ダーク ピアニスト
前奏曲5 遥かな薔薇と漣の記憶……
「あ! アルの絵だ!」
ルビーが言った。それは,光に満ちた美しい森の絵だった。そう。ドレスデンの祭の夜に見たあの森の絵だ。
「ほう。君はアルモスの事を知っているのかい?」
マルコ ヴィスタロッチが感心したように言った。
「うん。僕達、お友達なの」
ルビーはうれしそうに言った。
「そいつは驚いた。あの変わり者の男に友達ができるとは……」
マルコが緩やかな笑みと共に言った。
「変わり者?」
ルビーが振り向く。
「そうさ。奴は絵描きとしては超一流。だが、あの風貌と性格が災いして人を寄せ付けない。まったく惜しい男だよ」
「惜しいの?」
ルビーはそれを聞いてクスクスと笑った。
そこは、マルコの私邸。幾つもあるコレクションルームの一つだった。そこに、マルコが集めたとっておきのコレクションが飾られている。ルビーはもう4ヶ月近くもここに滞在していた。あの100回連続コンサートのあと、彼は体調を崩し、ここで静養させてもらう事になった。しかし、今はもう全快といってもよい程元気になった。そうなると、ルビーはちっとも落ち着いていない。広い屋敷の中を覗いたり、美しい花の庭を散歩したりと忙しい。彼は楽しそうだった。マルコは時間が許す限り、そんな彼をいろいろな場所に案内し、その素直な反応に満足していた。
そして今日、初めて入ったこの部屋で、ルビーはこの絵を見つけたのだ。マルコは、じっと絵を見ているルビーと、その絵の中に降り注ぐ繊細な虹のような光を見つめた。
――あんた、おれの絵が欲しいって言ってたよな?
突然掛かって来た電話で男は言った。
――売ってやってもいいぜ。五百万ユーロ出すならな
一方的な商談だった。しかし、マルコは承知した。変わり者のこの男が自らの絵を売るというのだ。どういう気紛れか知らないが、この機会を逃せば次はない。アルモスとは、そういう男なのだ。マルコは即断した。五百万ユーロは決して安い値段ではなかった。だが、彼の絵にはそれ以上の価値がある。
それから数日すると、約束通り、男はその絵を携えてやって来た。
――急に金が必要になったんだ。
アルモスはそれだけ言うと取引を終えて急いで屋敷を出て行った。残された絵は本当に見事だった。マルコは大いに満足した。
「でも、彼はいい人だよ。僕にやさしくしてくれたんだ」
ルビーの言葉にマルコは思わず目を丸くした。
「奴が君にやさしくしただって?」
「うん。マルコだって僕にやさしくしてくれるでしょう?」
何の屈託もない微笑み。そんな彼の何処にも非情な殺し屋としての影はない。
(「ダーク ピアニスト」か……。ジェラードもまた随分罪な事をしたもんだ)
マルコはふと、向かいの壁の片隅にカーテンが掛かっている絵を見つけて微笑んだ。
「おいで。いい物を見せてやろう」
「なあに? もっといい物を持っているの?」
ルビーはうれしそうだった。
「すごいね。ここは宝の山で出来ているみたいだ」
きょろきょろとあちこち見回してルビーは言った。それを見て、マルコもうれしそうだった。
「だが、君という宝石には叶わないよ」
そう言って彼はその絵の前に立つとさっとカーテンを開いた。
「これが誰かわかるかい?」
それは長い銀髪を靡かせて馬に乗る少年の絵だった。
「もしかして……ギル?」
「そう。これは17才の時の彼」
「きれい……。それに、髪こんなに長かったんだ」
「ああ。似合ってたのに残念だよ。18になって兵役につくからとバッサリ切ってしまったんだ。以来、ずっと髪は短いままにしているようだね」
「ふうん」
ルビーはいたずらっぽい表情をして男を見上げた。
「もしかして、マルコが悪いことしたせいじゃない?」
「悪いことって?」
「温室の中で僕にしようとしたこととか……。ひょっとして、ギルにもしたんじゃない?」
――何が美しい薔薇を見せたいだ! このおれに指一本でも触れてみろ。すぐにあの世へ送ってやる
組み伏せられ、突きつけられた銃口の影……。その向こうで少年のエメラルドの瞳が自分を見つめる。今は遠い幻の少年……その銀色の影がゆっくりと霞み、目の前の彼に同化して行く……。
――触れるな! 僕は僕だけのものだ
幻の薔薇が淡い幻想の時を刻む……。
「ハハハそんなこと……」
マルコは笑って手を振った。が、それから声を潜めて言った。
「あの時はほんと、命拾いしたよ」
「命拾い?」
「そうさ。後にも先にも君達だけだよ。私を本気にさせたのは……」
