ダーク ピアニスト
前奏曲10 レコーダー



宙に掲げた黒い円盤を、彼は神妙な顔をして見つめていた。窓の外には風が吹き、耳の奥では音楽が鳴り続けている。
「これって何処から来るのかな?」
人差し指を立て、爪の先をそっと円盤の溝に滑らせてみた。が、そこから聞こえる音は何もなかった。
「変なの。ステレオの回転台の上なら聞こえるのに……」
足元のカーペットの上には、レコード盤が剥き出しのまま乱雑に散らばっていた。

「ルビー! 何をしているんだ?」
開け放たれたままになっている入り口に立った銀髪の男、ギルフォート・グレイスが訊いた。
「何って、見てわからない? 音楽を聴こうとしてたんだよ」
ルビーは首を傾げて言う。
「片付けろ!」
にべもなく男は言った。
「どうして? 僕はまだ何も聴いていないのに……」
ルビーは不満そうに口を尖らせた。

「そもそもレコードをこんな風に扱うんじゃない。傷が付いてしまうだろう」
部屋に入って来て言う。
「ちゃんとやさしくしてあげたよ」
ルビーが反論する。
「埃が付いてしまう」
ため息交じりに男が言う。
「拭けばいいじゃない」
「逆に傷付けてしまう。それに、塵の中には尖った物や固い物もたくさん含まれているだろう?」
「だって、僕は聴きたかったんだもん」
彼は腕を後ろ手に組んで足踏みする。

「だったら、床じゃなくてステレオのプレイヤーにセットすべきだろう」
「壊れてたんだ」
即座に言った。
「電源は入れたのか?」
冷静に訊く。
「コンセントの奥までちゃんと入れたよ」
そう言いながらルビーは並べた円盤の隙間を器用に歩き回っている。男は手前にあったレコードを拾うと、そこに書かれている文字を読んだ。
「マリア・ルーベンス……か」

ジャケットはみんな、並んだ円盤の向こうに投げ出されている。男はつかつかと歩んでルーベンスのジャケットを手にしてレコードを入れた。
「それ、好きなの?」
ルビーが来て訊いた。
「そうだな。昔、よく聴いた」
そう言うと男はジャケットを見つめた。

――お茶の時間にルーベンスの曲はどう? 彼女のソプラノは耳に心地よいわ


思い込むのは悪い癖
グラスにたゆたう光のように
思い儚く閉じて行く


「懐かしいな」
ぽつりと呟く男の瞳には過去が映し出されていた。
「僕は知らないな。その人」
「昔の歌手さ。おまえが生まれる前に死んだ」
「ふうん。じゃあ、ギルも子どもだったんだね」
「ああ。俺が知った時にはもうこの世の人ではなかったよ」
「じゃあ、何で懐かしいの?」
「俺の……知り合いがよく聴いていたからさ。特に彼女が作曲した1曲がその歌声と共に刻まれている」
「それを好きだった人も、もういないんだね」
背中を向けたルビーは窓の向こうを見つめ、ギルフォートはそのシルエットに頷いて見せた。

「ねえ、どのレコードがどのジャケットに入るか当てっこしない?」
不意に思いついたようにルビーが言った。
「そいつはいい訓練だ」
男が言った。
「ちゃんと文字を読んで、全部合わせて入れておけ!」
「ギルはやらないの?」
「みんな、おまえが出したんだろ?」
「そうだけど……。ねえ、じゃあ片付けてる間、そのレコードを聴かせてよ」
男の前に回り込んで言った。

「ステレオは壊れてるんじゃなかったのか?」
男が訊く。
「ギルがやったら機嫌を直してくれるかもしれないよ。僕が試した時には丁度お昼寝の時間だったのかもしれないし……」
「わかった。だが、もし壊れているようなら修理に出すしかないな」
男は部屋の隅にあったプレイヤーに円盤を乗せた。電源を入れるとレコードは回転を始め、針のアームが動いて溝に落ちた。小さなノイズの後で、響いて来たのは豊かなピアノの音だった。それから彼女の美しい歌声が流れて来た。


思い込むのは悪い癖
グラスにたゆたう光のように
思い儚く閉じて行く
絡めた小指の温もりに
震える肩の向こう側
さざめく星の子守唄
夢を見よう
あの空へ
風を渡ろう
月の彼方へ
夢を見よう


「素敵だね。まるで楽器みたいな声だ」
ルビーはうれしそうに言うとレコードを何枚も重ねて抱いた。
「ほら、1枚ずつちゃんと入れろ。そんな風に扱ったら傷が付く」
「大丈夫だよ。僕はちゃんと……」
突然針が引っ掛かって、何度も同じ場所で飛んだ。


