ダーク ピアニスト
〜練習曲9 人形 zwei〜
Part 2 / 2
――ルートビッヒ。あなたも来なさい。今日は、ピアニストの先生がピアノを弾いて下さるのよ。ショパンやベートーヴェンやモーツァルト。あなたも好きでしょう?
――ショパン?
――そうよ
それは、時々行われていた病院の音楽療法の日だった。ルカス シュミッツはピアニストで、あちこちの病院や施設で小さなコンサートを行っていた。会場に集められた子供達は様々で、皆、何処か精神を病んでいた。ひたすら爪を噛んでいる子供、首や身体を揺すっている子供、また大声で何かを叫んだり、落ち着きなく動き回ったりする者もいて騒がしい。
それでも、ピアノの音が聞こえ始めると、子供達は一様に耳を傾けたり、足や身体でリズムをとったり、いっしょに何やら歌い始めたりとそれぞれの形でこの共有している時間を楽しんでいた。ルートビッヒはと言えば、やはり、じっと耳を傾けて懐かしいバッハやモーツァルトのやさしい音楽に聞き入っていた。ところが、シュミッツが美しいショパンの曲を弾き始めた時、突然、彼は椅子から立ち上がって叫び出した。
「違う! そんなのはショパンじゃない! やめちまえ! 下手くそ! そんな曲なんか聞きたくない!」
「黙りなさい! ルートビッヒ。追い出されたいのですか?」
慌てて職員が彼を座らせ、黙らせようとする。が、彼はますます叫び、暴れて、職員の手を振り払い、前の席の椅子を蹴飛ばしたり、足をドンドン踏み鳴らしたりした。
「やめなさい! また、拘束されたいのですか?」
「いやだ! あんな奴より、ぼくの方がよっぽど上手く弾けるんだ! 弾けるんだ! ぼくの方がずっと上手く……! 弾かせて! 僕が弾くんだ! 僕がピアノを……ショパンの曲は、ぼくが、ぼくだけが再現出切るんだよ! ぼくだけが……一番上手く……彼の本当をピアノで再現する事が出来るんだ! ぼくだけが……ぼくだけのものだよ! ぼくだけの……他の誰にも弾かせない……!」
泣き叫ぶ彼を黙らせようと職員達が押さえつける。
「いやだ! 放せ! 放して!」
「放してあげなさい」
静かな男の声が響いた。シュミッツだ。彼は椅子から立ち上がると、じっとルートビッヒを見つめて言った。
「そんなにピアノが弾きたいかい?」
「Ja!」
ルートビッヒは、両手を押さえつけられたままの姿勢で言った。強気に輝くその瞳は、カッと真っ直ぐにシュミッツを見つめている。
「なら、ここに来て弾いてみなさい」
彼は穏やかに言った。すると、ルートビッヒも素直に頷くとスッと立ち上がってスタスタと歩いて前に出た。そして、当然のように開けられたピアノの椅子にチョコンと座るとスッと軽く息を吸い込み、目を閉じたまま華麗に曲を弾き始めた。その美しい旋律に皆がほうっとため息を漏らし、ホールは静まり返ったが、ルートビッヒは目を開けて呆然と鍵盤の上を動き回る自分の手を見た。
(ちがう! ちがう! ちがう――! こんなのはショパンじゃない……。ぼくのじゃない! ぼくのじゃ……! ない……!)
