ダーク ピアニスト
〜練習曲3 夢の轍〜

Part 1 / 2


 馬車が揺れていた。紋章の付いた黒い馬車が……。外は嵐。打ちつける雨が激しい。若しくは、あまりに熱い太陽の光が身体を焼き尽くそうとしていた。厚いカーテンで覆われた窓からは、馬車が揺れる度に波打つ布の隙間から白い稲妻が閃いて内部を照らした。中は黒く塗り固められた木で作られていた。車輪が跳ねて落ちる度、人間もランプも小さく跳ねて固い板にぶつかった。
「風が……」
と彼は言った。心が寒くなるような風……。蹄の音……。狂気とも言えるリズムの中で、彼の呼吸は乱れ、意識は何処か遠い深淵を見ていた。
「寒い……」
と彼は言ったが、身体は火のように熱かった。振動は彼の心臓を弱らせて行く……。
「もう少しよ」
彼女はその身体にそっと毛布を掛けてやると彼の手を握って囁いた。
「後少しの辛抱よ。古城に着いたらすぐに柔らかいベッドに寝かせましょう。それから、身体を拭いて着替えを……それから、すぐにお医者様を呼んで診ていただきましょうね。お薬を飲んで水分を摂って美味しい物を食べて、ゆっくり寝むといいわ」

けれど、彼は首を横に振る。
「ううん。僕にはもう何もいらないんだよ。医者も、薬も食べ物も……僕が欲しいのは、君……君が側にいてくれたら、僕は何もいらない。だから、お願い。ずっと僕の側に……」
だが、その時、激しく咳き込んだ彼の背後に強烈な雷光と共に天を突き崩すような雷鳴が轟いた。
――ずっと側にいて……もう、この手を放さないで……離れたくないんだ、君と……


 「君と……?」
ルビーは、そう呟くと光の中で目を覚ました。穏やかで静かな時の流れの中に彼はいて、木製の長い椅子に掛け、その机に伏せたまま眠ってしまったらしい。高い天井とステンドグラスの影がその机の列に伸びている。そこは、小さな村の教会だった。彼の他には誰もいなかったが、ふと見るとその肩には薄い女物の羽織物が掛けられていた。
「これは……?」
手に取ると、それはプンとやさしい花の香りがした。

「一体誰が……?」
この教会の神父だろうか? と彼は一瞬思ったが、中年で大柄なあの神父の持ち物とはとても思えない。恐らくはこの教会に通っている信者の一人の物に違いなかった。ルビー自体、熱心な信者という訳ではなかったが、教会は好きだった。静かで、美しい絵や彫り物が飾られている。それに、何より好きなオルガンがあり、いつでも弾かせてもらえるからだ。外遊びに飽きると彼は大抵こういった場所を見つけてオルガンを弾いた。鍵盤の押し方も力の加減も、音の伸ばし方や音色までピアノとは大きな違いがあって彼にとっては面白かった。だが、今日は、オルガンを弾いた後、つい椅子に掛けてウトウトしてしまったのだ。ここのところ、彼はあまり眠れずにずっと夜の街を放浪していた。

(どうしてだろう?)
眠るといやな夢ばかり見た。闇やグロテスクな怪物や彼が殺した人間達がしつこく恨み言を言って来るのだ。それらがあまりに恐ろしく、おぞましくて彼は眠るのを拒んだ。かと思うと、母の夢だ。父親は執拗なまでにに母の体をナイフで刺し、しがみついた彼の手に付いた血は何度水道の水で洗っても決して落ちる事なく、周囲が全て血に染まる夢……。彼にとってはそれが耐えられなかった。
「母様……」
彼はじっとその薄い衣を見つめた。淡いパステルのやさしさが滲む。途端に心地よい香りが彼の鼻腔をくすぐった。
「母様が付けていた香水と同じ……」
そういえば、さっき見た夢の中に出ていた女の人もこんな香りがしなかっただろうかと考えて、彼は懸命に思い出そうとした。

――ずっと僕の側にいて……
胸がキュンと締めつけられるような切ない想いがした。
(あれは、一体誰だったんだろう……?)
忘れてはいけない大切な人だった筈なのに、今はもう幻想の彼方にあって思い出せない……。
(いつも感じていた。いつも隣にいて、僕のピアノを聴いていてくれた。大切な……大切だったのに……僕達は離れ、そして、別れて行った……取り返せないくらいの時間を生きて……僕は死んだ……だから、僕はまた、取り返せないくらいの時間を生きて、君を見つける……もう二度と離れなくて済むように……)