「本気?」
「ああ。偽りや戯れでなく、本気で愛したのも、私を恐怖させたのも……」
「だって、あの時は……」
ルビーが言った。
「ハハハ。いいんだよ。こういう商売をしているとね、命を狙われるなんてことはざらにあるんだ。でも、あの時は本当に死ぬかと思った……」
マルコはすっと目を細めて遠い時間を見つめる。
――弟は薔薇が好きでした
それは温室の中だった。すらりと背の高い少年は透けるような銀の髪をしていた。緑色の瞳は植物のそれと呼応し、まるで銀色の光を纏った精霊のように見えた。
「あなたが作ったのですか? こんなに美しい薔薇は初めて見ました」
淡々とした口調であったが、彼は新鮮な感動を覚えていた。
「特にこの大輪の薔薇がいいな。淡くて上品なクリーム色が……。ああ、ミヒャエルに見せてやりたかった……」
普段は我を張り、虚勢を張っている少年も植物達の前では素直だった。本当は寂しいのかもしれないとマルコは思った。
両親を亡くし、弟を失い、世間でも学校でも居場所のなかった彼、ギルフォート グレイス……。そんな彼の才能を見い出したのはジェラードの妻ルイーゼだった。誰にも従わず、人を信じようとしなかった彼がただ一人信頼した女性。ルイーゼは美人で賢く、女性にしておくにはもったいない程の度胸と気風のよさで仲間からも慕われていた。そんな彼女にまだ少年だったギルフォートが慕情を寄せたとしても、それは当然のことだったかもしれない。しかし、そんな彼女も36才という若さでこの世を去った。癌だった。その時、娘のエスタレーゼはまだ12才だった。病床を見舞ったギルに、彼女は願ったという。
――これからは、ジェラードの片腕としてあなたがグルドを支えて行って欲しい……
ルイーゼは彼の才能を高く評価していた。そして、その御目がねに叶って彼は著しく成長し、今では本当にジェラードの片腕としてグルドを担っている。あれから12年が過ぎ、グルドは更にもう一つの腕であるルビーを手に入れた。
(ジェラードの奴、一体どれほどの権力を手に入れたら満足するのか)
世界は今、二つの闇の組織が勢力を拡大しつつある。グルドと更に過激なテロ活動を展開しているレッドウルフだ。マルコの会社はそのどちらとも取引がある。ビジネスのことなのであまり私情を挟むことはないが、この二つの組織が敵対することのないよう望んでいる。
「ねえ、僕とギルとどっちが好き?」
突然振り向いてルビーが訊いた。
「もちろん君さ」
そう言うとマルコはさり気なく腕を回して来る。
「気が変わったならいつだってここに来ていいんだよ。私はいつでも君を歓迎するからね」
「もうっ。その話は済んだことでしょう? 隙あらば僕に触れて来るんだから……」
とルビーが口を尖らせる。
「ハハハ。ごめんよ。あまりに可愛いもんだからついね」
「僕はあなたのお人形じゃないんだよ」
「わかってるさ。ギルのお人形なんだろう?」
「ちがーう!僕は誰のお人形でもないの。僕は……」
「そうだ。そいつは、おれの聖なる天使だ。気安く触れるんじゃない」
突然扉の方から野太い男の声がした。
「アル!」
相変わらず寝癖のついたぼさぼさの髪と擦り切れたジーンズの上下という出で立ちの彼がのっそりと入って来た。
「アルモス。いつ着いたんだね?」
マルコが言った。
「着いたも何もおれはそいつがここへ来た時からずっといた」
「何だって?」
マルコは驚いた。
「ずっとって何処にいたんだ?」
「ここは広いからな。ごろつく場所なんぞいくらでもある」
マルコはそんな報告など受けていなかった。もし、それが真実ならば大変なことだ。無防備に侵入者を屋敷に常駐させていたことになる。
「何てこった。我が家のセキュリティーはどうなっているんだか……」
マルコが嘆く。
「森の絵、マルコに売ったの?」
ルビーが訊いた。
「ああ。一文無しじゃおまえのあとを追えないからな。だが、もう金が尽きた。もう1枚買ってもらおうと思ってな」
彼はおもむろに1枚の絵を見せて言った。
「どうだ? この絵を550万ユーロで買わないか?」
それはあの海の絵だった。
「え? この絵を売っちゃうの?」
ルビーが残念そうな顔で訊いた。
「資金がねえんだ」
「資金がってね、この間渡した500万はどうしたんだ?」
マルコが言った。
「そんな金がいつまでもあると思うか?」
「地道に暮らせば10年くらいは持つだろうに……」
「そんなのおれの性に合わねえ」
