ガイストスキャナー


アクアリウム

8 ゴッドハンド


意識は深い闇の底へ落ちて行った。そして、渦巻く風は四方に伸びて、地を這い、空を砕いた。人も建物も飛ばされた。支柱からゴンドラの輪が外れ、遥か上空で高速に回転している。測定不能な力が疾風の如く吹き荒れ、風の暴力が街を舐め尽くしていた。
そうして、誰にも状況が掴めないまま、数十秒が過ぎ、デニスが我を取り戻した時には、すべての音が掻き消され、ただ頭上に広がる巨大な闇が彼らを圧殺しようとしていた。静かなる殺意。そして、凄まじいまでの静寂と力。空を覆う漆黒の手が何もかもを押し潰そうとしていた。

「ウーリー!」
デニスが叫んだ。その声は確かに空気に触れて振動した。が、そこにへばり付いた闇がその振動を打ち消した。すべての灯りが消えていた。少年の姿は何処にもなかった。部下やリンダの姿も見当たらない。心の中の絶望を認識したかのように闇がゆっくりと降りて来る。前方で微かに金属が軋む音がした。それから、辛うじて耐えていた建物の外壁がばらばらと剥がれ落ちる。背後でも、側面でも少しずつ圧力が加えられ、残存していた建物が悲鳴を上げる。
「これも風の力なのか?」
デニスは驚愕した。これほどまでに大規模で圧倒的な破壊力を持った者を見たことがなかった。

「本当にこれを全部あの少年が一人でやったのか?」
ペンライトの灯りを透かして彼は見た。その恐ろしいまでの破壊力を……。残っていたのはビルの残骸と鉄筋の骨組み。車は逆さになって潰れ、花壇も道路の舗装も抉り取られ、街灯は折れてねじ曲がっている。被害が何処まで続いているのか見当もつかない。数十メートル先には民家もある。しかし、その先にはただ不気味な闇が覆っている。

「ゴッドハンド……」
デニスは思わずそう呟いていた。人知の及ばないガイストの力……。これをもし、ジョン一人の能力によって起こされた結果だとすれば、それは人類の想像を遥かに超えたものだ。もしもその力を制御できないとすれば、人類にとってそれは恐ろしい脅威となる。そうなれば、国はどう出るか。軍は……。あの少年の父親は命令を下すのだろうか。少年を抹殺せよと……。
「そんなことはさせない」
デニスはジョンの姿を探した。しかし、視認できる範囲にはいない。もしかすると、この力を解放した時、闇に呑まれてしまったのかもしれない。少年はもう、何処にも存在しないのでは……。そう思い掛けた時、誰かが振るペンライトの光が見えた。デニスは走った。向こうからも駆けて来る人影が見えた。二人。それはウーリーとリンダだった。

「無事か?」
デニスが訊いた。
「はい。風に吹き飛ばされて何とか爆発に巻き込まれずに済んだんです」
ウーリーが答える。
「わたしは、気がついたら、花壇の囲いの中にいて……でも、そこにあった筈の植物はなくなっていて、柔らかい土だけがあったんです。何だかまるでわからなくて……ジョンは……? 彼はどうなったんですか?」
心配そうに少女が訊いた。
「わからない」
デニスは正直に答えた。

「彼女は狙われていたんです。テロリストの一人に……」
ウーリーが言った。
「多分、ジョンには見えていたんです。それで彼はリンダを助けようとした。それで銃ごとその男を弾き飛ばしたんです。風の力を使って……」
「それで、その男は?」
デニスが確認する。
「死亡しました。潜んでいた建物が倒壊して、下敷きになっていました」
デニスは頷き、それから空を仰いだ。闇の手が近づいていた。
「ジョンは見なかったんだな?」
ウーリーが頷く。