 柔らかな陽光が斜めに差し込んでいる。
「目が覚めたようですね」
静かな声が遠くから響いた。
「神父様……」
大柄で恰幅のいいその男は穏やかな微笑を浮かべながら、ゆっくりと彼の近くに歩んで来た。
「あの、これ……?」
ルビーが手にしたそれを差し出すと神父は頷いて受け取った。
「これは、マダム コーリエの物ですよ」
「マダム コーリエ?」
「ええ。とても熱心な信者さんで、毎日ここへやって来てお祈りを捧げて行かれるのです。今日もお見えになられましてね。あなたが風邪を引かないかととても心配なさってこれを掛けて行かれたのです」

「マダム コーリエ……」
ルビーは口の中で復唱した。そこに漂う仄かな残り香が彼の心を和ませた。
「会えますか? その人に……」
と問う彼に、神父は頷いて言った。
「ええ。きっと明日もここへ来るでしょう」
「わかりました。ありがとう」
そうしてルビーは立ち上がると教会を出た。

 果たして、次の日。彼がオルガンを弾いていると、本当にその人はやって来て静かにお祈りを始めた。質素だが、洗練された服を着た美しい人だった。ルビーは手をきちんと膝の上に置いて彼女と共に祈った。そして、彼女がそれを終えるとルビーもそうしてじっと彼女を見つめた。動作の一つ一つに気品を感じた。
(やっぱりこの女の人は、僕の母様に似ている……)
ルビーは、彼女がゆっくりと通路を歩いて席に着いた時、声を掛けた。
「あの、あなたがマダム コーリエですか?」
「ええ」
と彼女が頷く。ルビーは微笑んで昨日のお礼を言った。
「あれは、昨日神父様に預けたのですけど……」
と彼は奥の方へ首を巡らす。だが、そこに人の気配はない。
「いいのよ。多分、神父様はお忙しいのだと思うから……。後でお会いした時に返していただけるでしょう」
と彼女は言った。

「それよりも、あなたが風邪など引かなくて本当によかったわ」
と微笑する彼女の白い頬に陽光が煌く。
「母様のような事を言うんですね。もう、ずっと昔の事だけど、ふと、思い出したんです。母様もこんな感じだったなって……ずっと思い出せずにいた母様の笑顔をやっと思い出す事が出来ました」
と寂しそうに呟くルビーを見て、彼女は静かに頷いた。自分と同じ悲しみを持つ者として、彼女は感じ、共鳴したのだ。
「可愛そうに……」
彼女は、その肩を包むように手を乗せた。ふわりとしたやさしさが、その温もりがゆっくりと彼の中に広がって行く……。ルビーはじっと目を伏せたままでいた。彼女は何も言わない。ただ黙って彼の隣に寄り添っていた。だが、やがて、ルビーは唐突にポケットの中から何かを取り出し、握っていた手を開いて彼女に見せた。

「これ……」
そこには、色の付いた3つの玉が乗っていた。
「まあ、何てきれい! これはガラス?」
「はい。日本のおもちゃなんです。ビー玉って言うんですって……。ねえ、とてもきれいでしょう? 僕は3つしか持っていないけど、本当はもっといろんな色のがあるんですって……」
「そう。でも、これも素敵よ。青に緑に、こっちは、角度によっていろんな色に見えるのね、ほら、見て」
と光に透かして彼女はうれしそうに笑った。ルビーは、そんな彼女を見つめて言った。

「あなたにあげる」
「え? ダメよ。だってこれは、あなたの宝物じゃないの?」
驚いてその瞳を覗く。
「うん。ホントはそうだったんだけど……。でも、いいんです。あなたにこれを持っていて欲しいから……」
「何故?」
「あなたは、僕にやさしくしてくれたから……それに……あなたは僕の母様にとても似ているんだもの。母様は日本人で、これの名前も母様に教わったの。母様もさっきのあなたみたいに、ビー玉を陽に透かして見ていました。『きれいね』って……だから、別の街でこれを見つけた時はとてもうれしかった。でも、遊んでいるうちにみんな失くしてしまって、今はこの3つだけになってしまったから……大切にしていたのだけれど……。いつか母様にあげたくて……。でも、もうあげる事は出来ないんです。だって、僕の母様は、とっくに死んでしまったんだもの。そして、僕にはそのお墓さえ何処にあるかわからないの。もう、母様にこれをあげる事が出来ないんです。いくら望んでも、それは出来ないから……。だから、持っていて欲しいんです……あなたに……それとも、やっぱりダメですか?」

