ダーク ピアニスト
―叙事曲2 Augen―

第4章


 それは、通りから少し奥に入った所にあった。閑静で落ち着いていて、それでいて幾分秘密めいたところがある。足元から浮き立つような陽炎が揺らめき、降り積もる時間を踏む音が響く……。交差した木々。そこを抜けると19世紀に建てられたというシェフールの館があった。
「どうした?」
先にたって歩いていたアルモスが振り向く。さっきまで何処へ行くのかとはしゃいでいたルビーの足が急に止まったからだ。
「ここは……?」
「美術館さ。来いよ」
緑の窓枠の印象的な建物がそこにあった。
「昔の時間が流れてる……」
ルビーが言った。
「ああ……」
アルモスが頷く。

「まだ閉館の時間には少しある。せっかくだから見て行こう」
時計を見ながらアルモスが言う。
「そうだね……」
ルビーは大人しく付いて行く。部屋は幾つもあった。そこにシンプルに並べられた絵や展示品。彼らは黙ってそれらを見て回った。
「薔薇は……?」
ルビーが言った。
「今は季節じゃないからな」
アルモスが答える。
「あの人は……?」
そう呟いて立ち止まる。が、男はもう先に行ってしまっている。その先にあるのは美しい女性の肖像画だった。そこには、彼女が生きていた頃に愛していた品々が展示されている。ペンダントに収められた遺髪や身につけていた宝石。そして……。

 男が振り向くと、ルビーは涙を流していた。いや、それは光の加減でそう見えただけで、実際に泣いていた訳ではない。が、それは上辺を透かして垣間見えた彼の心の内だったのかもしれない。
「きれいな人だね……」
ルビーが言った。
(夢の中の人に似ている……)
ルビーはそっと手を伸ばしかけて止めた。
(オーロラ……)
それから、静かに首を横に振る。その瞳に反射する虹色の光……。たゆたう時間に呼応する夢……。そして、その終焉を告げる鐘……。
「ピアノが弾きたい……」
ルビーが言った。館内に流れるBGMは展開部が少し派手過ぎる。そんな気がした。
「そうだな。そろそろここも閉館だし、気の早い連中が集まってるかもしれない」
そうアルモスが言うと、二人はまた連れ立って館を出た。


 扉を開けるとオルゴールボールの音が心地よく響いた。そこは感じのいい色彩と装飾でまとめられた小さなサロンだった。丸いテーブルと椅子が幾つも並んでいたが、客はまだ誰もいない。壁に掛けられた風景画やさり気なく置かれた天使の像。鈍い光沢を放った木彫りの掛け時計がゆったりとした時間を刻んでいる。
「まあ、久し振りね、アル」
奥から雰囲気のいい女性が出て来て言った。
「ボンソワール、カミーユ」
「こちらは? 初めてね」
彼女が訊いた。
「ルビーだ。彼女はここのオーナーのマダム モニック」
アルモスに紹介されてルビーも挨拶した。
「ボンソワール、マダム モニック。僕、ルビー ラズレインです」
「よろしくね、ルビー。わたしのことはカミーユでいいわ。みんな、そう呼ぶから……」
彼女は長い亜麻色の髪をきっちりと結い上げ、美しい細工が施された髪飾りを付けていた。柔らかな素材で出来た淡いグリーンのドレスには、小さなビーズが上品にあしらわれていて美しい。

「カミーユ、彼にピアノを弾かせてやってくれないか?」
アルモスが訊いた。
「ええ。構わなくてよ。どうぞ」
と、部屋の奥を指し示す。
「ありがとう」
ルビーは軽く礼を言うとそちらに向かって駆けて行った。
「奴はピアニストなんだ」
その後姿を視線で追ってアルモスが言った。
「そう」
彼女も目を細めてそれを見つめる。ルビーがピアノの椅子に座り、その蓋を開けると部屋に宿った精霊達が一斉に像を抜け出し、耳を傾けた。伏せた睫が微かに震え、僅かに開いた唇から漏れる息使いでさえミューズの調べを思わせた。そして、その指の先が鍵盤に触れた瞬間、世界のすべては完全なものとして姿を現した。その穏やかで、激しくて、アンティークな響きがそこにある密なる空気を満たしていた。