曲が終わってもただ呆然としているルートビッヒ。沈黙の続く会場の中で、突然、誰かがパチパチパチと手を叩いた。シュミッツだ。それに釣られるように沸き起こる拍手。そして、またあのざわめきや奇声や足音等の雑音が混じる。
「本当だ。君の方が私よりずっと上手いね」
シュミッツの言葉にルートビッヒは俯いたまま言った。
「ウソつき……」
彼の小さな肩が震えている。
「上手かっただって? 全然ダメだったよ! ぼくは……ぼく、弾けなくなってた……! レガートもトリルもスフォルツァンドも……! 何もかも滅茶苦茶で……! 何もかもが壊れてる、何もかも……! ぼくの手、壊れてる! こんな所にいたから……? 閉じ込められていたから? ぼく、ダメになってる……。やっぱり、ぼく、死んじゃったんだ。死んじゃってるんだ。ぼくの手も身体も心も……! あの時……、母様が死んだあの時から……!」
泣き叫ぶ子供にシュミッツはそっと自分の手をその小さな肩に乗せた。
「ルートビッヒ……ああ、ようやく見つけた私の宝……。ルビー……」
「ルビー……?」
頬にはまだ涙が伝わっていたが、彼は黒く澄んだ瞳を男に向けた。シュミッツは頷く。肩に乗せられたその手から大きな温もりが伝わって来る。
「そうだよ。ルビー……赤く、美しい私の宝石……命と情熱の赤い揺らめき……。君は、誰にも負けない才能と情熱を持っているんだ。君は、まだ死んでいない。ここにいて、生きて、みんなにピアノを弾いて聴かせる。君はまだ、ピアノを弾く事が出来る。君は壊れてなんかいない。死んでなどいないんだ」
少年はスッと自分の肩に乗せられた彼の手に触れた。
「熱い……」
「熱があるんだ」
「それに、少し震えてる……」
「病気でね。仕方がないんだ」
と言ってシュミッツは彼の肩からそっと手を下ろした。それをじっと見つめているルートビッヒ。
「それじゃあ、ピアノが上手く弾けないね……」
「そうだね」
寂しそうな微笑を浮かべるシュミッツ。
「可哀想……」
そう言って少年は涙を流した。
「君は、本当にやさしいんだね」
しかし、ルートビッヒは首を横に振って言った。
「だって、悲しいでしょう?」
「いいや。悲しくはないよ。昨日までは悲しかったけれど、今は、もう悲しくない」
「どうして?」
「君に巡り会えたから……」
「ぼくに……?」
「そう。これからは、私の代わりに、君がピアノを弾いてくれるね?」
「ぼくが? あなたの替わりに……?」
「そうだよ。ルートビッヒ……。ああ、ルビー……。君は、私の大切な宝物なんだよ」
――私の大切な宝物……
ホールには、大人と子供が集まっていた。その様子は、昔、彼がルートビッヒと呼ばれてていた頃の精神科の子供達の様子とほとんど変わらなかった。ブツブツ言ったり、奇声を発したり、動き回ったりして騒がしい。が、ルビーは気にせず演奏を始めた。
「モーツァルトか。」
男が呟く。
「『トルコ行進曲』だね」
フェルが言って自分も曲に合わせて体を揺すった。楽しいリズム。軽快な音に皆、歌ったり手を叩いたりして喜んでいる。
「この短い曲の間にそれを行うというのか?」
疑うような視線を向ける。と、次の瞬間。和音が響く度にバタバタと人が倒れて行った。しかも、後ろの列から前の列、そして、サイドへ、前列、後列と立て続けに人が撃たれ、華麗なまでに美しく彼の放つ念により、誰も動かなくなった。
彼はコーダを残し、立ち上がると微笑して言った。
「どう? 一曲もかからなかったでしょ? アハハ。このゲームは、僕の勝ちだね。約束通り、このお人形は、僕がもらうよ」
と言ってフェルを抱えた。
「パパ!」
フェルが助けを求めるように手を伸ばすが、父親は無視した。
「さあて、何をして遊ぼうか? 僕の可愛いお人形ちゃん」
とルビーが楽しそうに笑う。
「うるさい! 放せ!」
フェルが喚いた。