不安そうに彼女の顔を覗き込むルビーにマダム コーリエは言った。
「いいえ。それなら、いただくわ。でも、1つだけ……後はあなたが持っていて……そうしたら、わたし達、互いに心が通じているみたいでしょう?」
と言って微笑んだ。それを聞いて、ルビーもうれしそうに笑う。
「それじゃ、その一番大きくてきれいなのをあげる」
と彼女が摘んでいる銀色に輝くそれを視線で示した。七色に反射する光の中で彼女の顔が逆さまに映る。
「本当にきれいだ。ガラスの中のお姫様みたいに……」
とうっとりと見つめるルビーに彼女が訊いた。

「それで、あなたの名前は何と言うの?」
「……ルートビッヒ」
彼は一瞬躊躇しながらも、真実の名前を教えた。
「そう。ルートビッヒ,……ステキな名前ね」
「ありがとう……」
ルートビッヒ……久しく呼ばれていなかった彼の本当の名前……それが妙に懐かしくて、くすぐったくて、彼にとってはうれしくて、チョッピリ幸福を感じた。
「でも、みんなは、僕の事をルビーって呼ぶの」
「それで、あなたはどっちの名前で呼ばれたいの?」
「ルートビッヒ……。でも、本当の名前を言ってはいけないの。だから、ルビーって呼んで……ここにあまり長くはいないのだけれど、やっぱりその方がいいと思うから……」
「じゃあ、わたしに教えてくれたのは、特別って訳なのね?」
「そう! 特別! これは、僕達二人の秘密だよ」
「ええ。秘密ね」
と言って二人は瞳を合わせてクスクスと笑った。

「うん」
「もっと聴かせてくれる?」
「もちろんだよ。僕はピアノやオルガンが得意なんです。他に何も取り柄はないけど、ピアノだけなら誰にも負けない」
と自信を見せるルビーに彼女はまた微笑んで言った。
「ベートーヴェンより?」
「ベートーヴェンより……」
「ショパンより?」
「ショパンより……」
瞳の奥にキラキラと輝く光……彼はずっと何かを追い求めていた。
(そう……。僕はずっと上を目指すんだ。彼らが出来なかった何かを……きっと僕が完成させてみせる)
「そう。素敵ね。あなたなら出来るわ。ルートビッヒ……きっとね」
ルビーの弾くオルガンを聴きながら彼女は遠くに心を馳せた。


 シャンティーヌ コーリエ……それが彼女の名前だった。年齢は38で、丁度ルビーが10才の時別れた母親と同じ年だった。そして、ルビーの母がそうだったように、彼女もまた実際の年齢よりかなり若く見えた。唯一違っていたのは、彼女が日本人ではなくフランス人で、3年前に夫と子供を亡くした未亡人だという点だった。だから、彼女は毎日教会に通い、祈りを捧げていたのだ。
 それからというもの、ルビーは毎日教会に出掛け、彼女に会った。そして、彼女のためにオルガンを弾いた。彼女はバッハの曲が好きだった。それは、彼の得意とする作曲家の一人だったので大いに本領を発揮する事が出来たし、彼女を満足させる事も出来た。オルガンを弾いてこんなに楽しいと想った事はなかったし、彼女も、これ程感動し、心に染みた音楽はないと言ってくれた。

「ルビー、あなたは、本物の音楽の天使なのね」
シャンティーヌはうっとりと彼を見つめた。そして、ルビーもまた、
「あなたこそ、天使と呼ぶにふさわしい天界人のように思います。何故、あなたは地上に参られたのですか? あなたの気高さもやさしさもあまりに純粋過ぎて、この地上では汚されてしまう。それが僕にはとても耐えられないのです」
ルビーは跪き、そっと彼女の白い手にキスをした。その彼の背中には黒蝶の美しい羽が畳まれている。
「ああ。ルビー……愛しい坊や。ここへ……。絵本を読んであげましょう」
ルビーが文字を読む事が出来ないのだと知ると、隣に呼んで彼が望むまま、好きなだけ物語を読んでくれた。シャンティーヌの白い指先がページを捲る度、彼は心臓が高鳴るのを覚え、彼女の吐息を感じ、体温に触れる度、胸の中で想像が膨らんだ。

