ダーク ピアニスト
〜練習曲12 漁火〜
Part 1 / 3
闇。逆巻く波の渦潮の更なる深い水底に沈む無性の闇……。開いたままの目に映るのは青い炎。聞こえない筈の波長は短く闇の竪琴を弾く。トクンと一つ鼓動が鳴った。漣のような鼓動がノイズのように木霊する。
(ここは何処……?)
意識が遠い篝火のように赤い。
――男の方は生かして連れて来いとボスが……
(生かして連れて来いと……。男の方は……。男の……)
遥か頭上の水面にポトリと落ちた水滴が波紋を残し、闇の底に沈んで行く……。冷たくて深い闇の底に……。
――男の方は……
(ならば、そうでない者は……? 男でない者。男と女・女・オンナ……。彼女は何処だ?)
感覚がなかった。何も見えず、何も聞こえず、ただ深海に眠る魚のように静寂を保っていた。闇に溶けて、闇を愛でて、そこに眠る。ぬめりとしていた。そして乾いていた。泣き濡れて、叫び疲れて眠ったあの場所に戻って来たのかと思った。暗く冷たいあの地下室の底に……。こびり付いた血と土埃のにおい……。浮遊する花と人魚の香りがした。深い海の底から現れた異界の香り……。
(彼女は何処?)
波打っていた。運命がざわめいて不穏の影を落とし込む。
――光の中へ……
――あなたの音を
――もう一度聞かせて
指先が覚えている。唇が愛の形を覚えているように、閉じた宇宙で心が奏でた。
「ピアノ……」
彼は闇の中を弄った。
「暗い……」
血とガソリンのにおいがした。大地は振動を続け、僅かな軋みにも敏感に眉を潜めた。
「ここは……何処だ?」
それは車の中だった。窓は厚いカーテンで閉ざされ、運転席や他の座席とは隔てられた鉄の空間。捻じれた左手が何かに触れた。それは布に包まれて盛り上がっていた。ゆっくりとその上を這わせる。大きくくびれたウエストと腰の膨らみが美しい曲線を描き、繊細なレースの縁取りから現れた手は冷たかった。が、細い指にはめられたリングにはまだ微かに温もりが残っていた。
「エレーゼ……!」
声にならない声で叫ぶ。
「僕の……!」
――おまえが守るんだ
――娘を守ってくれたそうだね
(そうだ。僕が守るって決めたのに……。必ず守るって……! なのにどうして……! 一体どうして……!)
――男の方は生かして連れて来いと
(ならば、彼女は……? 彼女を殺せと命じたのは誰だ?)
振動が変わった。車はカーブを曲がり、スピードを落とした。
(誰が彼女を……!)
――コロセトメイジタ?
闇がゆっくりと頭を擡げた。
――ダレガカノジョヲ
ワゴンカーは灰色の建物に隣接した車庫に停車した。スライド式の重いドアが開いて、何人かの男達が降り、そのうちの一人が車の後部に回って荷台の扉を持ち上げた。暗い内部に横たわる女の死体。しかし、もう一方の死体の姿が見当たらない。男は首を傾げ、更に奥を確かめようと覗き込んだ。瞬間。シュッと鋭い音を立て、風が男の首を擦過した。苦痛を感じる間もなかった。白い金属の床はたちまち赤い絨毯と化し、ぽたぽたと血が滴った。その血溜まりの中に男の首がコトリと落ちた。司令塔を失くした男の身体が車体の下に崩折れる。生臭い異臭と狂気が闇の中で逆巻いた。
「おい、どうかし……」
異変を感じた仲間の一人が近づいて来た。が、その光景を見た途端、声を失くした。闇と血と、同僚の無残な姿……。荷台の首が恐怖に取りつかれたままこちらを睨みつけている。
「な……!」
慌てて引き返そうとする男の背中に向けて空間が裂けた。
「ぐぇっ……!」
肋骨が砕け、肉がちぎれ、肺と心臓が潰れた。そして、胸から突き出たそれが水平に動いて、男の身体を引き裂いた。
「何だ?」
「どうした!」