「美しいわ……。彼は一体、何者なの?」
じっと胸に手を当てたままカミーユが訊いた。
「秘宝さ」
そう言って、アルモスは勝手に奥からグラスとワインを持ち出すと席に着いた。カミーユがグラスにそっと酒を注ぐ。
「闇の窪みで密かに熟成した甘い宝石……。まだ誰も味わったことのない美酒だ」
「そう……」
潤んだ瞳で彼女はピアノを弾くルビーを見つめている。と、そこにまた、オルゴールボールの音が響いた。と同時に二人連れの若い男が賑やかに入って来た。
「ボンソワール! カミーユ」
「おや、アル、いつ来たんだい?」
巻き毛の男は花束を、ブロンドの長髪の男は楽器のケースを下げていた。

「よお。ジャニスにパット。元気だったか?」
アルモスが軽く手を上げて答える。が、二人の関心はもう旧知の友を通り越し、ピアノを弾いていたルビーの方に注がれた。
「彼はルビー ラズレイン。アルの知り合いよ」
カミーユが告げる。
「ほう。ルビーか。そいつはまた可愛い名前だね」
「まるで愛らしい天使じゃないか」
二人が交互に褒め言葉を口にする。
「そう。奴は天使さ。だが、迂闊に手を出すなよ。あいつにはおっかねえ保護者が付いてる」
アルモスがぐいとワインを飲み干して言った。
「それはおまえのことか? アル」
「そんなこと言ってあの子を独り占めしようったってそうはいかないぞ」
「そうよ。美しい者はみんなで愛でなきゃ……」
また一人新たな客が来て言った。濃い茶色の髪をした彼は繊細な銀のアクセサリーを身に付け、女物の洋服を着ている。
「おれじゃないさ」
アルモスが言った。

「ルビー ラズレイン……」
カミーユが呟く。と、皆は一斉に顔を見合わせ、口を噤んだ。
「そういうことだ」
アルモスはまたグラスに酒を注ぐ。
「でも、放っとけないわ」
「あんなに可愛い子滅多にいないよ」
「禁断を犯したって構わない。おれ襲っちゃおうかな?」
男達が騒いでいると、華やかな女達が3人、やって来て言った。
「何なの? 賑やかね」
「まあ、何て美しい調べ……」
「ピアノを弾いているのは誰? 天使?」

「アルの連れだってさ」
ジャニスが言った。
「いやだ。信じられない」
「アルが相手じゃ、坊やが可哀想!」
レナーテやイザベラも言う。その間にパットは素早くケースを開くとバイオリンを持ってルビーの脇に立った。そして、タイミングを計ってメロディーを滑り込ませる。すると、ルビーはそれに呼応するようにピアノの独奏からバイオリンのためのソナタへと移行した。メロディーとメロディーが波のように重なる。それは、時には漣のようにやさしく、時には嵐のように激しくぶつかり、ドラマティックな演奏でそこにいた者すべての心を虜にした。

 楽興の時は過ぎて行く。ジャニスが即興の詩を朗読し、オペラ歌手のイザベラが見事なソプラノを披露した。
(ああ、何て素敵……)
ルビーの心は高揚していた。
(楽しい……)
皆がルビーのピアノや容姿を絶賛し、望むままの言葉や抱擁をくれた。そこにいれば、演奏で、歌で、言葉で対話出来る……。ここに集う者達は画家や音楽家や詩人……誰もが魂だけで会話することが出来た。
「楽しい……」