「ほら、いい子だね。子守唄を弾いてあげるから……。もう、みーんな眠ってしまったから……僕達も夢見よう」
とルビーがピアノを弾き始めると本当にフェルは抱かれたまま大人しくなった。
「ねえ、フェリックス坊や。僕と行こうよ。丸木船に乗って、東の海へ何処までも行こう……」
フェルは彼の肩にもたれ掛かって聴いている。
「今ならまだ間に合うよ。今なら、まだ、充分な時間がある。行こうよ。僕と……何処までも行こう……」
頭をそっと撫でてやるとフェルは微笑した。それを見て、ルビーも満足そうに笑う。
(誰かに認めて欲しくて……愛されたくて……ずっと闇の中をさ迷っていたんだね。かつての僕がそうだったように……。そして、今も……)
曲が終わり、フェルが顔を上げて微笑んだ。天使のように美しい笑顔……。が、その次の瞬間。子供はポケットからナイフを出すとルビーの脇腹を刺した。
「ウウッ!」
と彼は僅かに表情をゆがめて、くず折れるようにピアノにもたれ掛かる。フェルはピョンと彼の膝から飛び降りて笑った。
「フフフ。ぼくの勝ちだね。おバカさん」
ルビーは脇を押さえたまま動かない。
「パパ! 上手くやったよ!」
少年はうれしそうに笑うと父親の方に駆け出した。その時、不意にその手首を掴まれ、ギョッとして振り向く。ルビーだった。動けない筈の彼が微笑している。そして、その手を引き寄せるとしっかりとフェルを抱き抱えた。
「お、おまえ、何で……!」
「ダメだよ。君はもう僕のものなんだからね。いい加減にあいつの呪縛を解かないとね」
「うるさい! 黙れ! 黙れ! 黙れ!」
少年は執拗にナイフを振り上げ、ルビーの体に突き立てた。が、刃先は固いシールドに遮られ、彼を傷つける事は出来なかった。
「畜生っ! この化け物め!」
少年は彼の手から逃れようとしつこくナイフを振るった。
「化け物? そんな事言わないでよ。悲しくなるから……。とても悲しくなるから……」
と言って、ルビーは本当に涙を流した。彼の手は軽く少年の体に添えられているだけなのに、フェルは逃れられずにジタバタした。
「おまえなんか! おまえなんか嫌いだ! 消えろよ! 消えろ! 死んじゃえ!」
――ルイ、おまえなんか消えちゃえ!
――迷惑なんだよ!
――おまえの存在そのものが社会にとって邪魔なんだ
――消えろ! 消えろ! 消えちゃえ!
ルビーはフッと微笑して言った。
「それでも、僕はいるんだよ。僕は、ここにいるんだ。君がどんなにいやがってもね。たとえ、社会が僕を認めてくれなくても、僕の存在を誰も否定する事なんか出来ないんだ」
穏やかに彼は言うとスッとその手で少年の背を撫で始める。
「ねえ、どうして君はそんなにも僕が嫌いなの? 好きになってよ。そして、いい子になって……。そうでないと、僕……」
じっと見つめられてもフェルは動じなかった。背後の男が手にした鏡が彼に指示を送っていたのだ。光の糸に操られ、少年は攻撃を止めなかった。
「いい子でなかったら、どうするって言うんだ?」
じっとその目を覗き込んで言う。
「僕は、君を殺さなきゃならない」
「……!」
ルビーは微笑し、少年は怯えた。その背からそっと首筋に手を掛ける。
「いい子だね。坊や。おやすみ」
スッと彼の手がやさしく動いただけだった。が、少年はクタリとルビーにもたれて動かなくなった。その彼を抱き上げてルビーは立ち上がり、男を見た。
「フェルを殺したのか?」
「こうするしかなかったんだ。おまえの毒牙から解放してやるにはね」
「この悪魔め!」
「あなただけには言われたくないね。子供や弱い者の心を弄ぶ獣が……!」
「おまえこそ、醜い心の殺人鬼め! 自分が何をしたのかわかっているのか?」
周囲に倒れている人間を見て言った。ルビーはケラケラと笑い出す。
「だって、これはゲームなんだ。ここにいる全員を殺したら、お人形を僕にくれるって約束したじゃないか。後はあなた一人だ」
とルビーは笑う。
