えたらどうする? 君は目覚めるだろうか?」
「無理ですね。おれは、そんなものには動じない」
そうきっぱり言い放つ彼を見て、スミスはニヤリと笑んだ。
「果たしてどうかな? これを見たまえ」
スミスの後ろの背景がスクリーンになる。そして、そこに映し出されていた物……それは見慣れた1軒の家だった。

「これは……! まさか、おれの……!」
「そうだ。今、君の目の前でこれを破壊する」
「何だって!」

――ギル

一瞬浮かんだルビーの顔が歪んで泣き顔になる。
「この中には、君の大事なお人形がいるそうだね? そう。その人形を破壊したらどうだね? それでも動じずにいられるか? もっともあんな人形の1つや2つ壊れてもどうってことないかな? あんな出来損ないの人形など……」
男はそう言って笑うと机上にあった紙をペリペリと剥がして丸め、わざとらしくゴミ箱に捨てた。

「獣め……!」
ギルは吐き捨てるように言うと男を睨んだ。
「そう! その目だよ。獲物を狙う狼の瞳。銀狼……。人形遣いなんて名よりずっと君に相応しい……」
「何が心理学の権威だ。このアカ野郎が……! そうか……貴様が『ヘビーダック』、『レッドウルフ』の最高幹部の……!」
その言葉にスミスは笑う。
「その通り。この大学は丸ごと私の支配下にある。私の命令一つで、ここの学生なら皆喜んで命さえ捨てるだろう」
「何て事を……!」
ギルフォートは歯噛みした。

「君も運がなかったね。それともジェラードに見捨てられたか? この『レッドウルフ』の本拠地にたった一人で飛び込ませようとは……いくら君が優れたスナイパーでも1万人は相手に出来ないだろう?」
「1万人……」
「そうさ。まさしく特別な能力でも覚醒しない限り、ここから生きて出るのは不可能だ。どうだ? 最高のシチュエーションだろう?」
「くっ……!」
僅かに開いたドアの隙間から学生達がひしめいているのがわかる。皆、手に鉄パイプ等の武器を持ち、薄気味の悪い笑みを浮かべている。それは窓の外にもいた。恐らくこの建物全体が囲まれているのだろう。そして、正面のモニターだ。2階の窓から人影が覗く。ルビーだ。

(逃げろ!)
届かないと知りながら彼は心の中で叫んだ。

――逃げろ!

「そうそう。念のため言っておくけどね、あのお人形ちゃんの能力ではこの爆発を防ぐ事は出来ないよ。彼の限界値は計算されている。万が一の為を思ってその10倍の火薬を仕込んでおいた」
「何だって?」
「奇跡はないと言ったんだ。それでは、実験スタートと行こうか?」
言うのと同時に男の手が起爆スイッチのボタンに触れた。すかさずギルフォートが飛び掛かってその手を押さえる。
「やめろ!」
が、無情にもモニターの中では瞬時に爆発が起きていた。

「ルビーッ!」

冷たい石の壁が無残に崩れ、濛々とした煙と炎が上がっている。火花が散って引火し、更に爆発が続く。
「貴様っ……!」
握った拳銃が熱い。
「どうやら実験は失敗だったようだね。君は覚醒しなかった。だが、どうしたんだい? いつも沈着冷静な筈の君がやけに熱くなってるじゃないか。いけないな。勝負事は冷静さを欠いた方の負けだよ」
「うるさいっ! 黙れっ!」
「ははは。愛していたのかい? あんなアジアの血の混じった出来損ないの人形を……」
「殺してやる……!」
ギルフォートは憎しみを込めてトリガーを引いた。外す筈のない至近距離だった。が、弾丸は逸れて彼の背後の床にめり込んだ。何度やっても同じだった。
「馬鹿な……!」
男の周囲には風のシールドが張られていたのだ。