靴音が錯綜し、男達は口々に叫んだ。危険を察知し、銃を構える者もいた。が、その正体を確かめる前に照明が落ちた。車庫の中には高窓が一つ。たった今入って来たばかりの入り口にはシャッターが降りていた。その中の一人がこの異常事態を知らせようとインターホンを取った。が、その男が言葉を発する前にその胸から血が噴出した。男の手から離れた受話器が床に転がる。そこに灯った小さなパイロットランプが一瞬だけそこに立つ男の輪郭を捉えた。
「貴様は、まさか……!」
驚愕する男達。
「馬鹿な! 奴は死んで………」
言い終わらないうちに身体を貫かれて絶命した。
「あの娘は何処?」
血糊で湿った靴音が彼らの周囲を歩き回る。
「あの娘を返して……」
突き出した手からは血液が滴り、掠れた声が笑う。
「今すぐ返して……。僕のあの娘を……」
その声は天井から地階から、あらゆる場所から響いていた。
「撃て!」
誰かが叫んだ。
「こいつは死人だ。撃て!」
一発二発……。複数の銃口が彼を狙って火を吹いた。しかし、その弾道は男達の意思とは別の方向に逸れて行く……。
「さあ、返せよ。僕の大切なあの娘を……。エレーゼを殺したのは誰だ!」
一人の男の背後からその首に腕を回して締め上げる。
「お、おれじゃない! 殺ったのは……!」
恐怖に戦く男の首をへし折ってその身体を床に叩きつけて笑う。
「こ、こいつはまともじゃない!」
冷たい狂気が背筋を撫でる。
「殺れ! 殺っちまえ! でないとおれ達が……」
男の一人が理性を失くして乱射する。その男に彼は正面から接近して言った。
「おれ達が何だって?」
突き出した手でその男の喉を絞める。
「言ってみろよ。さあ!」
顔面蒼白の男は、答えられずに瞼をひくひくと痙攣させた。その時、奥の扉が開いて武装した男達が駆け付けた。インターホンから伝わった異様な気配を聞き、隣の建物から来た者達だ。
「た、助けてくれ……。こいつが仲間を……!」
首を掴まれていた男が擦れた声で言った。
「何?」
「一体何が起きているんだ!」
濡れた床とそこここに散らばった人間の残骸……。異臭が鼻を突いた。
「殺せ!」
リーダー格の男が命じた。
「指輪だ。あの指輪の男を狙え!」
プラチナの光が目印になった。一斉に撃って来た。が、彼は掴んでいた男の首を放して宙に飛んだ。哀れな男が仲間達に撃たれてぼろ雑巾のように転がった。
「何処だ!」
「何処に逃げた?」
「明かりを! 誰か照明を点けろ!」
電灯のスイッチは作動しなかった。別の誰かが懐中電灯を灯す。幾つかの光がサーチライトのように回った。その一つが車の屋根にいた彼を照らした。
「いたぞ! 撃て!」
一斉に浴びせ掛けられた弾丸を、彼は弾いた。
「馬鹿な……!」
「奴は化け物か?」
怯んだ男達の間を、疾風のような赤い閃光が駆け抜ける。
「うわっ!」
「やめろ!」
「ヒィッ……!」
悲鳴と怒号が飛び交う中で足元の死体だけが増えて行き、赤いミストが視界を覆う。終わらない恐怖と闇の旋律が悪夢のように繰り返す。
(すべてを殺す)
――光の中へ……
――君は光になれる
「光……」
握り締めた肉塊はもう音楽を奏でない。
(消えてしまえ! 何もかも……!)
「殺せ!」
新たに現れた者が言った。
――殺せ!
心の中で誰かが叫んだ。
(殺せ! 殺せ! 焼き尽くせ!)
拳で殴り、爪で引き裂き、増幅された憎しみが彼の心を駆り立てた。
闇に沈む狂気がそこに住みつく怪物がそこから出ようともがいている。
(次のターゲットは誰だ?)
「死にたい奴から前に出ろ!」
車庫の外では複数の足音が響いている。殺しても引き裂いても、高ぶった感情を抑えることはできなかった。
「まだ足りない……」
闇の花嫁を抱いて、ルビーが言った。
――許さない
開いた闇の扉の階段を彼は上った。響き渡る警報が内と外とで呼応する。現れた虚兵……。二つの闇の組織の矛盾。纏わりついて離れないレッドウルフの影……。
(また誰か、僕の愛するものを奪いに来る……)
数え切れないほどの武器。そして、数え切れないほどの人々が彼に行く手を遮ろうとした。
(もういやだ!)