「ち、近寄るな! この化け物め!」
「芸がないね。親子揃って同じ台詞か」
「だから、言ったんだ。もっと早く殺しておけばよかったんだって……」
「もっと?」
怪訝そうなルビーに男は言った。
「そうさ。もっとガキのうちに……! そしたら、親父もおれも、いいや、フェルだって……! おまえのせいで、おれ達は何もかも滅茶苦茶になった! おまえのせいで!」
「おまえは誰だ?」
「昔、ドイツでおまえが殺した、精神科の院長の息子だよ」
「あの医者の?」
「そうさ。おまえのせいで、病院は叔父に乗っ取られ、おれ達は追い出され、路頭に迷い、家族を養う為に、おれは卑しい者達に混ざって工事現場の仕事までしたんだ。このおれが、汚くて辛い肉体労働を強いられたんだぞ! 貴様にわかるか? 汗まみれで労働しなければならなかった屈辱が……!」
「屈辱? 工事現場の仕事は立派な仕事だよ。彼らがいなければ道路も橋もビルだって何も建ちはしないんだ。それを何故、あなたは屈辱だと言うの?」
「あれが屈辱でなかったら何だと言うんだ? あんな汚い最低の仕事等、おまえらのような下等な人間のする仕事だ。私のようなエリートがする仕事じゃない!」
「仕事に優劣をつけるなんておかしいよ。いろんな仕事をみんなで分け合って世の中は成り立っているんだ。あなたにはあなたの、僕には僕の役割があるんだよ」
「自惚れるんじゃない! ちょっとくらいピアノが弾けるからって何だ! そんなもの、何の役にも立ちゃしない。おまえなんかゴミだ! 所詮は自分じゃ何一つ出来ない壊れた人形のくせしやがって……。『グルド』の、ギルフォート グレイスの操り人形めが!」
「それは、あなただって同じでしょ? 所詮は『レッドウルフ』の操り人形だ」
「違う! 確かに、私は『レッドウルフ』に救われた。そして、この病院を手に入れて、組織の中ではかなりの地位になり、やっとおれにも運が向いて来たのに……。またしてもおまえが、台無しにした。おまえがフェルを殺した」
「フェルが可愛いかい? なら、抱き締めてやれよ」
とルビーはフェルを男に押し付けた。
「撫でてやれよ。その子は愛を求めているんだ。そして、この患者達もみんなね」
「うるさい! こんな奴はもういらない! おれの言う事が聞けない人形なんか何の役にも立たないじゃないか」
と床に放り投げると汚らわしい物にでも触れるように靴の先で蹴飛ばした。
「パパ……」
フェルが悲しい目で見上げる。
「フェル……? まさか、生きていたのか?」
「そうだよ。パパ。ぼくはまだ生きてる……。だから、まだパパの役に立てるよ。まだ、パパの為に……」
「うるさい! 何度も失敗しやがって! おまえのような出来損ないの人形などいらん」
「パパ!」
男は少年に銃を向けた。ルビーは咄嗟に少年を庇おうと前に出た。が、それを突き飛ばしてフェリックスは両手を広げて父親の胸に飛び込んで行った。
「パパ! ぼくを抱いて! そして、いい子だねってもう一度……」
銃声がその声をかき消した。
「フェル!」
倒れた少年に駆け寄るルビー。
「どうして……!」
「いいんだ。これで、いいんだよ。ぼくは初めから生まれて来てはいけなかったんだ……でも、最後はパパがぼくを天国に送り出してくれた。パパが……。ごめんね。ルビー……。君の事、嫌いじゃないよ。本当は、ずっと友達に…なりた……かっ……た……人形なんかじゃなくて……本当は……温かい……人間の友達……に……」
「フェル!」
背後に立つ冷ややかな目がルビーを狙った。
――あの子供、ルートビッヒ シュレイダーは金弦だ。逃がすんじゃない。ルカス シュミッツが奴の為に、自分の死後には、財産をルートビッヒとこの病院に寄付すると約束したんだ。いいか? 夜はベッドにくくりつけて鍵を掛けて措くんだ。暴れたら鞭をくれて、それでもやめないようなら薬で大人しくさせればいい
――それから? どうするんです?