(ずっとこうしていたい……)
彼女にとってもそれは同じだった。ルビーは22だったが、その思考は幼く、子供のままだった。丁度、彼女が亡くした子供にしてあげたような事がルビーにとってもうれしいらしく、何度も強請って来るのだ。絵本を読んで聞かせたり、ままごと遊びをしたり、時には、彼女の家の庭でかくれんぼや鬼ごっこのような事もして遊んだ。本当に子供のようだと彼女は想った。かと想うと急に大人びた言葉を口にして愕かせたり、何も知らない赤ん坊のように無垢だったり、プロでも真似の出来ないような素晴らしい音楽を披露したりする。

「あの子は本物の天使なのですよ」
と神父が言った。
「純粋で無邪気なあの瞳をごらんなさい。彼は、確かにこの地上においては知的なハンディを持った可哀そうな子なのかもしれません。これから先、社会でやって行くには試練が多い事でしょう。彼は文字の読み書きが、いや、それどころか自分の名前すら書く事も出来ないのですから……しかし、あの子には天性の才能がある。正しく天界に届く程美しい音楽を奏でる事の出来る指を持っているのです。美しい音楽は美しい心を持った者のみが奏でる事を許された特別なものなのかもしれません。そして、その音楽を聞く事を許される者の心も美しくなくてはなりません。だから、祈るのです」
神父はじっと彼女を見つめ、その白く華奢な手を力強く握り締めた。
「神父様……」
彼女は戸惑いを隠せずにいたが、神父は構わずに言った。
「祈るのです。朝も昼も夜も……。これからは夜も教会に来て祈りを捧げなさい。さすれば、あなたがこの世で犯した全ての罪を神はお許しになるでしょう」

けれど、彼女が夜に教会を訪れる事はなかった。代わりにやって来たのはルビーの方だ。彼は相変わらず眠れずにいた。昼間、シャンティーヌとどんなに素晴らしい時間を過ごしても、心が喜びで満たされても悪夢は彼を眠らせてくれなかった。それで、彼は夜の散歩を止められずにいた。同じ道でも夜は昼間とは違う顔を持っている。昼間聞こえなかった音も夜ならちゃんと聞こえたし、風や植物の声、時には過去の時間や幻想の生き物達と会話を交わす事も出来た。ただ、そこにある悲しみや憎しみを抱いたままの魂が眠る場所を通るのは耐えられず、彼はそんな者達から逃げて教会へ来た。教会は夜になっても開いていたし、聖域となっているその場所に邪な者達が入り込む事は出来なかった。彼はバタンと重いドアを閉めて中へ入った。昼間とは違う顔がここにもある。が、中央のマリア像はいつもと変わらぬ慈愛に満ちた微笑を浮かべていたし、机も椅子も整然と並んで美しい模様のように見えた。と、そこへカタンと小さな音がして扉が開いた。

「おや、あなたでしたか。ルビー」
神父だった。彼はゆっくりと歩んでルビーの側に来た。
「どうしましたか? こんなに遅く……」
その顔は穏やかだったが、黒い宗教服に身を包んだ大柄な彼が近づくとまるで威圧されているような圧迫感を覚えた。
「ここは一晩中開いているから……」
小柄なルビーはぐいと思い切り首を上げて神父を見た。
「何かお役に立てる事がありますか?」
という神父の問いに、ルビーは少し首を傾げ、それから少し俯いて言った。
「眠れないんです」
「何故?」
「眠ろうとすると、いつも怖い夢ばかり見て……」
と言う彼の肩先が微かに震えている。神父はそんな彼の肩をやさしく抱いて言った。
「お掛けなさい」
言われるままにルビーはその椅子に腰掛けた。

