ダーク ピアニスト
〜練習曲5 幻想の螺旋〜

Part 1 / 3


「ルビー! こっちよ。早くしないと始まっちゃう」
エスタレーゼが焦って呼んだ。
「僕はどっちでもよかったんだけどね。こんなコンサート。どうせ退屈するに決まってるもの」
彼は不機嫌そうにぶつぶつ言いながらホールの階段を降りて来た。

「あら、だって、今日はオールショパンのプログラムなのよ。しかも、ピアニストはこの間のコンクールで優勝したフリードリッヒ・バウメンだし……。きっと素晴らしい演奏が聴けてよ」
「そうかなあ?」
「そうよ! チケット取るの大変だったんだから……。それに、ルビーだってショパンは好きでしょう?」
「好きだよ。でも、違うんだよ、みんな……何か違うんだもの。それに、名前が気に入らないよ。よりによって父様と同じフリードリッヒだなんて……」
「あら、ショパンだってファーストネームはフレデリックじゃない」
「そうだけど……全然違うよ。ショパンと父様とは……」

席に着いてもまだ口の中で何やら呟いている。そんな彼らの様子を隣の席から眼鏡の青年が見つめていた。まだ若いのに眉間に皺を寄せ、いかにも神経質そうな様子でこちらを注視している。

「ねえ、ルビー、隣の人、何処かで見たような顔だと思わない?」
エスタレーゼが耳元で囁く。
「え?」
パンフレットをガサガサと折り曲げて飛行機を作っていたルビーがそちらを見た。男はほんの少しだけ気まずそうに、それでも、演奏中に音を立てられては叶わないという非難の目で見つめた。ルビーは、ああと頷いて、出来上がった飛行機を片手に持つとにっこり笑う。男は、軽く咳払いをして静かにするようにと指で合図するとステージの方を見た。開演のベルが鳴り、幕が上がって行くのが見えた。

「わかった。彼、カール・クリンゲルよ。ほら、若手の音楽評論家の……」
「へえ。そうなの?」
見ると、カールはプログラムに目を通していた。言われてみれば、そういう雰囲気の人間だとは思ったが、ルビーはその人物を知らなかった。
「ねえ、すごいわね。他にもたくさん有名人が来てるわよ」
エスタレーゼが囁く。
「興味ないよ。それに、もうすぐ始まる。静かにしないとまた、隣のカールおじさんに睨まれちゃうよ」
そう言って彼はくくっと笑う。次の瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。ピアニストが出て来たのだ。フリードリッヒ・バウメンは、背の高い筋肉質の男で、やや長めの金髪と青い瞳。見た目も美しい彼はコンクール以降すっかりクラシック界の人気者になっていた。

ファン層は女性が中心で、グッズもいろいろ発売されている。彼のファンだったエスタレーゼはロビーで写真入りのストラップやハンカチ等を買っていて席に着くのがギリギリになってしまったのだ。そんな彼女は、皆といっしょに夢中で拍手している。
ルビーは適当に手を叩きながらカールを見た。彼はこれから始まる演奏を一音たりとも聞き逃すまいと身を乗り出している。

ルビーはのんびりと欠伸すると背もたれに寄り掛かった。そして、しんとした会場とそのステージを薄目で覗く。フリードリッヒは目を瞑り、精神を集中すると、最初の曲を弾き出した。ルビーは一瞬だけ注目したが、すぐに目を閉じ、眠りに落ちた。意識は過去と幻想の間に捕らえられ、微かに呻いた声さえも緞帳の影に呑まれて消えた。


――ねえ、あなた。フリードリッヒ! 見て! ルイがピアノを弾いているの
うれしそうな声で母が言った。
――これは、ショパンのワルツじゃないか。美羽(みわ)、君が教えたのかい?
――いいえ。何も教えたりしてないわ。ルイが自分で弾いてるの。この子には、ピアノの才能があるんじゃないかしら? きっとピアニストであるあなたの才能を受け継いだのよ
――この子は天才だ。私の宝だ
父と母との会話……。
――私の宝だ

父に褒められて、どれ程うれしかったことか。それまで何一つ満足に出来ず、親戚からも蔑まされて来た。自分のために母は嫌みを言われ、物陰でこっそり涙を拭っていることもあった。そんな母を庇いたくて彼が何か言う度、発音がおかしいと、仕草が普通じゃないとまた笑われた。小学校に入学してからも尚、アルファベートが読めないと、数が数えられないと、級友からもからかわれ、ルイはいつも独りぼっちで人形と遊んだ。