「貴様も風の能力者だったのか! なら、どうしてだ? 何故、同じ能力者のルビーを……!」
「同じだって? 汚らわしい! 奴の目は何色だ? 奴の髪は? 肌の色は? 知恵も持てない愚か者とこの私が同じだとでも言うのか?」
怒りを露わにして叫ぶ。が、ギルフォートも負けずに叫んだ。
「ああ。同じじゃないさ! ルビーの方が貴様より何倍も賢いからな!」
「口が過ぎるぞ! このひよっ子め! ちょっと見てくれがいいからと甘い顔をすればつけ上がりおって……! 構わん! こいつを八つ裂きにしろ!」
スミスが叫んだ。と同時にドアが開き、学生達がなだれ込んで来る。

「くそっ! こいつら、洗脳でもされているのか!」
次々と襲い掛かって来る人間を殴り、蹴り飛ばし、本棚を盾にして応戦する。が、多勢に無勢、このままでは埒が明かない。いちいち銃で応戦していたのではとても持たない。ギルは手当たり次第掴んだ物を彼らに投げつけた。
(くそっ! こんな事なら機関銃でも持って来るんだったな)
と思った時だった。ダダダダッと連射音が響いた。キャーキャーと悲鳴を上げながら若者達が散って行く。
「おーら、どけどけ! 死にたくない奴は道を開けろ!」
いかつい銃を構え、凄みをきかせて駆けつけて来たのはブライアン リースだった。

「ギル! 無事か?」
あっと言う間に蹴散らして彼の近くに来た。
「ああ。すまん。おれは無事だ」
「おれは?」
一瞬怪訝そうな顔をするが、考えている暇はない。しつこく襲って来る連中をそのでかい銃でぶちのめし、二人は窓を突き破って外へ出た。
「強行突破だ! 行くぞ!」
着地すると同時にブライアンは連射しまくって道を作った。ギルも背後を狙って来る連中を素手で倒して進む。そして、二人はようやくブライアンが用意した車まで辿り着いた。そして、ドアを開けるのももどかしく飛び乗ると同時に猛スピードで発進した。


「頼む。サンセットストリートまで行ってくれ! マークアベニューの23番地だ。急いでくれ!」
ギルフォートが叫んだ。
「わかった。しっかり掴まってろよ。ぶっ飛ばすぜ!」
言葉の通り、車は強引な方向転換をすると猛スピードでカーブを曲がり、標識を無視して現場に急いだ。

「すまない。この借りは必ず返す」
とギルが言った。
「そうだな。長生きしてたらそんな機会もあるかもな」
とブライアンが返す。
「それにしても無茶な奴だな。一人で奴の懐に突っ込んで行くなんて……」
「おれの目的はジーンだった。まさか『ヘビーダック』が出て来るとは思わなかったんだ」
「忠告したろう? 気をつけろとな」
「……あの時、わかってて準備してたのか?」
「まあな」
「……なら、何故マークアベニューへ行ってくれなかったんだ?」
「ルビーか? だが、危険はおまえの方に迫っていたんだぜ。おれが駆けつけなかったらどうなってたと思う?」
「わからんさ。でも……おれは、奴を……」
「ギル……」
サイレンの音が大きくなった。背後から警察の車が追い掛けて来る。チッ! と小さく舌打ちすると、ブライアンはさらに加速してパトカーを引き離した。


「何だ? この騒ぎは……」
マークアベニューは大騒ぎだった。消防車にパトカー、救急車、それにマスコミ、一般の野次馬でごった返している。ギルはドアを開けると、その中へ飛び出して行った。
「おい! 待てよ、ギル!」
慌てて後を追おうとするブライアンを警備員が止めた。
「ああ、ダメダメ! そこから先は危険だからね」
「危険? 一体何があったんです?」
「爆発さ。家が崩れて木っ端微塵さ」
「爆発? まさか、それって23番地の……」
「ああ、そうさ。何だ、知り合いかい?」
「友人が……今、その家を訪ねようとしてたんですよ」
「そいつは気の毒に……」
と警備員は首を竦める。
「それで? 中にいた人は?」
「わからん。今のところ生存者は見つかっていないらしい。幸い、両隣の家が留守でね。それぞれ半壊したが人的被害は出なかったんだ」
「でも、そこに人がいた筈なんです」
と突っ込んで訊いたが、その警備員はそれ以上の情報を持ち合わせていなかった。