 ルビーが何度目かの演奏を終えると、皆が周りに集まった。
「ワインはどうだい?」
「ショコラもあるよ」
「チーズは何にする?」
「その前におしぼりで手をお拭きになって」
いつの間にかカフェには人が溢れていた。その誰もがルビーと話をしたがり、誰もが彼にキスをしたがった。
「君、すごいね。即興でこれだけ僕のバイオリンに合わせられるなんて……」
パットが目を輝かせて言った。
「合わせる? 僕は別に合わせてなんかいないよ」
ルビーがグラスを唇に押し当てて言った。そんなルビーを見つめ、パットは興奮して喋りまくった。
「確かに……。弾いてた時は闘いだった。諸刃の剣を突きつけ合っての攻めぎ合い……。一瞬でも気が抜けない真剣勝負。だからこそ最高だった。こんな興奮初めてだよ。演奏中にこんなエクスタシーを感じちゃったのは……」
「僕もだよ。君とは愛称が良さそうだ」

ルビーが空っぽになったグラスを掲げるとカミーユが新たなワインを注ぐ。
「メルシー」
ルビーはそれをまた一息に空けると、笑いながら周囲を見て言った。
「じゃあ、今度は踊ろう。誰が相手をしてくれる?」
「それはわたしよ」
と一人が言えば、
「いいえ、わたしよ」
また別の誰かが名乗る。
「それじゃみんなと……」
ルビーは男も女も構わずにすべての者と順番に踊った。それから飲んで歌ってお喋りやゲームに興じた。
「どうだ? たまには外へ出るのもいいだろう?」
アルモスが訊いた。
「うん。最高だ」
ルビーはすっかりご機嫌だった。

「見てよ。これ、いい手札でしょう?」
ルビーが持っているトランプの札を見てアルモスがニヤリと笑う。
「確かに、いい札だ。で? 何を賭けたんだ?」
「僕」
「おいおい。そんなことしていいのかい? 狼さんが泣くぞ」
アルモスが愉快そうに囁く。
「平気だよ。僕、負けないもん」
ルビーは強気だ。
「ふふ。果たしてどうかな? 今夜は僕と付き合ってもらうよ」
勝負に参加しているのはパットとジャニス、ジャンヌにレナーテ。
「ハハ。モテモテだな。けど、始めっちまう前に何でおれにも声掛けてくれなかったんだ?」
アルモスが言うとジャニスが反論した。
「駄目駄目。アルはすぐイカサマするからな」
「そうそう。それに、坊やを男に奪われたんじゃ泣くに泣けないわ」
ジャンヌが手札を組み替えて言った。
「それに彼はなかなか手ごわいわ」
レナーテが自分の手札を見つめて言った。
「でも、今夜は僕と付き合ってもらうさ」
パットも強気に札を2枚換えるとニヤリと笑んだ。

「おい、どうするんだ?」
アルモスが訊いた。
「無論、勝負さ」
ルビーが言うと、彼らもまた歓声を上げて盛り上がる。
「よーし、そうこなくっちゃ……」
「いざ勝負」
果たして結果は……。
ツーペア、フラッシュ、ストレートときて、パットが自信満々に出してきたのは、
「フルハウス」
が、ルビーは余裕な顔で笑っている。
「残念でした。僕はロイヤルストレートフラッシュさ」
平然とカードを出す彼にみんなはやられたという顔をした。が、パットが突っ込む。
「おい、ちょっと待てよ。それって5枚目のエースだぞ」
「何よ、それ、イカサマ?」
ジャンヌもそのカードを取り上げて確認する。

「あは。どうしよう、アル。バレちゃった」
ルビーが笑いながら振り向く。
「アルの入れ知恵か?」
「よーし。こうなったら今夜はとことん付き合ってもらうからな」
皆は酒の勢いもあって二人を捕まえると深夜まで酒宴で盛り上がった。
「どうだ? ルビー、お気に入りはいたか?」
「うーん。そうだね」
ルビーは頬を赤らめてオペラ歌手のイザベラを示した。
「よし。OKだ。それじゃ、上手くやれよ」
アルモスはカミーユに告げると彼女が何もかも希望に沿うよう取り計らってくれた。皆、それぞれ分かれたあと、ルビーはイザベラと別の部屋にいた。