――シュミッツは重い病気で長くは持たない
――でも、シュミッツは奴をピアニストにと望んでいる。音楽大学の教授に手紙を出したと言っていた
――そんなものはどうにでもなる。また、病気が悪化したと言えばいい
――それに、ルートビッヒを押さえておけば、いざとなればシュレイダー家が金を出す
――金が入る限り生かしておく
――死なない程度に扱えばいい。この間の娘のように失敗しないようにな
院長ともう二人の医師が笑っていた。その声が幻想のように木霊する。
――死なない程度に餌を与え、我々のストレス解消と出世の為の実験用被験者として役立ってもらえばいいんです
金髪の若い男のシルエットと振り向いたそこに立っている男の顔が重なった。
「思い出したよ。医者の仮面を被ったペテン師悪魔め! おまえがやったデタラメな治療のせいで一体何人死んで行ったと思う? 僕は知っているんだぞ。おまえがやっていた事の全てを……!」
「ハハハ。何を見たと言うんだい? カルテにはちゃんとそれぞれの病状と死因が明記されている。それに、私は正規の医師国家試験に合格している。それに比べておまえはどうだ? おまえは、既に犯罪者で精神病者だ。誰がおまえの言う言葉など信じる? 答えは Nein だ。普通に考えればわかるだろう?」
男が勝ち誇ったように笑う。
「それに見ろ! おまえは、これだけたくさんの人間を殺したんだ。もはや逃れようもない。だが、安心しろ。警察に捕まってもおれが精神鑑定をしてやる。そして、言うんだ。おまえが精神耗弱で通常の善悪判断など出来ない状態にある。つまり、一生治療が必要な精神病者なのだとね。そして、おまえは、この病院に送られて来る。どうだ? 素敵だろう? そしたら、フェルの分までやさしく治療してあげよう」
男が笑う。と、ルビーも声を上げて笑い出した。
「何がおかしい?」
男が憮然として訊く。
「無理だよ。僕は誰も殺していないもの」
そうして、彼は駆けて行ってピアノの続きを弾いた。残っていたコーダの部分だ。その音が響く度、倒れていた人々が次々と目を覚まし、身体を起こして辺りを見回している。ある者は首を傾げ、ある者は何事もなかったように自分の世界へ没頭し、また、ある者は歌ったり叫んだりを繰り返している。看護士達も一体何が起こったのかわからずに、隣の者と顔を見合わせている。
「アハハハ」
ルビーが楽しそうに笑い、ピアノを弾く。
「狂人め!」
男が吐き捨てるように言う。と、ルビーはスッと椅子から立ち上がると振り向いて言った。
「狂人はおまえだ!」
看護士達の間に動揺が広がる。
「おまえが狂人だ」
もう一度ルビーが言った。
「私利私欲の為に人間を実験し、実の息子であるフェリックスを殺した。それだけで充分だろう?」
「うるさい! 黙れ! こいつは狂人だ。患者だ。捕まえて拘束するんだ」
看護士達に命令する。が、彼女達は反応しない。
「あの子が狂人? 信じられない」
「院長先生、何をおっしゃっているんですか?」
「えーい! 何をグズグズしているんだ! 私の命令が聞けないと言うのか!」
彼は苛立っていた。
「そう。院長先生はご病気なんだ。彼には休養と治療が必要だ。誰か手伝ってくれないかい?」
ルビーはポケットの中のチェーンリングをジャラジャラさせながら言った。二つ繋がった緑のリング。それを強く引くとカチリと小さな音がした。
「さあ、院長先生、こちらへ」
と看護部長が彼に触れようとした時、彼はそれを振り払って叫んだ。
「何をしている? 私じゃない! あいつを捕まえるんだ!」
「ええ。わかっていますよ」
と言いながら彼女達は男を抑え、連れて行こうとする。
「ええい! 放せ!」