起爆装置を手に入れた。グルドの紋章付きの鍵……。
「取り上げろ!」
地下で繋がっていた。
「奴を殺せ!」
――殺せ!
(憎いのはレッドウルフ? それともグルド? どちらにしてももう二度と……)
虚空に雷が鳴り響いた。
(君に触れさせはしない。永遠に……!)
冷たく乾いた風が二人の間を吹き抜けた。
「どういうつもりだ」
銀髪の男が言った。
「おまえは初めからルビー達を利用するつもりだった。違うか?」
「……」
「答えろよ。本当に彼女を愛していたのか……」
「おれが婚約した訳じゃない」
「彼女と寝たろう?」
「それだけのことだ」
「それだけ? ならば、ルビーの気持ちはどうなる?」
「あれは人形だ。気持ちなど持つ必要はない」
「馬鹿野郎!」
ブライアンが拳でその顔面を殴りつける。反動で飛ばされた男は石壁に背中を強打した。
「何故そんなに熱くなる? 他人のことで……」
ギルフォートが訊いた。
「何故? おまえは何だと思っていたんだ、連中のことを……。使い捨ての道具だと、消耗品だとでも思っているのか!」
「だとしたらどうなんだ?」
唇の端に微かに滲んだ血を手の甲で拭って男は言った。
「それがおまえの本心なのか?」
「ああ……」
平然と言い放つ男の胸倉を掴んでブライアンが拳を上げた。
「見損なったぞ!」
「この世界で生きて行くためには仕方がないことだ」
殴られても尚、彼は冷たく言った。
「何……!」
「割り切れないなら、さっさと足を洗え!」
そう言うと男は立ち上がり背中を向けた。
「待てよ」
ブライアンが呼ぶ。
「急いでるんだ。おまえとじゃれ合っている時間はない」
「逃げるのか!」
「何とでも言え。あとでいくらでも相手をしてやる」
(だが、今は……)
男は近くに停車していた銀色の車に乗り込むとすぐに発進した。
――そこにいるのは誰?
集まって来た者達の中に知った顔が混じっていた。グルドの幹部だ。敵対している二つの組織。が、彼らは上層部に於いて繋がっていた。踊らされていたのは下っ端の人形達。
――裏切ったのは誰だ?
(誰も僕に本当のことなんか教えてくれなかった。ギルもジェラードも……そして、彼女も……!)
赤い血筋が何本も伝う両手を広げて彼は歌う。
「からくり箱のオルゴール。その鏡の上で回る道化師の人形のように……。くるくると、ただくるくると……。天空を回るあの月のように……」
その内からも外からも放射状に延びる影。それは凍てついた星よりも悲しいと思った。灼熱の炎よりも熱く、制御し切れない感情が彼自身を打ち砕いた。
天空には赤い月。亀裂の入った空で、運命の女神が嘲笑う。
周囲には何も残っていなかった。組織の者達が使用した火器が暴発し、彼ら自身を焼き尽くした。そこで彼らが製造していた爆薬に引火し、建物を破壊し、人間達を吹き飛ばしたのだ。生き残った者達と、それを助けようとした人々……。それらすべてが、今は彼の靴の下にある。
「LALARA……」
彼は旋律を口ずさむ。意味もなく、ただ意味もなく……。彷徨する魂のように……。ふらふらと歩き続けた。
「LULURa LULULURARAHAHAHH
見える範囲に人はなく、破壊された建物の残骸と赤い砂漠が何処までも続く……。彼は独り……。そこで空を見上げた。
その砂漠に立つもう一人の男。
「哀れな……」
その男が呟く。それは銀狼、ルビーを操る人形遣い。彼はゆっくりと歩を進めると、人形の正面に立った。瞬間、ルビーは僅かに屈んだ姿勢になると獣のように唸って右手を突き出して来た。その爪は血で赤く汚れていた。そして、先端は刃のように尖っていた。その光は念の力で作り出したルビーの最強の武器である。
「その手で人を引き裂いたのか?」
しかし、彼は返事をしない。ただ唸り声を発するだけだ。
「その手で人間を……」
男の耳の奥で聞こえて来る優しいピアノの調べ……。彼が愛したメンデルスゾーン……。それを奏でた神の……。