「ミセス マグナムは?」
しかし、その問いにはウーリーは首を横に振った。
「周囲は瓦礫に覆われていて……近づくことができません」
「そうか。では、一刻も早くこの状況を打開して、婦人の救出を急がなくてはならない。それにジョン・フィリップの捜索も……」
リンダが青ざめた顔で頷く。その視線が何かを捉えた。それは遠くから接近する車両の群れだった。
「軍か?」
デニスは軽く舌打ちすると二人を促してジョンの発見を急がせた。
もう一刻の猶予もなかった。この街の運命も、少年の命も……。

遠方で落雷のような音が響いた。
「爆発か? いや、違う。あれは……」
デニスはあまりに無残なその光景に身体が硬直し、前に歩を進めることができなくなった。神の手は街を押し潰したのだ。空が抜けて落ちた。そんな比喩が最も的確な表現になるだろう。闇の手が落ちた瞬間、そこにあったすべての物が風に呑まれ、眼前から消えた。道路には軍の車両もあった筈だが、それもまた一瞬にして呑み込まれた。人間もいた筈だが、悲鳴さえ上げる間がなかった。
「ジョン……!」
デニスは振り絞るような声で叫んだ。
「ジョン! やめるんだ! この力を解放してはならない!」
しかし、返事はなかった。代わりに近づいて来たのは軍のマランツ中佐だった。

「中継を見た。軍は周囲30キロを危険地域として封鎖した。まるで戦場か嵐の去った跡のようだ。説明してもらおう。いったい何があった? これはテロリスト共の仕業か? 新型爆弾か? それとも未知なる武器による攻撃なのか? 人質の少年は? テロリスト共は何処に行った?」
「風の力です」
デニスは言った。
「テロリスト達は殲滅しました。これはすべてガイストの暴走による災害です」
「何を馬鹿な? 気でも違ったか?」
「いいえ。これは闇のエネルギーの暴走によって引き起こされた結果なのです」

「誰がそんな力を持っていると言うのだ?」
「ジョン・フィリップ・マグナムです」
「たわけたことを言うな! それで、そのジョン・フィリップは何処にいる?」
「わかりません。多分、闇の風の暴走に巻き込まれたのではないかと……」
「街が一つ壊滅したんだぞ!」
「だからです。早くここを引き上げないと危険です。ガイストはすべてを破壊しようとしているのです。偉大なる神の手が街を押し潰そうと……」
「君は少し休暇を取った方がいいようだな」
マランツは足早にそこを立ち去ろうとした。

「待ってください!」
デニスが止めた。マランツは周囲の建物を捜索するよう部下に命じた。重厚な装備を施した車両がそれぞれの方向に散って行く。頭上に細い光の筋が微かに走る。二度目の暴威が振るわれる。そうなれば、このいったいが潰される。デニスは懸命に叫んだ。
「戻ってください! すぐにここから離れないと危険です! ジョンが……神の手がすべてを無に返そうとしているのです!」

闇の空は不気味に嘶いていた。それはゆっくりと高度を下げ、圧力を掛けて来た。高いビルの鉄柱が震え、半壊した建物の外壁がぼろぼろと剥がれ落ちる。異様な空気と張り詰めた神経がマランツの足を止めさせた。
「これはいったい……」
「ジョンの力です。ガイストの……」
「信じられん。こんな……」
しかし、もう時間は残されていなかった。空が抜ける。そして、すべてが神の手によって押し潰される。そうしたら、またどこかに移動するのか。そうやって次々と街を破壊し、人間を追い詰め、そして国をも滅ぼそうというのか。それはデニスにもわからなかった。いや、誰にとってもわからないだろう。ただ、長い間身を潜め、怨念と化していたガイスト達が笑っていた。あの高い空の上から、哀れな人間を見下ろして笑っている。

「MGSか……。風の能力者を束ねた特殊部隊だって? 呆れるな。結局何一つ解明できず、何も実践できなかった。たった一人の少年ですら救うことができなかったのか。この私は……!」
男は自分の小さな手の平を見つめ、拳を結んだ。その手が微かに震えている。
「ジョン!」
少女の声が響いた。顔を上げるとリンダが上空を見て呼び掛けている。
「ジョン?」

