ダーク ピアニスト
〜練習曲2 ゴールドフィッシュ〜

Part 2 / 3


 「かわいいね」
ホテルに持って帰った金魚を小さな青いバケツに移すとルビーは喜んで観察した。
「ねえ、どうして金魚さんは水の中でも口をパクパクさせてるの? 水がお腹に入って苦しくないの? どうしてこんなに小さい鰭なのに大きな体を動かせるの? 金魚さんはどうして赤いの? どうして黒いのや白いのや模様があるのが生まれるの? どうして?」
始めは丁寧に応えてやっていたギルも、子供のような好奇心で次々と質問して来るのでさすがに最後はおざなりに適当な事を言ってあしらおうとしたが、ルビーはすっかり機嫌を損ねてしまった。
「もういいよ! ギルなんか嫌いだ!」
と癇癪を起こしてクッションを投げつけた。

「ホントに困った奴だな。ホラ、これでも見て勉強しろ」
ギルはパソコンを開いて音と声が出る熱帯魚の図鑑というサイトにアクセスした。
「わあ! きれい!」
ルビーはすぐにそれが気に入ってしばらくの間夢中で見ていた。が、やがて、それにも飽きるとまた本物の金魚を眺めた。そして、水の中に手を入れたり、手のひらに乗せて喜んでいる。
「アハハ。ピクピクしてくすぐったい」
それを見てジェラードが注意した。
「おやおや。坊や。そんなに触ってはいけないよ。すぐに弱って死んでしまう」
「どうして? 僕、金魚さんとお友達になりたいの。どうして撫でたらいけないの?」

「それは水の中の生き物だからね。水の中でそっとしておくのが一番いいんだよ。人間はこうして空気の中で生きているだろう? 空気の中の酸素を吸って息をしているんだ。それをいきなり掴まれて空気も酸素もない宇宙に出されたらどうなると思う?」
「死んじゃう」
「そう。だから、金魚だって同じなんだ」
「わかった。水の中に返してあげるね」
ルビーが手のひらに乗せていた金魚をポチャンとバケツに返すとそれは勢いよく水の中で泳ぎ出した。
「ホントだ。金魚さん、とても喜んでるね」
と言って笑う。
「わかったかい? 坊や」
「うん。ジェラードはやさしいね」
と見上げるルビーの瞳にはまだ一点の曇りもなかった。

「そうだよ。坊や。弱い者や小さな者にはやさしくしないといけない。やさしくしてやれば、彼らは皆感謝して従順でいてくれる。そして、彼らはいろいろと楽しませてくれるからね」
と言って微笑むとそっとルビーの肩に手を置いた。
「うん。本当にそうだね。あ、金魚さんがこっち見た。見て! ジェラード。金魚さん、僕を好きになってくれるかなあ? さっき水から出した事怒ってない?」
「大丈夫さ。ホラ、またおまえを見てるよ」
ジェラードの言葉にルビーはうれしそうにバケツとジェラードの方を交互に見た。

ところが、次の日。バケツの中の金魚がいなくなっていた。ルビーは泣きながら訴える。
「僕の金魚さんがいないの。きっと僕の事嫌いになっちゃったんだ! 昨日、水の外に出したりしたから怒って家出しちゃったんだ……」
「家出だって? 周りをよく見たのか? 外に飛び出したんじゃないのか?」
ギルが冷静に言う。
「おまえ、夜の間、バケツに覆いをしなかったろう? あんなオモチャのバケツでは浅過ぎたんだ。きっと外へ飛び出してしまったんだ」
「外へ? やっぱり家出しちゃったんだ……僕のせいで……」
とシュンとしている。ギルはもう手遅れかもしれないなと思いながらも、バケツのあった周囲を探してくれた。が、金魚は何処にもいなかった。
「せっかくシェリーに持って行ってあげようと思ったのに……」

 ルビーはガッカリしたが、いなくなってしまったものは仕方がなかった。ルビーは諦めて小学校が終わる頃の時間になると、また、あの空き地に出掛けた。その日は、学校が早く終わったらしく先にシェリーが来ていた。が、少女はシュンと項垂れたまま元気がない。
「シェリー? どうしたの?」
ルビーが訊くとしっかり握り締めていたきれいな箱を開いて見せた。
「そんな……」
その中には、昨日まで元気だった赤い金魚が横たわっていた。彼女は大粒の涙をポロポロ零して言った。
「金魚さんが死んじゃった……!」
ルビーは言葉を失った。本当なら、今日、友達になる筈の金魚を持って来ようとしていたのだ。が、その金魚は行方不明。そして、肝心なシェリーの金魚は水の外でもう動かない……。