「ルートビッヒ。遊ぶんなら、そんな人形じゃなく、人間の友達と遊びなさい」
父が言った。
「でも……」
彼は涙をこらえ、父に取り上げられた人形を見つめた。
「あなた……。ルイだって本当はお友達と遊びたいんです。でも、みんな、他の子とばかり遊んで……。せっかくアンナちゃんが迎えに来てくれてもすぐに他の子に連れて行かれてしまって……」
母はいつもルイを庇った。しかし、そんな母の言葉を父は信じてくれなかった。
「ルイが引っ込み思案なのがいけないんだろう。ルートビッヒ。いくらハンディを持っていても、これからはもっと積極的にならなくてはいけない。ほら、おいで」
父は無理に彼の腕を掴んで立たせようとした。
「いやだよ! 父様、やめて! 痛いよ! やめて! 苦しいの。ぼくは本当に……。お願い。助けて……」
父が何か言う度に呼吸が苦しく、胸が痛くなった。その頃の彼にとっては、身体も大きく絶対的な力を持った父が恐ろしかった。

しかし、そんな父もピアノを弾く彼の前ではやさしくしてくれた。
「そうだ。いいぞ。指はこうだ。こんな風に指を丸めてくぐすんだ」
が、そんな父の機嫌を損ねたのも彼自身だった。
「知ってるよ、そんなの! だから、ぼくにいちいちうるさい事言うのはやめろ!」
「何?」
父親の顔色が変わり、頬が引き攣って行くのを感じた。それでもルイは意見を言うことをやめなかった。
「父様のピアノはぼくのとはちがう。ぼくは、本物のピアニストになりたいんだ」
「おまえは……私がまがいもののピアニストだとでも言いたいのか?」
「ちがうの? ぼくにはそうとしか思えない。だって、父様は、いつも技巧でごまかしてばかりいるんだもの。特にショパンの曲はそんな風に弾いちゃいけないんだ。装飾ばかりが派手で、まるで心に響かない音、きっとショパンだって嫌いだって言うよ。もっと心の深いところに眠る悲しみと、そこにみなぎる情熱を……彼はピアノに託したんだから……」
「おまえに……子どものおまえに何がわかる? 知った風なことを言うな!」
平手で叩かれ、ルイはピアノの椅子から転げ落ちた。

「あなた! やめて下さい! ルイはまだ子供なのよ」
慌てて駆け付けた母が父を諫める。
「ルイもどうしたって言うの? お父様にお謝りなさい」
母が厳しく窘める。しかし、ルイは譲らなかった。子供とは思えない強情な目で父を見上げる。普段の彼は素直なやさしい子供だった。が、一度ピアノの事、特にショパンの事になると絶対的な拘りを持っていた。6才の時、初めてピアノを弾いた時から、彼の中で何かが目覚め、自ら荒波へと飛び込んで行った。それは、あたかも運命に抵抗し、それを変えようともがいている一個の魂のように……。

――ルイ
誰かが呼んだ。
「ルイ? 聞いているのですか? ルートビッヒ・シュレイダー!」
女教師の甲高い声が彼を呼んでいた。
「はい」
ルイは慌てて飛び起きて教師の方を見る。
「ルートビッヒ、あなたは、目を開けたまま眠っていたんですか?」
級友達がドッと笑う。
「いいえ。ぼくは見ていたんです」
ルイは真面目に言った。

「見ていた? 何を見ていたのですか?」
「白い幻想の霧に包まれた螺旋階段をです。そこには伝説の美しい蝶がいて、ぼくを時の向こうへ案内してくれるんです。そこには、うんときれいな緑があって、馬車や美しい女の人がいて、それから、古いピアノが……」
「よろしい! そのお話は放課後にでもゆっくり聞きましょう。でも、今は国語の時間です。さあ、このカードには何て書いてありますか?」
先生が掲げた大きな紙には太いマジックでアルファベートの単語が書かれていた。
「えーと……その……チョウチョ……」
しどろもどろに答えた彼の言葉で、また、ドッと笑いが起きる。先生は少しため息をついて言った。