それは確かにあの子どもだった。少年は虚ろな目をしてじっと地上を見下ろしている。身体は半分闇と同化していた。輪郭どころか境界そのものが見当たらない。
「ジョン! お願い! ここに来て!」
リンダが叫ぶ。
「お願い! ここに来て! あなたを抱きしめたいの。そこにいたんじゃ手が届かない」
ジョンはゆっくりと首を動かして彼女を見た。意識が覚醒し掛けている。
「リンダ……?」
少年の目が彼女を捉えた。
「そうよ。わたし、ずっとあなたを追って来たのよ。ずっと心配で追って来たの!」

「ぼくを……」
少年の目に彼女の顔と、背後に控えた軍の車両が映った。闇に響く低いキャタピラの音。そして、宙に向けられた剥き身の砲塔。
「いやだ!」
少年の脳裏に自分に向けられたカラシニコフの銃口が浮かんだ。

「いやだ! やめて!」
頭上に舞うゴンドラが火花を散らす。
「ジョン!」
リンダが腕を伸ばす。
「怖い!」
少年は後ろへ下がった。彼は裸足で、パジャマ姿だった。
「来て! そのままじゃ風邪をひいてしまう!」
しかし、少年は宙に浮いたまま、視点を固定して身動きしない。瞳に映っているのは黒い光の銃口。そこではマランツとデニスが激しく争っていた。

「この惨事を引き起こした者があの少年だと言うなら、軍はそれを排除しなければならない」
「待ってください! これは大いなる戦力として、敵に対する抑止力にもなる力です。いざとなれば核ミサイルにも匹敵する」
「暴走する核など要らん。危険極まりない兵器だ。今すぐ廃棄すべきだ」
「だからといって何の罪もない少年の命を奪うつもりですか?」
「何の罪もないだって? この惨状を見ろ! 狂気の沙汰だ。こんな……得体の知れない暴力を野放しにして置くなど国にとっての自殺行為だ。命令だ。あの者を射殺しろ!」

狙撃兵がジョンに銃口を向ける。
「やめて!」
少女が叫んだ。
「お願い! ジョンを撃たないで! もう、これ以上、わたしの弟を殺さないで!」
悲痛な叫びが闇に消える。狙撃兵達がちらと上官を見やる。
「構わん。撃て!」
4方向から同時に発車された弾は、どれも少年には届かなかった。
「消えろ!」
渦巻いた闇がすべての弾丸を弾き落とした。
「ば、化け物め! 撃て! 奴を消すんだ! 全弾叩きこめ!」
マランツは狂ったように怒号を発した。

彼らはもはや聞く耳を持たないと判断したデニスはウーリーと共に風のバリアを巡らすとジョンの元へ急いだ。
「裏切り者め! 構わん! 奴らも殺せ! 一人残さず処分するんだ!」
マランツが叫ぶ。と同時にすべての銃弾が彼らを襲った。が、次の瞬間。すっと何かが脇を通り過ぎた。そして、銃弾の雨が止んだ。
「これは……!」
二人は絶句した。そして事態を理解した。神の手が振り下ろされたのだ。闇がすべてを押し潰していた。そこにはもう何もなかった。狙撃兵の姿も、展開していた装甲車の影も、無論、そこで指揮をしていたマランツの姿も無くなっていた。

「恐ろしい……。何という力だ……」
そこに残ったデニスとウーリー。彼らは共に戦慄を覚えた。
「ジョン……」
地上には、放心したように宙を見ているジョンと、彼を支えているリンダの姿があった。少女はしっかりと彼を抱き、固く目を閉じている。身体は小刻みに震えていたが、彼女はジョンを受け入れていた。
「寒い……」
少年が言った。
「すぐに病院へ行かないと……」
リンダはしっかりと目を開いて言った。
「デニスさん、お願い。早くジョンを病院へ……。熱があるんです。感染症を起こしたら、この子死んじゃう!」