「君の声は魅力的だ」
ルビーが言った。
「あなたのピアノも……」
彼女が言った。
「少し暑いね。窓を開けてもいい?」
ルビーが言って、小さな出窓を開く。しんと静まり返った街路樹の陰に人影が見えた。が、ルビーは気にせず、冷たく新鮮な空気を吸う。空に星はなく、街頭さえも疎らな闇の中で、人影が動いた。女だ。そして、もう一人。向こうから靴音が響いて来た。規則正しいその靴音は何処かで聞いたことがあるとルビーは思った。
(ギル……)
その二人を彼は知っていた。ルビーはバタンと窓を閉めるとカーテンを引いた。振り向くとイザベラが羽織っていた薄いスカーフを解こうとしている。

「僕が解いてあげる」
ルビーは彼女の首に腕を回すとそっとブローチの留め金を外した。ふわりと足元に落ちるそれを無視して彼はイザベラの首筋にそっとキスする。
「君の歌声は本当に素敵だ。あの歌を何処で覚えたの?」
それは日本の歌だった。ルビーのピアノに合わせて彼女が日本語の歌詞で歌ったのだ。それは何処か悲し気なメロディーの秋の季節の歌だった。
「2年前、日本でリサイタルをしたの。その時、覚えたのよ。アンコールでこれを歌うと、彼らはとても喜んでくれたわ」
「そう……」
ルビーは彼女の足元に落ちたスカーフを拾うと、そっとテーブルに置いた。

「あなたは日本人?」
彼女が訊いた。ルビーはベッドの淵に腰を下ろして言った。
「いや、ドイツ人だよ。でも、母様は日本人なんだ」
「それで……」
イザベラはそっと彼の隣に来て座った。
「日本はとても美しい国だったわ。東京と大阪、それに京都にも行って、紅葉を見たの。山一面を赤や黄色に染めて、寺院や五重の塔が映えて、それは美しい光景だったわ。今度は桜の季節に行きたいわ」
「僕もだよ。僕はまだ一度も日本に行ったことがないんだ。だから、行ってみたい……」
「そう。お母様は連れて行ってくれなかったの?」
「母様は……僕が子供の頃に死んだ」
「まあ……ごめんなさい」
彼女は白い指を形のいい唇に当てた。
「いいんだ。今日は君に会えたから……」
そう言うと彼は腕を彼女の腰に回すとそっとベッドに押し倒して唇を重ねた。

「わたしの声はお母様に似ていて?」
「うん……」
ルビーが寂しそうに頷く。
「正直なのね。可愛いわ。大好きよ」
そうして、二人はベッドにもつれ込んだ。照明が消え、そして……悲鳴が上がった。
「やっぱり……駄目なんだね」
暗闇の中から彼が言った。
「ごめんなさいわたし……」
ベッドから少し離れた床に座った彼女が嗚咽を漏らしていた。
「いいんだ。いつもなんだ。だから、気にしないで……」
顔を背けてルビーが言った。
「でも、それって……」
「見ないで……!」
ルビーは毛布を引き寄せるとそれにすっぽりと体を沈めた。
「その傷……」
彼女の鳶色の瞳の奥で、青いシェールランプの光が揺らめいた。


 「ドク……。あなたがおっしゃりたいのは、ルビーの傷のことですか?」
夕闇に煙る空の下でギルフォートが言った。
「そう。あれは、虐待の跡じゃないのかね?」
ドクトル ウェーバーは率直に尋ねた。
「だとしたら……?」
銀の髪の男が答える。医者はふうっと細く息を吐いた。
「君に心当たりがあるのではと思ってね」
「おれを疑っているんですか?」
足元に絡みつく枯葉を踏み砕いてギルフォートは言った。
「いや……」
と、医者は言って軽くコートの襟を立てた。
「が、あの子は君を恐れている。そうじゃないかね?」
冷たい風が男達の間をすり抜ける。遠くで鳥が鳴いている。名も知らない渡り鳥が……。

「あれは……ルビーはおれの患者です」
そう言うと彼は身分証を見せた。そこには、フィレンツェの病院の名前が記載されていた。彼は確かにその病院で院長を務めていた。
「そうか。こいつはどうも私の詮索が過ぎたようだ。疑ったりして悪かったね」
「いえ……」
ギルフォートは軽く視線を逸らして言った。
「出来れば、ご教授していただきたい。彼は、もう随分と長いこと難問を抱えたままでいるのです」