「お墓を作ってあげましょう」
とシェリーが言った。
「お墓?」
「そうよ。死んだらみんなお墓に入るでしょう? だから、金魚さんにも作ってあげる。そして、お花を飾るの」
「うん。そうだね。僕も手伝うよ」
そうして、二人は穴を掘り、そっと金魚を埋めて小さい十字架を立てた。と、その時、ルビーは気づいた。しゃがんだ少女のスカートの下に幾つも痣がある事に……。見えている部分にはないのに……。
「シェリー、君、友達がいないって言ったね。もしかして……」
ルビーがそっと少女のブラウスの袖をめくる。と、やはりそこにも小さな痣が……しかも、タバコの火を押し付けられたような跡が幾つも残っていた。

「誰にやられたの?」
しかし、少女はそっと目を伏せた。
「いいの。言うとお母さんが悲しむから……」
「でも……」
「ルビーだって言ったじゃない? お母さんの悲しむ顔なんて見たくないって……わたしだってそうよ。本当のお父さんが死んでからずっとお母さん泣いてばかりいたの。でも、あの人が来てからやっと笑ってくれるようになった……だから……いいの。ルビーならわかってくれるでしょう?」
寂しそうな笑顔だった。ルビーは頷いたが目を逸らすと自分の胸をそっと押さえた。そこには、一番深い傷がある。それは、脈打つ度に痛みを伴い、その悲しみを抑える為に彼はしばらく動けずにいた。しかし、それはシェリーも同じだった。それでも、しばらくすると、彼女が言った。

「でもね、今は考えないようにするの。たとえ、今日、どんなに悲しい事があったとしても、もしかしたら、明日には素晴らしい事があるかもしれない。もし、その明日が辛い日でもそのまた明日はもっと素敵になるかもしれない。それで、その明日がだめでもきっとその次には……」
と言ってチョッピリ不安そうに微笑んだ。
「そう。いつかきっと幸せになれるよ」
とルビーが言った。
「ホントに? あなたもそう思う?」
とうれしそうに笑う少女。
「いつか行ける? 悲しみも苦しみもない国へ……」
「うん。きっとね。そこには、きっと君だけを愛し、守ってくれる人がいるんだ。花の中で微笑みをくれる人が……」

少女は微笑んで彼の手を取った。
「ルビーもなの? そんな人に会いたいの? そして、理想の国に行くの?」
「うん」
ルビーは頷くと夢見るように言った。
「幻想の扉の向こうで僕を待っていてくれる人がいるんだ。その人に会う為に僕は生まれた。そんな気がするから……。信じられるから……どんないやな事があっても、辛い事があっても僕は生きなきゃ……。愛されたくて、愛したいから……いつかこの手に幸せを掴みたいから……」
「そうね。きっと会えるわ。ルビーなら……」
「うん。君もね。シェリー……」
やわらかな陽射しが二人を包む。重なり合った僅かな時間が二人の心に幸福の印を刻んだ。そして、二人はそっと野花を摘んで金魚の墓に供えた。それから、少女は祈り、讃美歌を歌った。ルビーも隣で同じようにしていると少女が言った。

「わたしね、去年、おじいちゃんのお葬式に出たの。教会でお祈りをしてみんなでお花をあげてお祈りをしたわ。そして讃美歌を歌ったの。オルガンの音がとてもきれいだった。それでね、思ったの。わたしもいつか弾けるようになったらいいなって……家にはピアノもオルガンもないけど……。でも、わたし、いつか教会でオルガンを弾く人になりたいの。ねえ、なれると思う?」
「うん。きっとなれるよ。信じていたら……」
「ホント?」
「ああ」
「わたしね、音楽が好きなの。だから、いつか弾けるようになりたい。お母さんも音楽が好きなの。ねえ、ルビーは?」
「僕も音楽大好きだよ。もし、よかったら僕が弾き方教えてあげる。あまり長くはここにいられないけど……」
「ほんと? ルビーはピアノ弾けるの?」
「うん」
「じゃあ、ホントに教えてくれる?」
「うん」

「でも、ピアノは?」
「教会のオルガンを貸してもらえばいいよ。明日」
それを聞いて少女はとても喜んだ。
「ルビーはどんな曲が弾けるの?」
「ショパンとかベートーヴェンとかクラシックの曲なら大抵……」
「すごーい! ルビーはピアニストなの?」
「うん。人はそう呼ぶ」
「すごい! ねえ、この曲知ってる? お母さんの大好きな曲なの。もちろんわたしも好き!」
と言って少女は歌い出す。その少女の声に、ルビーが低い声で伴奏のように合わせて歌う。二人の声が重なってまるで本物のピアノを弾いているように流れた。