飛来する雲はいつもの夜のそれだった。そして、遥か彼方では緊急車両のサイレンも響いている。そして、脇腹をすり抜けるガイストの群れ……。火薬と粉塵と血のにおいが街を冷たく凍てつかせていた。

それから2週間が過ぎた。が、ジョンの意識はまだ混沌としていた。リンダの血液を輸血し、ようやく容態が落ち着き、個室へ移ることはできたものの、心理的なショックが強過ぎたのだろうと医者は言った。
「心理的なショック?」
リンダはテレビのニュースを見ながら呟いた。彼女もまだ病院にいた。そこから出ることを許されなかったのだ。世間では街が壊滅したのは突然起きた直下型の地震のせいだという報道がされていた。大勢の犠牲者が出た。その犠牲者の中に彼女の名もあった。
「死んでなんかいないのに……!」
国から強いられた理不尽な運命を思い、彼女は拳を固く握った。
「死んでなんかいない!」

ジョンの母親の名前もその犠牲者の中にあった。
「可哀そうに……。あの子はまだ自分の母親が死んだことを知らないのね。そして、何故そうなったのかも……」
リンダは花瓶に飾られた花の花びらを数えた。
「だけどあの子とわたし、本当に可哀想なのはどっちなんだろう?」
毟った花びらの数だけ涙が毀れた。
その時、ノックの音が響いた。が、彼女は返事をしなかった。二度、三度、ノックの音は続いた。
「どうぞ」
花びらと涙の跡を消してから彼女は言った。

「リンダ。気分はどう?」
入って来たのはウーリーだった。
「最悪に決まってるでしょ? 病気でもないのに、毎日血を取られてるのよ」
「差し入れを持って来たよ。シュークリームとレバーの焼き鳥」
「レバーには造血効果があるって? 最低! わたし、ジョンのための血液提供マシンじゃないわ!」
「だけど、あの子の命を繋ぐためには君の血が必要だ。どういう訳か、ジョンは君の血液しか受け付けない」

「だからって絞り取るの? あなた達にとって大事なのはジョン・フィリップで、わたしはその彼を生かすための補充燃料に過ぎないって訳なのね?」
「それは……」
ウーリーは言葉に詰まった。そう言われては反論できなかった。できることなら、彼女を解放し、親や友達にも会わせてやりたかった。が、彼女は知り過ぎてしまったのだ。今やジョン・フィリップの能力は彼個人のものではなくなった。そして、その力を知る者も……。すべては国のものになったのだ。ジョンを救うためにデニスは国と交渉し、その力の管理と始動権をMGSに委託させることに成功した。しかし、それは同時に、それと関わった者達の隠蔽が必要だった。街の壊滅は能力者の暴走ではなく、地震による被害だとすり替えたのも彼だ。そして、ジョンの能力が制御可能なものであるということを政府に印象づけた。つまり、災害に襲われた街を救ったのは彼の力によるものであると……。それがなければ、被害はさらに広がって甚大なものになっただろうと……。
確かに、あの時、リンダが彼を抑えてくれなければ被害はもっと広範囲に及んだに違いないとウーリーも思った。しかし、それを逆手にとってジョンを救世主に仕立て上げてしまうというデニスの手腕には呆れるしかなかった。

その日の午後、意識の戻ったジョンにリンダは面会した。
「ごめんね」
少年は彼女に詫びた。
「いいよ。あなたのせいじゃない」
リンダは気丈に言った。
「デニスさんから聞いたんだ。ぼくのために血をいっぱいくれたんでしょう?」
「だから、いいんだって! わたし、レバーの焼き鳥好きだから! 血なんかどんどん増えるもの。それより、あなたはどうなの? あんなことがあって、恐ろしくない?」
「それは……恐ろしかったよ。テロリスト達はぼくに本物の銃を突きつけたんだ。それがすごく怖くて、ぼく……。足が竦んでしまったの。軍人になりたいってパパに言ってたのに……ぼくはやっぱり臆病なのかな?」