男はさらに激しく腕を振り、肘で突き飛ばす。が、彼女達、いや、近くにいた患者達まで加わって彼を取り押さえようとした。
「くそっ! 放せ! おまえら、みんな、ぶち殺してやる!」
騒ぎの中、置き去りにされたフェルの遺体を抱いて、ルビーは成り行きを見つめる。そして、彼は子守唄を歌った。それは昔、母が歌ってくれた子守唄……。
「ゆりかごの歌をカナリアが歌うよ。ねんねこねんねこねんねこよ……ゆりかごの上でびわの実がゆれるよ。ねんねこねんねこねんねこよ……」
歌詞は日本語。そこにいる誰にも意味はわからなかった。が、そこにいた誰もの心に深く沁みた……。ただ一人、男の心を除いて……。
「ルビー!」
ギルフォートが来た。彼は振り向いて彼を見た。その目から涙が流れ、手にしていた2連のリングがカチャリと落ちた。が、ギルの目を引いたのはルビーが抱いている少年だ。淡い金髪の髪の少年は微かに笑んで、血の気のないその頬に落ちたルビーの涙に反射して蛍光灯の光が煌いている。
「ミヒャエル……」
思わずそう口にして、彼は頭を振った。
「似ているでしょう? だから、連れて帰ろうと思ったんだ。あなたが喜んでくれると思って……なのに……ごめんなさい。僕はフェルを助ける事が出来なかった……。フェルは遂に人形のまま、人間になる事が出来なかったんだ……。ねえ、僕もそうなのかな? 僕ももう、人間には戻れない?」
「おまえはどうしたいんだ?」
「僕は……わからない。でも、もう少し、あなたの側にいる。あいつは、フェルを道具としてしか見ていなかったけど、ギルは違う。そうでしょう?」
しかし、彼は顔を背けた。
「わからんさ。おれも、おまえの事なんかただの道具としてしか見ていないかもしれない……」
「違うよ! あなたは、僕にやさしくしてくれるもの……」
「やさしくなんかしてないさ」
「してるよ。今も……」
ルビーは足元のリングを見た。2つ連なった緑色のリング。それは、ギルフォートの瞳の色と同じ色をしている。
「あなたを呼ぶ為の発信機……。何処にいても繋がっている。そして、呼べばすぐに来てくれる。今も、これからも……」
ルビーは信じていた。
と、背後で突然銃声が響いた。男が銃を乱射し、叫んでいる。ギルが銃を構える。とルビーが叫んだ。
「殺さないで! 彼はフェルの父親なんだ。それに、彼はこれから精神化に入院しなくちゃいけないんだよ。奴は、制裁を受けてもらわなくてはいけない」
ギルは頷いて、男の手を撃った。その手から拳銃が落ち、男はヒイヒイ悲鳴を上げた。
「僕ね、この病院を買うよ。そして、あの男に治療してやろうと思う。彼は、特別室の患者だからね」
翌朝。ルビーはギルの運転する車で病院に来た。赤十字の印を見て彼は同様した。
「病院? いやだよ! 僕はもう何処も悪くない!」
「喚くな! おまえじゃない。ここには治療を必要とする患者がいる。そう言ったのはおまえじゃないか」
「僕? そんな事言った? 知らないよ。まるで覚えていない」
ルビーは怪訝な顔をした。
「忘れてしまったのか? フェリックスの事も……」
「フェリックス……。可哀想なフェリックス……けど、僕はもう、彼に何もしてやれない」
と俯く。
「出来るさ。さあ、着いたぞ」
駐車場に車を止めるとギルフォートはさっさと車を降りた。ルビーも渋々後に続く。
「お早うございます。院長先生」
玄関ホールを入るときびきびとした看護士がギルフォートに挨拶した。
「院長先生だって? ギルが……?」
ルビーが驚いていると、また、別の職員が来て今度はルビーに向けて挨拶した。
「お早うございます。副院長先生」
「お、お早うございます。あの、僕……」
とギルの後ろに隠れて震えている。
「お早うございます。院長先生。それに、副院長先生」
職員達が次々とやって来て挨拶する。