(同じその手で……)
――ルビーを助けてあげて欲しいの。わかるでしょう? ルビーはこのままではいけない。ピアニストとして、光の中へ返してやらなきゃいけないのよ
遠くでヘリコプターのローター音が響いていた。1台、2台……距離をおいて飛んで来る。これだけの騒ぎを起こしたのだ。マスコミが嗅ぎつけて来たのだろう。先行するヘリコプターには確かに大手新聞社のマークがプリントされていた。
「GUH……!」
ルビーはそのヘリコプターに向かって唸った。そして、振り上げた手の先端に輝く光の束を放った。
「やめろ! あれは敵じゃない」
しかし、放たれたエレルギー弾がヘリコプターを捉えた。火球に包まれ、落下する赤い機体。
「何てことを……!」
ルビーはそれを見て笑っていた。
「殺してやったぞ。彼女を殺した連中を……。みんな僕が殺してやったんだ。僕が殺して……」
狂喜のように叫び続け、笑い続ける彼を見た時、男の目に朝露のような神聖な光と苦渋の影が交錯した。そして、次の瞬間。ギルフォートは人形に向けて引き金を引いた。外すことのない弾道は確実にルビーの心臓を捉えた。そして、赤いミストの中に彼は沈んだ。
突然、彼の背後で急ブレーキの音が響いた。
「貴様、ルビーを……!」
車から降りて来たブライアンが叫んだ。
「こんな処まで付けて来たのか」
振り向かずに男は言った。
「何故だ! 何故ルビーを……!」
「これ以上奴を生かしておいては犠牲者が増えるだけだ」
淡々と男は言って銃を収めた。
「犠牲者だと?」
「そうだ。足元を見ろ!」
血と残骸の中に立つ彼が言った。
「まさか……。これをみんなルビー一人がやったと言うのか?」
「そうだ」
「信じられない……。こんなこと、人間に出来るものか。火薬のにおいがするぞ。それに硝煙と焼け跡のにおいだ。ここはレッドウルフが爆弾の製造に使っていた処じゃないか!」
「そうだ。だが、そこらに散らばっている人間を手に掛けたのは奴だ」
「何故、そんなことを……」
「エスタレーゼが連中に殺されたからだ」
「彼女が……」
ブライアンは衝撃を覚えた。
「能力者といっても所詮は人間だ。限度はある。おれもまた、奴の能力と人格を買いかぶり過ぎていたのかもしれない……」
離れたワゴンカーのボックスの中に横たわっている彼女を見つめて言った。その視線の先がふと彼女の指にはめられている指輪を捉えた。プラチナの真新しいリングとエメラルドが重なって見えた。プラチナのリングはルビーの左手にはめられている物と同じだった。
「結婚指輪か……」
ギルフォートが呟く。が、彼らの式の予定はまだ随分先の筈だった。
「ギルフォート……! おまえは弟を助けたかったんじゃないのか? 今度こそ死なせずに生かし続けたいと願って……。そのために奴に訓練を施して来たんだろう? 強く生きるために……! 生かし続けるために……。なのに何故! 何故ルビーを……」
「ジェラードに命じられた。二人を殺せと……」
「それだけか? 本当のことを言え!」
「ルビーは……彼女を死なせた。作戦の失敗は死そのものを意味する」
「ギル……」
再び響いて来るローター音。だが、それはマスコミではなかった。ブライアンの背後に迫るヘリコプターの窓。そこから突き出されている銃口。
「伏せろ!」
ギルフォートがそいつに向けて銃を撃った。狙撃主は仕留めた。が、まだ他に七人いる。その中の二人がこちらを狙っていた。再び銃声が響く。一人を倒した。更に二発。ヘリコプターの基底部を狙った。弾丸が命中し火花が散った。が、機体に損傷はない。更にもう一発。方向指示器が吹きとんだ。その衝撃でヘリコプターがバランスを失した。それでも何とか墜落を免れ、そこから数十メートル程先に不時着した。
「連中め!」