「そうじゃなくて、闇……」
「闇? そういえば、ガイストがぼくを呼んでいたような気がするけど……」
あの惨劇を彼は覚えていないようだった。
「何かあったの? ぼく、何かした?」
「大きな地震があったの。大きな災害が……。それで大勢人が死んだのよ」
込み上げた涙を、リンダは片手で拭った。
「リンダ? どうしたの? どうしてそんなに泣いてるの? 死んだ人の中に君の知り合いがいるの? それとも、ぼくの……」

「あなたのお母さんが……!」
「ママが……」
泣き出した少年を抱きしめてリンダは言った。
「可哀そうに……。本当に可哀想。でも、これからはわたしが一緒よ。ずっとあなたの傍にいる。わたし達血を分け合って本当の姉弟になったのよ」
彼女が流した涙の本当の意味を、彼は知らなかった。誰も、彼にその事実を教えることもしなかった。彼は病人であり、まだ幼い子どもだった。そして、大人達にはそれぞれの思惑が働いていた。

そして、2カ月が過ぎた。ジョンは回復し、元気になった。しかし、家に帰ることはできなかった。彼らはイギリスへ留学することになった。国内に置いておくのは危険だと判断したデニスが計らったことだった。
「デニスさん、ぼく、出発する前に一つだけお願いがあるんですけど……」
ジョンが言った。
「何だね?」
「一度だけ家を見ておきたいんです。わかっています。そこにはもう誰も住んでいないんだって……。でも、ほんの一瞬だけでいい。家に別れの挨拶がしたいんです。リンダには内緒で……。だって、彼女はもう自分の家に戻ることはできないんでしょう? ぼくのせいで……。ぼくは自分が何をしたのかぜんぶはわからないけど、きっとあの時ガイストが……。ぼくの中で暴れたんだと思います。それで大変なことが起きたのだと……。だから、ぼく達イギリスへ行かなければならないのでしょう?」

「ジョン。君の能力は未知数なんだ。君はもっと学ばなければいけない。そして、自分の力をコントロールできるように……。そうでなければ、力は君に不幸を齎すことになるだろう」
「そして、リンダや他のみんなにもでしょう? わかっています。でも、それでもまだ、ぼくはパパのような軍人になりたい。今度こそほんとに病気が治ったと信じています。だから、これからは体もうんと鍛えて……。そうしたら、ぼくでもなれますか?」
「希望を持つのはいいことだ。目標に向かって努力することで、より夢に近づくことが可能になるだろう。わかった。君の望みは叶えよう。今夜8時に西側玄関で待ち合わせよう」
「ありがとうございます」

その夜、ジョンはデニスと車で家に向かった。何度も通ったことのある道だった。身体が道の凹凸を覚えている。夜はガイストに比べたらまるで恐ろしくなどなかった。窓の向こうに見える街灯や家の灯りが美しい魚の群れに見えた。車が小さくバウンドする度に、それは地上を行く車ではなく、広い海を走る船上にいるのだと想像した。けれど、潮風は感じなかった。彼はガラスの内側にいて、魚達はその外側にいる。触れることのできないその壁を取り外すことは叶わなかった。
(だけど、風は流れてるんだ)
やさしい春のそよ風も嵐のように強過ぎて、恐怖に怯えるような竜巻でさえ、決してそこにわだかまることはない。たとえ一時、そこに留まることがあったとしても、いつかはそこから離れ、消えて行く。

「きっとそうなんですね」
突然、ジョンが言った。
「何が?」
ハンドルを握っていたデニスが訊ねる。
「どんなに恐ろしいガイストも、それは流れでしかないってこと。彼らの本性は常に流動するものだから、ぼくの中のガイストもいつかは出て行く。それが不幸を齎したとしても、また別の風が僕の中に流れ込む。泳ぎ続ける魚のように……。だから、ぼくはガイストを恐れることはないんだと思うんです。違いますか?」
窓に映ったその横顔が微かに歪む。
「ああ。多分そうだろう」
正面の道路を見据えて、デニスが言った。