「ルビー!」
ギルフォートは崩れた家のすぐ前まで来た。
「ルビー!」
「危険だ! それ以上近づいてはいけない!」
警察官に止められた。
「放してくれ! 中に人がいるんだ!」
「この家の人ですか?」
「ええ。中に人がいるんです。通して下さい!」
「残念だがこの家の周辺に生命反応はないそうだ。また、誰か家の者が外に出た形跡もない」
「そんな……! もう一度よく探して下さい! ルビーが、あいつが死ぬ筈がないんだ!」
「気持ちはわかるが君……あ! 待ちたまえ! 君!」
制止を振り切って彼は瓦礫の中へ入って行った。

と、その時。
「おーい! 人がいるぞ。ベッドと壁の隙間に挟まってる」
向こうで誰かが叫んだ。
「ルビー!」
何人かの消防隊員と共にギルもそちらに向かう。
「生きてるのか?」
「呼び掛けには反応がないが、微かに生命反応が出てる」
「ようし! 助けるぞ」
彼らは一丸となって瓦礫をどかし、何とか彼を救い出す事に成功した。

「ルビー……」
しかし、彼は意識を失ったままぐったりしていた。身体のあちこちにガラスや砕けた壁の破片等で傷を負っている。服の何箇所かが燃え、火傷も酷かった。
「ルビー!」
ギルは彼を抱き起こすと何度も名前を呼んだ。すると、微かに唇が動いて言葉を発した。
「ギ…ル……?」
「ああ。おれだよ。ギルだ」
「よかった……あなたが無事で……ごめんなさ…い……僕、シールド張ったんだけ…ど……間に…合わなく…て……」
呼吸が荒かった。彼はじっと目を閉じたまま唇を動かす。
「それに……」
伸ばし掛けた手が止まる。その手にしっかりと握られた何かを胸に当てて呼吸を整えている。ギルフォートは待った。気が遠くなるような一瞬の時間を……。

「それとね」
一言ずつ息を吸うように言った。
「……ギルのオムレツ……食べ損ね…た……」
微かに微笑んで言ったのは他愛のない事だった。が、それだけに胸が詰まった。
「そんな物……後でいくらでも食べさせてやるよ」
「本当……?」
「ああ……」
「ありがと…う……」
「ルビー……?」
重さをまるで感じない。抗う事もしない。光のような笑顔も透き通るような歌声も、彼が弾くピアノの愛と幻想に満ちたメロディーも、今はもう、何も聞こえない。美しい羽は傷付いて飛べない……。殻を破れずに死んでしまった蝶のように、彼はまるで身動きしなかった。一瞬の静寂が絶望に思えた。開かない瞳。動かない唇……まるで人形のように……閉ざされていた。

「ナイン……!」
感情が声を遮った。
(頼む。逝かないでくれ。失いたくないんだ。だから、ミヒャエルのように逝かないでくれ……おれを置いて……)
「……逝くな……!」
搾り出すのと同時に溢れた感情が彼の緑色の瞳から落ちてルビーの頬に当たった。
「……雨が……」
ルビーの唇が再び動いて何か言おうとしている。ギルフォートはそっと口元に耳を近づけた。
「雨が降ってるの……?」
弱々しい声だった。
「ああ……」
次から次へと流れ落ちるそれがルビーの頬に伝う。
「本当に……ロンドンは、雨が……多い…ね……」
「そうだな……」
「でも、僕、知らなかったよ……ロンドンの雨って……とっても……あ…たたか…んだ…ね……」
そこで、彼の意識は完全に途切れた。固く握り締めていた彼の手から卵が転がる。
「……!」

――本当に大切なものが何なのかなんて誰にもわからないよ

「ルビー……!」

――本当に善い事が何で、本当に悪い事が何なのかなんてさ……本当は誰も知らないんだ

「ル…ビー……」

――僕ね、もう一度生まれ変わって、そして……

雑踏とサイレンと過去の言葉が交錯する。

――ギル……好きだよ
――お兄ちゃんが好き!
――大好き!

塵埃に咽ぶ霧で薄められた陽射しの中で、彼は、闇の雨をいつまでも流し続けた……。

TO BE CONTINUED