「困ったもんだ。そういえば、この間、おまえの記事が出ていたぞ」
「ああ。例のホテルのだろ?」
と言ってアルは唇の端を上げて笑んだ。
それは、フランスのある地方でのことだった。アルはルビーを追って彼が泊まっているそのホテルに宿泊しようとした。が、その身なりのだらしなさを見たホテルの支配人に宿泊を断られた。すったもんだの末にそれに気がついたルビーが口添えしてくれてようやくホテル側も納得し、宿泊を受け入れてくれたのだが……。そこで彼は我侭振りを発揮してホテルの者達を混乱させた。ホテルにとってはとんでもなく迷惑な客だったのだ。しかし、それでもルビー達がチェックアウトすると彼も出て行ったので、支配人はほっとした。が……。
「ふん。このままで済むと思うなよ」
いかにも厄介者扱いされたことに対して腹を立てた彼は後日、ゴシップ好きな新聞にリークした。
その記事の載った新聞をマルコが見せてくれた。
「天才画家であるアルモス G ガザルフ氏をフランスのホテルが宿泊拒否! 同氏は周知の通り風景画家として定評があり、美しい景色を求めて時には自然の中へ踏み込むことも……。そのため、ホテルに到着した時、たまたま僅かに土などが洋服に付着していた。それをホテル側は見とがめ、言い掛かりをつけて宿泊を拒否しようとした。これは外見による差別的な行為であると言えないだろうか? この行為は人権問題にも発展する由々しき問題であり、繊細な芸術家の魂は酷く傷つけられたと同氏は語っている」
添えられた写真では髪もきちんと整えられ、びしっとスーツを着込んだアルが傷心の表情を浮かべている。
「これってアルなの? 何だか別の人みたい」
その写真を見てルビーが言った。
「あのホテルはあのあと大打撃だったそうだよ。苦情の電話が殺到したとか」
「当然だ」
アルモスは言った。
「あのホテルの支配人はおれの芸術にけちをつけやがったんだからな」
「芸術?」
ルビーが訊いた。
「そうだ。偉大なる芸術であるこのおれと、おれを庇ったおまえのことまでけちつけやがったんだ。おまえこそはおれの生きた芸術。誰であろうとおまえの価値を落とすような奴は許さない」
「おいおい。アルモス。おまえ、誰にものを言ってるかわかるか? 深入りすると命が幾つあっても間に合わんぞ」
「わかってるさ。だが、おれはおれのやり方で通させてもらう。いいな? ルビー」
「僕は別に構わないけど……」
「おいおい、いいのかい?」
「うん。ジェラードもギルもお仕事の邪魔にならないならいいって。その代わり命の保障はしかねると言ってたけど……」
と首を竦める。
「ふん。上等だ。おれは元々1匹狼だからな」
「狼? それじゃギルと一緒だね」
と言ってルビーが笑う。
「ギルフォート グレイスか」
アルは不満そうだった。
「アルはギルが嫌いなの?」
ルビーが訊いた。
「そうだな。ツンと済ましてお高いところが気に入らない」
「そいつはお互い様だな」
いつの間にか入り口の所に立っていた男が言った。
「ギル! 来てくれたの?」
ルビーがうれしそうに駆けて行く。
「一人で放っておくとすぐに迷子になるからな。迎えに来た」
「ありがと」
とルビーは言った。が、アルはずけずけと近づいて言った。
「そうやって甘やかしてばかりいるからいつまでたっても独立出来ないんだ。それとも、子離れ出来ずにいるのはあんたの方か?」
「どういう意味だ?」
二人の間に険悪なムードが漂った。
「まあまあ二人共そんなことでいがみ合わないで、こっちでお茶でも飲まないか?」
マルコが言った。が、二人はまだ臨戦態勢のままだ。
「貴様に何がわかる?」
「何もかもだ」
「こいつと1番長く付き合っているのはおれだ」
ギルフォートが言った。
「時間のことなんぞ言って何になる?」
「何もわからないなら黙ってろということだ」
「何もわからないだと? あんたこそこいつの一体何を知ってると言うんだい? おれは真の芸術家としてこいつと魂の交流をした。それこそあんたにはわからない高尚な交わりをね」
アルモスも言い返す。
「オブザーバーの分際で意見を言うなどおこがましい限りだ」
「女と銃にしか興味のない男に言われたくないな」
「なら、貴様は何だ? 常識も守れないような格好でホテルやレストランに迷惑掛けたり、飲み屋で女にちょっかい出してトラブルを起こしたり、出入り禁止になった店が星の数ほどあるそうじゃないか」