「大丈夫。もう、ここに怖いものなんか何もありませんからね。安心してよいのですよ」
「はい……」
ルビーはそんな神父の微笑より、その向こうに飾られているマリア像の方ばかり見つめていた。そして、その向こうに見える黒い影を……。けれど、やがて神父の口元が、もう微笑んでいないのだと知ると唐突に言った。
「魔王が……ほら、あの暗がりに……! 闇に潜んで僕を見てるの!」
ルビーは叫んで部屋の隅の柱の陰を指差した。
「大丈夫。あれはただの柱の影ですよ」
と神父は言ったが、ルビーは怯えたように頭を抱えて震えている。
「影だって? 違うよ! あれは僕を闇の世界へ連れて行こうとする魔王なんだ……!」
神父はフーッと長い息を吐くと言った。
「シューベルトですか? あれは、確かゲーテの詩でしたね」
「違うよ! 僕は本当の事を言ってるんだ。魔王はいつも僕の側にいて囁くんだ。それから、眠ると夢に出て僕を脅すんだ。それから、僕に悪夢ばかりを見せて喜ぶんだよ。僕、あいつを殺してやりたい」

「殺す? それはいけません」
「何故?」
「何人であろうと命を奪う事、それは罪なのです。神様がお許しになりません」
「どうして? そんな神なら僕はいらない。誰も僕を救ってくれないなら、僕自身の手で自分を救って何が悪いの? 僕はいつもそうして来たよ。だって僕が本当に苦しかった時、神様は来てくれなかったじゃないか」
ギンと見据えて彼は言った。
「いいえ。神は来られたのです」
「どうしてわかるの?」
「今、ここにこうしてあなたが存在している。それが何よりの証拠ではありませんか」
「そうかもしれない……でも……」
反論しようとするルビーの肩に神父は手を置いて言った。

「信じるのです。神を……神はいつでもあなたの側におられます。そしてあなたを守っていて下さるのです。だから、祈りなさい。そうすれば、何も怖いものはありません。もう何者に怯える必要もないのです」
「でも……」
「祈るのです」
「お祈りはしたよ。眠る前には感謝の言葉を祈るんだ……昔はいつも母様とそうしていたよ。けど、今は母様はいない。僕独りなんだ。だから、きっと神様には半分のお祈りしか届いていないんだよ。だから、きっと悪い夢ばかり見るんだ。怖い夢だよ。お化けが出るんだ。それからこんな醜くて凄い怪物も、それに怪獣もだよ。それから、人間……。人間は一番怖いよ……。みんな怖い顔して僕を睨むんだ。呪いの言葉を唱えて……そして、僕を地獄の闇に落とそうとたくさんの黒い大きな手が僕を掴もうとするの。僕は逃げて、暗闇を走るのだけれど、いつも失敗しちゃうんだ。人食いお化けや大きな弦の植物や殺された人が青い顔して、真赤な血を撒き散らして僕に浴びせるの。あいつら、みんなゾンビだよ。だから、僕、もう一度奴らをやっつけようとしたんだ。けど、殺しても殺してもキリがないんだ。そんな僕を見て笑ってるんだ。そして、連中は遂に僕の大切な誰かを……連れて行って、それから……!」

ルビーは片手で顔を覆うともう片方の手で拳を握り、ダンと机を叩いた。と、その手を神父はそっと掴んで言った。
「それは、全部幻でしかありません。誰もあなたを責めたりしていないのですよ。だから、怖がる事はありません。誰もあなたを裁くなんて事は出来ないのです。それに、あなたは何も悪い事などしていないのでしょう? 神はあなたを愛しておいでですよ。神は罪なき子羊を守って下さるのです」
真剣な眼差しで神父は言った。それを見つめるルビーの目も真剣だった。二人の視線がまともにぶつかる。けれど、二人共目を逸らさなかった。
「愛してくれるの? 本当に?」
「ええ」
神父は頷く。幾つかの場面がルビーの脳裏に閃いて、軽い眩暈と血の臭気を感じた。そうして、闇の声を聞きながらルビーは言った。

「たとえ、僕が人殺しでもですか?」
その言葉に、神父は一瞬だけ躊躇した。が、すぐに微笑むと彼の手を取って言った。
「ええ。もちろんです。でもね、それは恐らく本当の事ではないのです。さあ、言っておしまいなさい。そうすれば、少しは気持ちが楽になるでしょう」
ルビーは、
(全部ホントの事なのに……)
と思ったが、神父の顔を見ると黙って頷いた。そして、もしかしたら、本当にそうなのかもしれないと……。言ってしまえば気持ちが少しは楽になるかもしれない。それに、たとえ真実を告げたとしても、神父は決して他人に漏らす事はない。ましてや、警察に訴える事もないのだと彼は知っていた。なら、少しくらい言ってしまっても構わないのではないかと彼は思い、フーッと小さなため息と共に告白した。