「ヒントは食べ物です。ルイもきっと大好きだと思いますよ」
「ぼくが大好きな物? じゃ、きっとイチゴだ! ぼくね、イチゴが大好きなの! イチゴ味のキャンディーも好きなの。それに、イチゴ味のチョコレートと、それにイチゴ牛乳!」
ルイはうれしそうだったが先生は呆れて言った。
「はい! そこまででよろしい! あなたの好きな物は充分わかりました。でも、先生が訊いたのは、このカードに書かれた物の名前の事です。もう一つヒントを出しましょうね。これは赤い色をしています。さあ、どうですか?」
「赤? それじゃ、やっぱりイチゴだ! 先生、イチゴも赤いでしょう?」
彼は笑顔で言う。
「そうですね。でも、これはもっと違う物の名前です。Aから始まる言葉ですよ」
先生はいろいろなヒントをくれたが、結局ルイには理解出来なかった。授業が終わり、休み時間になるとみんなが彼をからかった。

「これが何だかわかりますか? ルートビッヒ君。ヒントはAから始まる文字ですよ」
体格のいい男の子が先生の真似をしてプラスチックで出来た教材用の赤いリンゴを突き出して言った。
「わかりますか? ルートビッヒ君。これはアップフェル。リンゴって言うんだよ。君、リンゴを食べた事ないんですか?」
別の子も来て言う。
「ほほほ。ルイの家は金持ちだから、そんな庶民の食べ物なんてお口に合いませんことよ」
年上の子が裏声でからかう。
「ちがう! ぼくだってちゃんと知ってるんだ。アップフェルの木だって見たことあるし、家にはいつも果物のお皿にきれいな赤いリンゴがのってるんだ。ぼく、ちゃんと知ってるのに……!」
ルイは反論した。が、誰も彼の言うことなど聞いていなかった。

「それっ! やっちゃえ! リンゴ爆弾だ」
誰かが教材を投げつけた。それを合図に他の子供達も次々と籠の中のリンゴを掴み出してはルイに向かって投げつけた。
「やめて! やめてよ」
ばらばらと落ちて行く小さな赤いリンゴ達……当たっても差程痛い訳ではなかったが、ルイは自分の体に当たっては転がり落ちて行くリンゴを見ているうちにだんだん悲しくなって来た。
「お願い! やめて」
(リンゴ達がかわいそうだ)
ルイはとうとう泣き出した。

「あなた達、何してるの? ルイをいじめちゃダメでしょ?」
アンナが来て庇ってくれた。男の子達は舌打ちすると文句を言いながら立ち去ったが、彼はいつまでも泣いていた。
「さあ、立って。次は運動の時間でしょ? 体操服に着替えなきゃ……」
「アンナもいっしょに行ける?」
「ううん。ルイとはもう違うクラスになってしまったから……」
「どうして? ぼくがバカだから?」
「ううん。違うの」
「なら、どうして?」
「えーと、それはね……」
答えに窮しているアンナにゲルトが言った。

「バカだからに決まってるじゃないか。もう2年も勉強してるのに、こいつはまだアルファベートの最初の3文字さえわからないんだぜ。何でこんな奴といっしょに勉強しなきゃならないのかわかんないね。こいつ、バカだし、走れないし、言ってる事もやってる事もみんなおかしいんだ。こんな奴と遊んでるとバカが伝染するぞ。来いよ、アンナ。こいつはおれ達とは違うんだ」
「ゲルト! 酷いわ、そんな言い方。ルイだってがんばってるのよ。家では家庭教師の先生やリハビリの先生が来て毎日教えてくれるんだって。だから、前よりずっと早く走れるようになって来たんだから……」
「でも、こいつが入ったチームはいつも負けちゃうじゃないか! ルイなんかいなけりゃいいんだ!」
「それ、どういう事?」
ルイが訊いた。

「ぼくが邪魔だっていう事? ぼくなんかいない方がよかったの?」
床にへたり込んだまま涙を流す。
「ルイ……」
アンナが慌てて何か言おうとしたが、それを阻止してゲルトが言った。
「そうだよ! おまえなんか邪魔だ! いつもおれ達の足を引っ張ってばかりいるんだ。はっきり言って邪魔だし、おまえ見てるとムカムカする! 嫌いだよ! おまえなんか、消えちゃえ! そんな風に人に迷惑掛けるだけなら生まれて来なきゃよかったんだ!」
――生まれて来なければ……
ゲルトが投げつけた筆箱の蓋が開いて、鉛筆や消しゴムがルイに当たって床に散らばる。アンナが怒って何かを言って、他の子供達はおもしろがってそれを見ていた。ルイは、ただぼんやりとそんな情景を眺めていた。何も感じていなかった。感じていないのに涙が頬を伝わって握り締めた手や洋服や床を濡らした。