伏せていたブライアンが立ち上がり、銃を抜くとヘリコプターに向かって駆けだした。途中何度か向こうからも銃撃してきた。が、果敢に応戦し、勢いは殺さない。背後からギルフォートも援護した。が、地上は崩れたビルの残骸と血糊とで足場が悪い。一人を仕留めた。だが、ヘリコプターにはまだ五人いた。そのうちの二人が降りて左右に分かれた。彼らは互いのターゲットを目指し、激しい銃撃戦になった。ヘリコプターの中に最高幹部の一人を発見した。パリの作戦で倒すことができなかった男。あのリー ホフキンスである。
「絶対に逃がさん!」
ブライアンが叫ぶ。
「貴様だけはどんなことをしても殺す」
それは、彼の肉親が巻き込まれた爆破テロを仕掛けた男だった。
「貴様だけは……」
頭部を狙った。が、頑丈に武装されたヘリコプターだ。防弾硝子を撃ち抜くにはまだ距離があった。
「くそっ!」
彼は舌打ちすると更に距離を詰めようと走った。が、地上に降りた男が脇から狙撃して来る。彼は咄嗟に跳ぶと片手を突いて反転し、起き上がり様にそいつを撃った。頭蓋が砕け、脳漿を撒き散らしながらそいつは倒れた。が、間髪を入れずにヘリコプターからの攻撃。最新鋭の機関銃から発射された弾が足下の地面を抉る。
「ちっ!」
止む無くブライアンはジグザグに走って一旦距離を取った。崩れたビルの壁の影に潜んで様子を覗う。と、すぐ近くから微かな呻き声がした。
(敵か?)
慌てて振り向き、確認するが周囲には誰もいない。死体とその肉片が転がっているだけだ。ギルフォートはまだ降りて来た奴と膠着状態にある。その男はレッドウルフの中でも腕利きのスナイパーだった。いくらギルフォートといえども一発で方を付けるというようには行かないようだ。
「ウ…ウウ……」
今度はもっとはっきりと聞こえた。
「まさか……」
そこから7、8メートル先にルビーが倒れていた。その頬が痙攣したように微かに震えている。
「ルビー! まだ生きて……」
思わずそう叫んで駆け付けようとした時、敵が再び攻撃して来た。咄嗟に彼はルビーと反対方向へと走った。その後を追うように銃撃が続く。道の向こうから緊急車両がサイレンを響かせ、近づいて来た。
(急がなければ……)
地元警察が関わって来ると厄介だ。見回せば、犠牲者の中に救護班や消防隊員などの姿も見える。このままでは収集がつかないだろう。一般市民も巻き添えを食っているようだ。が、今はそんなことを考えている余裕はない。目の前の敵を倒さなければ明日はないのだ。
(それに、ルビーだ。何とかギルフォートに知らせなければ……。今ならまだ助かるかもしれない……)
と、そこにいきなりヘリコプターのプロペラの回転音が響いた。
「何?」
再び浮上しようと言うのだ。上から狙い撃ちにするつもりなのか。それともこのまま逃げ切ろうというのか、判断はつきかねた。が、ここで逃がす訳にはいかない。ましてやここで倒される訳にもいかなかった。
彼はヘリコプターに向けて走った。近づいて来るサイレン音が更に緊張を煽った。その時、ギルフォートが相手を仕留め、こちらに向かって来るのが見えた。彼も銃を構えている。銀髪の男は機関銃の銃口を撃った。暴発し、男が吹き飛び、機体が損傷した。が、ヘリコプターはまだ動いている。壊れたのは一部に過ぎなかった。ただ、その衝撃で中にいた男達も腕や顔面に少なからず傷を負ったようだ。が、それは致命傷にはならなかった。機体はゆっくりと上昇し始めていた。
「くそっ! 逃がすか」
ブライアンは腰だめに構えてその基底部を狙った。が、機体が突然、予期せぬ方向に傾いたため、銃弾はすれすれで命中しなかった。
「くそったれ!」
ギルフォートも撃った。が、そちらの方は距離が有り過ぎた。着弾しても塗装を抉り、僅かに機体を揺らした程度に留まった。ヘリコプターはよろよろしながらも上昇を続けている。
「このままでは……」
前方に半壊した建物が見えた。その外階段を目指し、ブライアンは走った。