夢を見よう
  夢を見よう
    夢を見よう
      夢を……


「傷付いちゃったの?」
ルビーが心配そうに駆け付ける。
「僕のせい?」
何度やり直しても、同じ箇所で針が飛んだ。


夢を見よう
  夢を
    夢を……


男はスイッチを切ると円盤をジャケットに戻した。
「これは随分古い物だから、元々傷付いていたのかもしれない……」
口調は淡々としていたが、視線は名残惜しそうにジャケットを見ている。
「ごめんなさい」
ルビーは申し訳なさそうに詫びると抱えていたレコードをまとめてソファーに置いた。それから、ピアノの方へ走って行くとその前に座った。
「代わりに僕が弾いてあげる」
言うなり、彼は蓋を開けると徐にその曲を弾き始めた。
「弾くと言ってもその曲は……」

ギルフォートが求めていた曲はクラシックでもメジャーな曲でもなかった。ルビーが知りようもない古い楽曲。しかし、その曲を、彼は寸分違わず弾いていた。そして、前奏が終わると歌が始まる。


思い込むのは悪い癖
グラスにたゆたう光のように
思い儚く閉じて行く
絡めた小指の温もりに
震える肩の向こう側
さざめく星の子守唄
夢を見よう
あの空へ
風を渡ろう
月の彼方へ

夢を見よう
あの空へ
風を渡ろう
星の彼方へ
夢を見よう
もう一度
遠い貴方の胸の中で


マリアがそこに来て歌っているように思える程、そっくりな声だった。ルビーはとっくに声変わりしていて、普段の声は低くなっていた。が、目を閉じて聴いたなら、誰もが女性だと思うだろう。それは透明な水のように清らかな歌声だった。そして、レコードが途切れた部分を過ぎても、ルビーは伴奏を続け、歌う事も止めなかった。知る筈のないその歌を彼は歌い続けたのだ。
「この曲を聴いた事があるのか?」
演奏が終わると、男が訊いた。
「ううん。さっき初めて聴いた」
「しかし……おまえは正確に歌っていただろう?」
男には納得が行かなかった。

「レコード……」
少し考えるようにルビーが言った。
「レコードには音源が刻まれているのでしょう?」
かつかつと指を動かして言う。
「そうだ。だが、それを再生する機械がなければ取り出す事は出来ない」
男の言葉に彼は頷きながら答えた。
「うん。だから、僕もさっきは無理だったの。指でなぞるだけではわからなかったんだ。でも、さっきプレイヤーで再生してくれたから……。風と繋がったんだよ」
「理解し難いな」
男が言った。
「そういうの、アカシックレコードって言うんじゃないの?」
ルビーは得意そうだった。

「アカシックレコードだって?」
「僕、覚えたんだ。レコードってそういう意味でしょう? 音を記録して残す物」
「レコードは技術だが、アカシックレコードは一つの概念に過ぎない。しかも、まだ誰も証明出来ないオカルトのようなものだ」
「僕はわかるよ」
ルビーは男の目を覗き込んで言った。
「俺は不確かなものは信じない主義だ」
「でも、僕の演奏を聴いたでしょう?」
「おまえは元々音楽の才能を持っている。曲の冒頭を聴けば、ある程度類型からパターンを導き出す事が出来たとしても不自然ではないんじゃないのか?」
「ううん。そう言われるとよくわかんないや」

ルビーはソファーに置いたレコードを見つめた。そこには黒や赤や緑色の盤も混じっていた。積まれたジャケットの1枚が滑り落ち、派手なメーキャップをした男達が逆さまになって微笑んでいる。
「それでも、僕達繋がっているんだよね?」
「ああ。そいつは多分、腐れ縁という奴だ」
ギルフォートは自分だけに聞こえる時間を手繰ろうとしていた。

――お茶にしましょう。ギルフォート

「そうなの? でも、僕には見えるよ。人形と人形遣いを繋ぐ運命の糸が……」

――BGMはマリア・ルーベンスの曲で


夢を見よう
もう一度


「くだらないな」
男は不機嫌そうに言うと窓のブラインドを降ろした。夕日はとっくに沈んでしまった。棚の上にあったピエロの人形は傾いている。
「そうかもしれないね」
ルビーは風圧で落ちたピエロの人形を拾うと、そっとソファーに乗せて言った。
「でもね、僕は手放すつもりはないんだ。貴方が笑ってくれるまで……」