――生まれて来なければ……

(本当に、そうならよかったのかもしれない……)
ホールの座席に座ったまま、ルビーは固く拳を握った。
遠くでピアノが鳴っていた。しかしそれは、まるで機械仕掛けのようにただ正確で無機質な音が連なっているに過ぎない。
積み木のようだとルビーは思った。かつて、高く高くと彼が一生懸命積んだ積み木をいとも簡単に破壊し、崩してしまったのは誰? 積んだ側から崩れて行く積み木の中で、泣いてるルイを嘲笑ったのは彼ら……。口汚い言葉で人を傷つけても平気でいられるふてぶてしさと見下した目………。彼らの何処をもって何を思って自分より優れていると、ルイの方が劣っていると彼らが主張するのか、彼には理解出来なかった。

(彼らの上に喜びや悲しみがあるように、僕にだって平等にそれはあるんだ。僕だって同じように感じ、夢を見るんだ。それの何処がいけないと言うの? 人間は、それ程までに同じでなければならないの? 僕が僕でいてはいけないの? 確かに、僕は他の子に比べたら少し違っていたのかもしれない……。でも、それが、どうしていけないの? それは悪い事なの? どうして僕が悪い子だと母様が泣かなくちゃいけないの? どうして肌の色が違うだけで差別されなきゃいけないの? どうして……? どうし……)
考えているうちに彼は再び眠りに落ちた。

――坊ちゃま。いけません。早くお着替えになって下さいまし

いつもやさしくしてくれたマリアンテ……。シュレイダー家に勤めていた家政婦の中では唯一肌の黒い人だった。
彼女は明るく包容力があった。彼女は好奇心が強く、努力家でもあった。それで、ルイの世話係りの一人に抜擢されたのだ。ルイは発達障害があった為、人の手が必要だったのだ。勉強や運動の事については、それぞれ専門の教師が訪問して来たし、学校の送り迎え等は運転手がいた。

マリアンテが担当していたのは、彼の身の回りの世話だった。他には、ちょっとした空き時間に相手をしたり、本を読んで聞かせたりもした。
加えて、彼女の興味もあって時間のある時にはルイの母から日本語を教えてもらいながら、三人で秘密のお茶会を催した。その時は、日本語のおしゃべりで盛り上がっていつも楽しかった。
ルイはマリアンテの事が好きだった。

「それで? その子達はどうしたの? そんなに戦争ばかりしていたら学校にだって行けないでしょう?」
マリアンテの故郷の話を聞いてルイは疑問に思った。彼女が生まれ育った国は貧しく、テロや戦争ばかりしていたと言うのだ。
「みんな、死にました」
沈痛な面持ちでマリアンテが言った。
「みんな? どうして? その子達はみんな悪い子だったの?」
「いいえ。ちっとも悪い子なんかいませんでした」
「なら、どうして?」
「さあ? どうしてでしょうね」
彼女は顔を背けたが、ルイはじっと彼女を見つめて言った。

「肌の色が違うから?」
「坊ちゃま……」
彼女は驚いて小さな主人の顔を覗き込んだ。
「ぼく、知ってるよ。みんながマリアンテのこと陰で悪く言ってるの。マリアンテはちっとも悪くないのに……。マリアンテは何でも知っていて、何でも出来て、いっぱい魅力を持ってる人なのに……肌が黒いって理由だけであなたを悪く言うんだ。そして、彼らは、ぼくやぼくの母様の事も悪く言うよ。肌の色が黄色いって……ぼくがバカなのはその黄色いアジアの血が混じっているからだって……」
「坊ちゃま……そんな事を言ってはいけません!」
マリアンテはキュッと彼の小さな手を握り、その黒い瞳を見つめて言った。

「日本人もドイツ人も同じくらい優秀な民族なんです。その優秀な二つの血が混じっている坊ちゃまが優秀でない筈がないじゃありませんか」
「でも、みんな言うよ。ぼくの事バカだって……叔母様達もみんな言うんだ。ルイはみんなと違うって……ぼくだって本当はわかってるんだ。わかってるんだよ。でも、どうにも出来なくて……家庭教師もリハビリの先生も、本当はみんなぼくの事が嫌いなんだ。ぼくがなかなか新しい事覚えられないから……もしも、ぼくがもっといい子に生まれたら、父様は、ぼくを愛してくれたかしら? もしも、ぼくが他の子達みたいに頭がよくて、いっぱい運動も出来て、それに、もしも、ぼくが純粋のドイツ人だったら……父様は……」
「坊ちゃま……」
彼女はあたたかい手で彼を強く抱き締めた。