二階の踊り場から隣の建物に移る。壁は崩れていたものの、空間が開けて、空が見渡せた。ヘリコプターが目の前に見えた。が、もう5、6メートル程上昇している。
「逃がすか!」
ブライアンはフックの付いたロープを取り出すと投げ縄のように飛ばした。狙い違わず、フックがヘリコプターの金具に絡まった。彼はそのロープを掴み、機体と共に上昇した。
下を見るとそこに駆け付けて来たギルフォートの姿が見えた。
「ギル! こいつを撃ち落とせ!」
ブライアンが叫ぶ。銀髪の男は黙って引き金を引いた。が、落下したのは人間だった。機体から身を乗り出して、ブライアンを狙っていた男の側頭部を撃ったのだ。が、まだ、ヘリコプターの中には操縦者以外の人間が残っている。そいつが銃を向けた。
「ホフキンス……!」
ロープをたぐってブライアンが近づく。その男こそ彼が長い間狙っていた敵だった。その男と僅か数メートルの地点で向かい合う。が、揺れ動くロープに捕まっていては銃も自由に使えない。
「ギル!」
彼は叫んだ。が、男は弾の切れた銃に装填しようとしている。
(駄目だ。間に合わない)
せっかくここまで追い詰めた獲物を逃がすつもりはなかった。
「こいつを仕え!」
ブライアンは自分の銃を投げ落した。
「そいつでこいつの基底部を撃て!」
が、男は躊躇っているようだった。既にヘリコプターは5階建てのアパートよりも上昇していた。生身の人間がそこから落ちては助からない。
「馬鹿野郎! 何をしている! 早く撃て!」
機体の中から突き出した銃口がブライアンの肩を撃ち抜いた。噴出した血が彼の右半身を赤く染めた。と、同時にギルフォートが撃った銃弾がヘリコプターの基底部に命中した。機体は完全にバランスを失い、電気系統から火花が散った。エンジンから出火した炎が機体を包む。それは急速に傾いて落下し、地面に落ちる前に爆発した。風圧で飛ばされたブライアンが落下した地点へギルフォートが走る。
「ブライアン!」
「……ホフキンスは死んだか?」
微かに目を開いて彼が訊いた。
「ああ。あれでは助からんだろう」
炎上する機体を見つめて男が答える。その機体が再び爆発し、火の粉が降りかかって来た。が、彼は動こうとしなかった。
「頼みがある」
ブライアンが言った。
「おれが死んだら、故郷へ……。妹の……マーシアの隣に埋めて欲しい……」
「ブライアン……」
「それと……ルビーに謝っておいてくれ。約束したのに……連れて行ってやれな…くて……悪かったと……ルビーに……」
「ルビーだって……?」
振り返って見たが、そこにはただ黒い塊があるだけだ。
「そうさ。おまえも謝らなきゃいけないだろ? ルビーに……」
「喋るな」
出血が酷い。ギルフォートは肩の傷を布で縛って止血をした。
「今度こそ……いい兄貴になってや…れよ……。ルビーを守ってやれるのは……おまえだ…けな…のだから……」
「ブライアン……!」
背後でサイレンと緊急車両の光が幾重にも反射していた。救急隊員達の乱れた靴音が聞こえる。
「生存者はいませんか?」
凄惨な現場に立ち入って皆が足を竦ませている。燃えているヘリコプターの方へホースを抱えて走る消防隊員を見た。
「おい、こいつはまだ微かに息があるぞ」
背後で聞こえた声……。そこに集まっている救急隊員。
「大丈夫ですか? 何処か怪我でも……」
救急隊員の一人が来て銀髪の男に訊いた。
「いえ………」
そう言って振り向いた空には点滅するライトと彼の唯一の親友だった男の気配……。
――――おれはパイロットになりたかったんだ。国境のない自由な空で……
(自由か……)
シートに包まれて担架に乗せられ、運ばれて行くルビー。そして、冷たいワゴンの車で眠ったまま取り残されているエスタレーゼ……。淡く澄んだ空にたなびく白煙。その漣に透ける瞳。空は男の言い知れぬ青い悲しみを内包していた。
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