「どうして? 何で僕が副院長なの?」
「おまえがこの病院を買ったからだ」
「僕が?」
ルビーは納得が行かなかった。白衣の人を見ると寒気がしたし、病院の中に漂うアルコールの匂いを嗅いだだけで眩暈がした。
「帰ろう? 帰ろうよ、早く……。僕は早くここから出たい」
ギルフォートの袖を掴んでルビーは言った。
「だめだ。今日は特別な患者の治療がある。それに、おまえは音楽療法のドクターとしてここにいる。午後からは患者達の為にホールでコンサートを開く予定だ」
それを聞いてルビーはくらくらした。
「また、あの薬が必要か? なら、おれがその薬になってやる」
「え?」
驚いて見上げるルビーの青ざめた額に彼はそっとキスをした。
「ギル……」
それから、そっと抱き締めて、やさしく頭を撫でてやる。
「ギル……」
泣きそうな目で彼は笑った。そして、じっと目を閉じて言った。
「本当だ。この薬はすごくよく効く……。あんな紛い物の麻薬なんかとは違う……」
ルビーは今まで見せた事がない安らぎと信頼の表情を彼に向けた。
(ああ。この幸せをほんの少しだけでもいい。フェルに分けてあげる事が出来たなら……)
しかし、それは叶わない。
「みんなが僕をギルのお人形だと言うけれど、僕はあなたのお人形でよかったよ。もしも、あいつのお人形になんかされていたら、僕、とても正気ではいられなかったと思う」
「環境要因は大きいさ。どんな親の元へ生まれ、どんな人間との出会いがあったかでその人間の生き方や性格まで変わってしまう。フェルは、ある意味、そうした環境の犠牲者かもしれない」
「そうだね。僕、フェルの為にも怖がらず、ちゃんとやるよ」
そうして、彼らは地下室の厚い扉の向こうに設えられた特別室に来た。窓枠には頑丈な鉄格子がはまり、防音室のように分厚い扉には二重の鍵がはめられている。それを外して中へ入ると狭いコンクリートで固められた部屋。そこに一つだけ置かれたベッドには男がくくり付けられていた。
「気分はどうです?」
ギルフォートが声を掛けると、男は血走った目でこちらを睨みつけた。
「気分はどうかだって? 最悪に決まっているだろう!」
男は手足に付けられた鎖をジャラジャラ鳴らしながら喚いた。
「私を放せ! 今すぐ解放しないと酷い目に合わせるぞ!」
「酷い目ってどれくらい?」
とルビーが訊いた。鞭を振るって、
「これくらい?」
と聴き、鎖で腕を締め上げては微笑んで訊いた。
「ねえ、どれくらい?」
「や、やめろ! 貴様、自分が一体何をしているのかわかってるのか? こんな事をして、ただじゃ済まさんぞ!」
「こんな事? 昔、あなたやあなたのお父様が僕にした事に比べたら序の口だよ。それに、フェルの苦しみに比べれば……何倍にしたっておつりが来そうだ」
「フェルだと?」
「そうだよ。お人形も持ち主を間違えたら悲惨だって事さ。もっとも僕達お人形には持ち主を選ぶ事も認められていないんだけどね……。フェルは外れちゃったんだね」
哀れな目で見下ろす。
「黙れ! この怪物め!」
男は悪口雑言並べ立てるとせせら笑うようにギルを見た。
「なかなかよいしつけをしているようだな? 人形遣い! だが、いつまでもおまえらの天下でいると思うなよ」
唾を飛ばして男は言った。
「消えろ! 消えちまえ! みんな、みんな、おれの前から消え失せろ! みんな、おれのものだ! フェルもこの病院も何もかも……! 誰にも渡さないぞ! この盗人め! 悪魔め! 出来損ないのガラクタの、成り損ないのゴミヤローめ! 失せろ! 消えろ! この悪魔!」
男はいつまでも恨みつらみの罵りの言葉を吐き出している。
「注射を」
ルビーが言った。ギルフォートは頷いてポケットから注射器を出した。そして何度も男の腕に突き刺すと微かに唇の端を上げて言った。