「愛しておいでですよ。旦那様も奥様もみんな……」
「でも、ぼくだって、どうせ生まれて来るなら、もっと賢い子でありたかったよ。そうしたら、みんなにバカだって言われなくて済んだもの。それに、母様を泣かせずに済んだかもしれないもの……そうしたら……」
「違いますよ。坊ちゃまはバカなんかじゃありません」
「でも……アルファベートや数字が読めないのは、やっぱりバカだって事なんでしょう?」
「いいえ! いいえ、違いますとも。世の中にはもっと大事な事がいっぱいあるんです。そして、坊ちゃまはそれを全部お持ちです。そこら辺の子達なんかよりよっぽどいい子なんですよ。思いやりのあるいい子なんですよ。単に学校のお勉強が出来るのと本当の意味で頭がいいのは違うんです。坊ちゃまは本当に賢いいい子です。もっと自分に誇りをお持ち下さい。この先、何が起ころうとマリアンテはずっと坊ちゃまの味方ですよ」
――ずっと坊ちゃまと奥様の味方です

(マリアンテ……)
あの頃、ルイの事を一番深く理解してくれていたのはマリアンテだったのかもしれない……。そして、いつも無条件でルイのことを褒めてくれた。母の次に好きだった人……。

――ずっと坊ちゃまの味方ですよ

(今はどうしているんだろう……?)
別れて来た人が多過ぎて、彼は、いつまでもワルツに酔えないでいた。

「母様! 母様! 聞いて! ぼくね、日本に行ってたんだ」
朝、螺旋階段を転びそうな勢いで駆け下りて来たルイが言った。
「日本に?」
母は少しだけ微笑んで言った。
「うん! 目を覚ましたら、周りがみんな日本になってたの。それでね、ぼくは大人になっていて、そこで日本の女の人と結婚する約束をしたんだ。だから、ぼく、きっと大人になったら日本に行くね。だって、そこには、ぼくのこと待っててくれる人がいるんだもの」
ルイは興奮して喋った。
「それは、夢の話なの?」
穏やかに微笑んで母が訊いた。
「夢?」
ルイは頷いて、それから、きょとんとした顔で言った。
「あれは、夢だったの?」
それは、あまりにリアルだったので、ルイにはそれが夢なのか現実だったのか判断が出来なかった。彼は慌てて踵を返す。そして、2階のいつものドアを開ける。しかし、そこには誰もいなかった。

「どうして……? ぼく達、あんなに約束したのに……。桜の下で、いっぱいいっぱい約束したのに……」
ガランとした部屋。そこにはもう、温もりはなかった。

――ルートビッヒ。あなたの事、ずっと待っていたのよ。あなたが目覚めるのを……

やさしい微笑み……やわらかな手の感触……。そして、アルファベートの積み木……。あと一つ……。伝えられなかった愛の文字……そして、降りしきる桜……。

――わたし、待っているわ。ずっとあなたを待っているから……

哀しい瞳。
「泣かないで。ぼくはここだよ」
ルイは呼んだ。もう思い出せなくなっていた彼女の名前を……。懸命に呼んで探した。しかし、彼女は見つからない。いくら呼んでも返事がない。探しても探してもそこはドイツの自分の家だった。消えてしまった……。すべてはあの桜の花びらのように……幻想の螺旋を描いて時の向こうへ去ってしまった。もう開かない扉の向こうへ……。あたたかいその手が、夢見るような愛の鼓動が聞こえるその胸の中で、彼を抱き締める事はなかった。

「消えてしまったんだ。何もかも……。あの馬車の中の女の人みたいに……」
彼はとても悲しくなった。熱い想いに胸が高鳴り、頭の中はその人の事でいっぱいになった。

――愛しているわ。あなたが負ってきたその傷のすべてを受け入れてあげる……。ルートビッヒ……最愛の人……ルートビッヒ……いつか必ず……

残っているのは、情熱とやさしさ……そして、薄桃色の螺旋を描く桜の花びら……。
「待って! 行かないで……!」
どんなに走っても終わらない花びらの幻想が淡いヴェールに閉じて行く。2つの国を渡る時の風に織り込まれて行くように……。


演奏はまだ続いていた。ルビーは腕時計を見る。長い針が丁度Ⅵの所を指している。
(まだ半分もあるのか)
ルビーは指で膝を叩いてリズムを取った。
(やっぱりだ。全然違う)
フリードリッヒの弾く前奏曲は、完全に彼の体内リズムとズレていた。
(だから、嫌いなんだよ。こういうの……)
彼は心の中で耳を塞いだ。