少年の身体の中に、もうあの闇はない――いつか別の闇が宿ったとしても、それもまた流れ、去って行くのかもしれない。そうデニスは思った。そうであってくれたらいいと……。
「着いたよ」
懐かしい家を見て、ジョンは何を思ったろう。しばらくは車から降りようとせず、じっと窓からそれを眺めていた。それから、おもむろにドアを開け、玄関に走って行った。
「ジョン! 急に走ったりしたら……」
デニスはそう言い掛けて止めた。思えば、ここがすべての始まりだったのだ。彼らの出会いは、結果として少年から家や家族を取り上げ、永遠に引き離すことになってしまった。
今日は彼の好きなようにさせてやろうと決めた。

家の中はしんとしていた。真っ暗で何もない。いつも彼をあたたかく迎えてくれた家族も、犬も、何一つ残っていない。彼は灯りを点けなかった。闇の中を手さぐりで歩く。床の感触を足の裏で確かめ、空気のにおいを皮膚で感じた。壁の凹みや備え付けの戸棚。母が気に入っていた暖炉脇の飾り。
「何もないと思っていたのに……」
そこにはまだ家族が過ごした痕跡が残っていた。
「風がすべてを覚えてる……。ここにぼくがいたことも、ママやバルドーラがいたことも……。みんな……」
彼はもう闇を恐れてはいなかった。
「ぼくはもう強くなったんだ。そうでしょう?」
高い天井に顔を向け、そこにある闇と対話するように腕を伸ばした。その手がガサリと何かに触れた。それは樅の木の枝だった。背よりも高い木を見上げて彼は微笑む。
「クリスマスツリーだ」

彼は壁を伝ってスイッチを探した。そして、階段の脇にあったそれを押す。ツリーに飾られた豆電球に一斉に明かりが灯った。外は春の輝きに満ちていた。が、ここはあの日のまま、冬の空気に閉ざされて、樅の木はずっと少年の帰りを待っていた。ふいにあたたかなスープから立ち上る湯気のような幸せな時間が通り過ぎた。振り向けば、母が微笑み、父は任務から帰って来て、大きな犬がしっぽを振って彼に飛びつく。そんな幸せな幻想が通り過ぎて行った。

「本当にそうだったらよかったのに……」
ふと現実に戻った彼が俯く。と、ツリーの根元に小さな箱が置いてあることに気づいた。それはきれいに包装され、青いリボンが着いていた。彼はその包みを手に取って見た。
「パパからだ!」
そこにはクリスマスカードが添えられていた。
――愛するジョンへ
「パパ……」
包みを開くと、そこには彼が前から欲しがっていたダイバーズウォッチが入っていた。
「ありがとう、パパ。ぼく大切にするよ」
それはまだジョンの手には大き過ぎた。が、彼はそれを大事そうに抱えると、家の外に出た。それから、裏庭に回って、老衰で死んだ犬の墓に青いリボンを結んだ。
「おまえの最後には間に合わなかったけど、これで、ぼくがここに来たとわかるでしょう?ぼくもリンダもあの地震で死んだことになっているんだ。だから、今日、ぼくがここに来たことは内緒なんだよ。だから、もし今度パパが帰って来た時にはおまえが伝えてよ。ぼくは元気にしていますって……。リンダと一緒にイギリスでちゃんと勉強していますって……。必ず、そう伝えるんだよ。ぼくの大切な……」
少年は小さな木製の十字架を抱いて嗚咽した。空では星が光っていた。
「ジョン」
背後でデニスが呼んだ。少年はバルドーラに別れを告げ、そちらに向かって駆け出して行く。そんな彼の背中を、記憶の風がそっと撫でつけ、闇の彼方へ消えて行った。


Fin. Thanks for reading.