「最初に殺したのは僕の父様です。だって、あいつは、僕の母様を殺して、僕を地下室に放り込んだから……僕は光を爆発させたんだ。それから、僕に注射や酷い事をしたお医者さん。それに、僕と先生の悪口を言ってバカにした奴もみんなだよ。雷と光の矢で心臓を打ち抜いてやったんだ。でも、本当はそんな事したくなかったんだけど……。それからはいっぱい殺す練習をして、だから、今では随分うまく殺せるようになったんだよ。ピアノを弾きながらとか、ままごと遊びをしながらとか、この間は金魚さんごっこをして……。その金魚っていうのは、僕のお友達が飼っていた赤くてかわいい金魚さんの事だったんだけど、死んじゃったからお墓を作ってあげたんだよ。ちゃんと十字架を立てたんだ。だから、僕と遊んだ金魚さんにもお墓を作ってあげたよ。だって、そいつは僕の大切なお人形の女の子を壊しちゃったから……。」
神父はいちいち彼の言葉に頷いてみせたが、瞳は慈愛に満ちていた。ルビーの話はそれからしばらく続いたが、どれも結局は彼のお人形の話やおもちゃやごっこ遊びの時起こったハプニングやピアノの話が多かった。

「それで、壊れたおもちゃはどうしたのかな?」
と神父がやさしく訊いた。
「捨てちゃった。だって、もう遊ぶ事も出来ないでしょう? それにもし、悪い事をしたら、神様だってそうするでしょう? あのおもちゃはみんな悪い子だったの。だから仕方なかったんだよ壊れちゃっても……」
「そうですね。それはきっと仕方のない事だったのでしょう。だから、もう大丈夫です。何も心配する事はありません。あなたはよい事をしたのですから……さあ、お家へ帰ってお眠りなさい」
「いい事? うん。ジェラードもそう言ってたよ。だから、僕、いっぱい練習して上手くなったんだ。ギルより上手になったんだよ。ねえ、神様は僕にご褒美をくれるかしら?」
「ええ。きっとね。とびきりのご褒美を……」
「わあ! だったら、僕、もっといい子になるね。そうして、もっともっと悪い奴をやっつけて、みんながもっと幸せになれるようにするんだ。誰も泣かなくていいように!」
そう言うとルビーはうれしそうにクスクスと笑った。
「ああ、何だかここでお話したらスッキリしちゃった。ありがとう。神父様。今夜は眠れそうです」
そう言ってルビーはそこを出て行った。


 「ルビー、こんな時間まで何処に行ってたんだ?」
ホテルに戻るとギルフォートが顔を出して言った。
「教会」
「また、例の女か? あまり深入りするのはやめておけ。後悔するぞ」
「どうしてさ? ギルだって、毎晩違う女といい事してるじゃないか」
「それは、大人の社交さ」
「僕だって大人だよ」
と口を尖らせるルビーにギルは鼻で笑って言った。
「ままごと遊びやかくれんぼをするのが大人の社交なのか?」
「僕は彼女とキスだってしたんだ。それからバッハを弾いて、彼女とは純粋に音楽の話をしたんだ」
「絵本を読んでもらったんだろ? 『3匹の子ぶた』ちゃんかな? それとも、『赤ずきんちゃん』かい?」
「『ヘンデルとグレーテル』だよ! それに、『幸せの青い鳥』!」

「それで、彼女は何才だって?」
「38」
「おまえ、そんな母親みたいのが好みなのか?」
「彼女はそういう対象じゃないよ」
「なら、本当のママになって欲しいのか?」
「わからないよ、そんなの! でも……今はそうしていたいんだ。彼女の側にいると安心出来て、彼女の声を聞いていると気持ちがいいんだ。出来ればずっとそうしていたい……でも、僕だってわかってる。それは出来ないて事……。でも、もう少しだけ……ここにいる間だけでいいんだ。夢を見させて……」
「わかっているならいい」
と言ってギルフォートは部屋を出た。独り残されたルビーは、ベッドに腰掛けるとじっと何もない壁を見つめた。
「また、眠れなくなっちゃった……」