――難問を抱えたままでいる

(そう……おれ自身も……)
彼はベッドの中でぼんやりとしたルームランプを見つめていた。
「ギル……? 何を見てるの?」
彼女が言った。
「何も……」
彼はやさしくその唇にキスをした。青いカーテンの隙間から細い月の光が差し込んでいる。淡い光の中で、彼女のおくれ毛が揺れる。白い頬に波打つ銀色……。指先でそっと耳の後ろの髪を掻き揚げる。と、そこに小さな黒子があった。セピアがかった色をした小さな星のような黒子……。
(ルイーゼ……)
彼はその黒子にキスをした。カタンと小さく窓枠が揺れた。風が強くなったのだ。時計は深夜を示している。帰らなければ、またルビーの状態が悪くなるかもしれない。

――彼は、もう随分と長いことあんな状態で……

隙間風がカーテンを揺する。めくれたカーテンの向こうは闇……。その闇の空を照らす月……。朱色がかった燃える月が彼らを見ていた。あの時と同じように……。
(おれは今、二重の過ちを犯そうとしている……)
覚めた心が自覚していた。
「愛しているわ……」
彼女が言った。
「愛してる……」
そう言って唇を重ねる。

――あなたが欲しい……

あの時と同じ感じがした。強い酒を口に含んで痺れるような熱い感覚が……。

――愛してる……


 夜の帳の中だった。向かいの建物から出て来た銀髪の男の顔を見てアルモスが言った。
「裏切り者め」
「アルモス、貴様か」
ギルフォートが足を止めて言う。
「火遊びも程々にしとけよ、狼さん」
「ふん。貴様こそ、こんな夜中に何をしている? 観察日記をつけているにしては悪趣味だぞ」
アルモスの背後で青白い灯火が小さな看板を照らしている。
「ルビーが見たら傷つくぞ」
「奴なら今頃はベッドの中でぐっすりさ」
「女とな」
「何?」
「はは。奴の部屋からここは丸見えだ。見られなくてよかったな、狼ちゃん」

アルモスが一歩下がると灯火の下の飾り文字が浮かぶ。
「サロン ルージュ……。ここへルビーを連れて来たのか?」
「ああ。喜んでたぜ。陰気な部屋に閉じ込めてばかりじゃ息が詰まるだろう」
アルモスが笑いながら言った。その顔面を殴りつけてギルフォートが低く呟く。
「馬鹿なことを……!」
「馬鹿とは何だ? おれは奴のためを思って……」
「どけ! 貴様は何もわかってない」
男を突き飛ばし、ギルフォートは店の扉を開けた。サロンはしんと静まり返っている。泊まりの客が2階の部屋に残っているだけで店はもう閉店の時間なのだ。
「どなた?」
マダム モニックが灯りを持って階段を降りて来た。
「ちょっと失礼」
ギルフォートは彼女を避けて階段を駆け上がる。

「ルビー」
ドアを開けると、彼はベッドの淵に腰掛けていた。が、女の姿はない。
「独りか?」
「何しに来たの?」
ルビーが訊いた。
「迎えに……」
「嘘だ!」
彼が叫んだ。

「シャツのボタンを違えている」
それを直そうと出した手を、しかし、ルビーはぴしゃりと叩いた。
「触るな!」
「また、女に逃げられたのか?」
ため息混じりにギルフォートが軽く手を握る。そんな男をキッと睨んで皮肉な笑みを浮かべるルビー。
「ああ。僕はあなたになれはしないもの」
ルビーは違えたボタンを掛け直して言う。
「そう。僕はまた間違えたのかもしれない。でも、その間、あなたは何をしてたの? エレーゼと一体何を……」
「ルビー……」
気まずい沈黙の中で甘いシェールランプの灯火が揺れる。と、その時、階下で銃声が響いた。甲高い女の悲鳴と靴音……。二人は一瞬だけ目を合わせると同時に階段を駆け下りた。