「あんただって同じ穴のむじなさ。知ってるんだぜ。あんたも女には苦労してるそうじゃないか。坊やのお守りの片手間にいい加減な扱いされたって女達がブーブー文句言ってたぜ」
「何だと?」
「へえ。気に入らないってか? おれもさ。決着つけるなら表へ出ようぜ」
「ちょっと! 二人共やめてよ。僕のことで喧嘩しないで」
ルビーが言った。
「そうそう。喧嘩はよくない。見ろ。子供が怯えてるじゃないか」
マルコが言った。
「子供? それって僕のこと?」
それを聞いてルビーが泣き出す。
「あーん。酷いよ。僕、もう子供じゃないのに……」
「あ、ルビー、別にそういう意味じゃ……」
マルコが慌てて宥めようとするが、ルビーは更に激しく泣いた。それを見て二人がマルコを睨みつける。
「泣かしたな?」
「繊細な芸術家の魂を傷つけるとはいい度胸だな?」
ルビーは覆った手の指の隙間からじっと成り行きを見ている。
「まあまあ、二人共、私だって君達に負けないくらいルビーのことを愛してるんだからね」
マルコの言葉にまた、ルビーはあーと声をあげると二人の男の手を取った。
「おじさんが怖いこと言うよ」
「泣くな。帰ったらイチゴキャンディーを買ってやるから……」
「ほんと?」
パッとうれしそうにギルを見やるルビー。
「そうだ。この海の絵はおまえにやろう」
とアルモスも負けじと言った。
「え? ほんとに? 僕にくれるの?」
「おまえ、この絵が気に入ってたんだろ?」
「うん。でも……」
「心配するな。代金ならマルコおじさんがちゃんと払ってくれるさ。な? そうだろう?」
アルに睨まれてマルコは首を竦めて言った。
「わかった。そうするよ。ルビーには、この間のコンサートの時の借りもあるからね」
「でも、そうしたら、子供達に送る寄付は?」
「ハハ。心配しなくても約束はちゃんと守るよ。それはそれ。これはこれだ」
「よかった。それなら、僕、この絵をもらうよ。ありがとう」
と言ってルビーが笑ったので、和やかな雰囲気になった。
遠い漣の向こうに
君の命はあるのだろう
時が流れる砂浜に
眠る記憶の奥深く
封印されたその奥で
記憶のネジを巻いている
青い歴史のその記憶
星は宇宙と会話する
海は光と会話する
記憶の底に沈んだ君と
刻んだ記憶の確かさで
今も漣 聞こえてる
遠い海から流れつき
浜辺で眠る巻貝一つ
そっと心に当てたなら
遠い歴史を語り出す
青い歴史を紡ぎ出す
未来を生きる人達に……
今も記憶は流れてる
今も心は繋いでる
遠い未来を波打って
遠い記憶を呼び覚ます
巻貝の記憶
耳に当て
心はいつも漣を聞く……
巻貝の夢
僕の中……
記憶の君と会話する
永遠に降り続く
漣の向こうで……
ルビーの奏でる音楽をアルが綴る。ギルはじっと青い空を見、マルコはそんな彼を見ていた。ルビーはもうその絵に映る時間を越えて遥か彼方の波を見ていた。
――マルコ、ねえ、見て! 海が輝いていてよ
それは海辺の村だった。
――そっと耳に当ててごらんなさい。遠い記憶が波のように聞こえて来るわ
(遠い記憶か……)
ふと見ると黒い瞳の彼がじっと彼を見上げている。
「マルコ……?」
微かに首を傾げるとさらさらとした髪が肩に掛かってほんのり薔薇の香りが漂った。
――世界中の美しい花を集めて育てたいわ
「アイリーン……」
男の胸に去来するやさしい記憶……。それは穏やかな漣のように繰り返し、彼の心で囁いていた……。
「え? マルコって結婚してたの?」
空港に向かう車の中だった。
「らしいな……おれがまだ彼と出会う前のことだが……。薔薇と海が好きな黒髪の女だったそうだ」
「海が……? それじゃ、僕がこの絵をもらってしまって悪かったかしら?」
「いいや。それでよかったのさ」
後部座席でアルが言った。
「奴は自分自身の始末は、きちんとつけられる奴さ」
描きかけのスケッチブックをパタンと閉じて彼は言った。
「誰かさんと違ってね」
バックミラー越しに鋭い視線が返って来る。
「さてと、おれは空港に着くまで一眠りさせてもらう」
そう言ってアルは目を瞑った。
「ふん。人の車に勝手に乗り込んで来やがって……。何て図々しい奴だ」
運転席でギルが悪態をつく。
「そうだね。でも……」
ルビーはイタリアの青い空を窓越しに覗きながら思う。
(みんな、それぞれに過去があるんだ。心のずっと深いところに……。消せない波の記憶が……。ギルやマルコ、そして、アルや僕自身にも……)
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