「では、何かあったらナースコールを押して下さい」
と途中で寸断されているコールボタンを手に握らせた。
「ああ、ギル。ごめんなさい。また、薬の分量間違えた」
あっけらかんとルビーが言った。
「仕方がないなあ。おまえはいつまで経っても数を間違えるんだね。でも、まあ、気にする事はない。少々苦しむ時間が長くなる程度だからさ」
「ねえ、じわじわと神経が侵されて呼吸が止まってしまうのにはどれくらいかかるの?」
「そうだな。およそ24時間ってとこかな?」
「それだけ? 甘いね、僕達も……。それでフェルの苦しみが癒される訳ないのに……」
「おまえのそれもだろ?」
ルビーは頷くとじっと男を見て言った。
「すごく痛くて苦しいかもしれないけど、たった24時間だってさ。何てやさしいギル。僕の最高の人形遣い……。さようなら。僕とフェルが味わって来た痛みをおまえに返すよ」
と言ってガチャンと扉を閉めた。錠の音がやけに大きく響き渡り、二つの靴音はゆっくりとそこから遠ざかって行った。
ベッドに独り取り残された男はジタバタと暴れると大声で何かを叫んでいる。それは怒りと悲しみのようでもあり、取りとめもない単なる言葉の羅列のようでもあった。それは獣のような唸り声を上げ、意味不明な絶叫を繰り返すと、やがて、静かに闇の中に落ちていった……。狂気の中で目覚め、狂気の中に怯え、一切の恐怖を自らの中に見出し、堕ちて行くのだ。人は長い時間、独りぼっちで闇の中にいると発狂すると言われている。しかし、それは、周囲の闇のせいでそうなるのではない。自らの心の闇の恐怖に捕らわれ、自分を見失ってそうなるのだ。それは、精神科医のこの男でさえ、逃れる事は出来なかった。
「でもね、たった一つわからない事があるんだ」
ルビーが言った。
「何故、あの時、フェルは僕の手を払い除けて行ってしまったのだろう? あんな酷い事をされたのに……行ったら殺されるとわかっていたのに……どうして?」
「それが、血の濃さというものだ」
「血? 何故? 僕なら絶対そうしない。僕は、手を伸ばす相手を間違えたりしない。たとえ、それが血の繋がった父親の手でも、それが悪いものなのだとわかったら、容赦しない。だって、そうでしょう? 傷つけられる為に生まれて来る人間なんて一人もいない。人を傷つけて幸せになれるなんて嘘だ! そんなの僕は認めない! 人はみんな、幸せになる為に生まれて来るんだ。幸せになりたくて、誰かにやさしくしたくて、愛したくて、それに……。愛されたくて……誰かと巡り会い、そして、その誰かと愛し合いたくて……それだけの為に生まれて来るんだよ……!」
泣きながら訴えるルビーの肩にそっと手を置いてギルは言った。
「おまえはそうなのか?」
ルビーが頷く。
――愛したくて、愛されたくて、それで、ぼくは生まれて来たんだよ。この世界の何処かにいるぼくだけの特別な人に出会う為に……
愛する者の喜びと愛されない者のへつらいと、漠然とした悲しみが人々の心に変化をもたらした。ルビーの弾くピアノ……。その美しい旋律の影にいつも潜む深い悲しみと絶望と狂気……。そして、微かな細い光……。
(すがりたいのは僕……いつも弱虫で泣きたいのは僕だったんだ)
けれど、思いとは対照的に、彼のピアノは人々を救い、彼の心は救ってくれなかった……。
――フェリックス……幸運な子……
――ルビー……その情熱と命を宿した赤い宝石……
彼はそっとギルフォートの手を握る。その手に通う血の温もりを確かに感じていたくて、いつまでもそうしていた。
Fin.
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