(僕も、僕の母様も好きだった曲……ベートーヴェンのソナタ……『悲愴』)
幻想のように時が流れ、思い出のパーツが悲しみを増す。けれどそのすべてを超えたやさしさと大いなる愛に包まれて揺り篭の中の時が巡り、すべての可能性と死をも超えて遥かなる時空へと向かう。愛する者の温もりの中で眠るやさしい小鳥のように、少女はそのすべてを愛されるべき存在だった。
「ずっとこうしていられたらいいのに……」
ルビーの腕の中で少女が言った。
「いつまでもこうして夢を見ていられたら……ルビー、あなたに会えて本当によかった……」
少女が流す涙は聖なる泉だ。ルビーはそっとそれを指先で拭うとやさしくキスした。見えない時間の絆が儚気に揺れる。
「それじゃ、またね」
と少女は言った。
「明日はピアノ教えてね」
「うん」
「約束よ」
「うん。約束」
二人は笑って別れて行った。赤い夕焼けの中で振り向くと、少女の輪郭はめくるめく季節の中で煌いて、その髪の一本一本にまで精霊が宿っているかのようだった。


しかし、次の日。いくら待っても少女は空き地に来なかった。
「今日は遅いのかな?」
ルビーは草むらの中で花を摘んだり、蟻を観察したり、一人でお人形で遊んだりしていたが、やがて日が傾き出す頃にはそこを出て教会に走って行った。
「ピアノを教えると言ったから、もしかしてそっちへ行ったのかも……」

だが、そこにも少女の姿はなかった。教会の中はしんとしていた。長く斜めに差し込んだ陽光が平和な一日の終わりを告げているようだった。ルビーは真っ直ぐ通路を進み、正面のマリア像に近づいた。
「母様に似てる……」
急に懐かしさが込み上げて胸の奥がキュンと痛んだ。ルビーはその頬に触れようと手を伸ばす。が、それに触れる事は出来なかった。すぐそこにあるかのように見えたのに、実際はかなり高い位置に、しかもかなり奥の際壁にあったのだ。
「届かない……」
その距離は絶対的なものではなかったが、ルビーにとっては絶望的な距離に思えた。
「僕はいつも届かない……。いつも間に合わないから、母様を助けられないんだ。助けられないから母様はいつも悲しい顔をしてる……悲しい顔のまま……」

ルビーは伸ばしかけた右手をそっと左手で引き寄せるとそっと胸に当てた。その手にポタリポタリと涙が落ちる。その小さな滴の中で揺れる過去の記憶……。
「笑ってよ。母様……笑って……」
思い出を映す小さな水鏡の中、せっかく微笑んでくれたのに、続いて落ちた涙がすぐにそれを壊して台無しにした。ハッとして思わず顔を上げると目の前のマリア像から微笑みが消え、その頬に涙が伝っている。ルビーは酷い胸騒ぎを感じた。
「シェリー……!」
彼は踵を返すと急いで教会を出た。


「シェリーがいないの」
ホテルに戻ったルビーが言った。もうすっかり夜になっていた。
「いない?」
ギルが言った。
「約束したのに……空き地に来なかったんだ。僕、待ってたのに……ずっと待ってたのに……どうして? ピアノを教えるって約束したんだ。シェリーはとても喜んで……なのに、時間になっても来なかったんだ。空き地にも、教会にも……来なかったから、僕、ずっと探してて……でも、何処にもいなくて……あの子は何処? 何処?」
「わかったから、少し落ち着け。そこに座って……」
ギルに促されてルビーはソファに掛けたがどうにも落ち着かない様子で喋りまくった。

「急に用事が出来たんじゃないのか?」
「だったら僕にそう言う筈でしょ? 約束してたんだもの。僕が待ってるって知ってて来ないなんておかしいよ」
「シェリーの連絡先は? 家には行ってみたのか?」
「ううん。行ってないよ。だって、僕、あの子の家を知らないんだもの」
「なら、学校は?」
「わかんない」
ルビーはあまりに少女の事を知らなさ過ぎた。
「警察に連絡した方がいいかなあ?」
「必要があればあの子の親がするだろう」
「でも……」
ルビーは不安そうに視線を泳がせた。と、そこへノックの音がしてホテルの支配人と警察官が入って来た。警官は一昨日ルビーにあれこれ訊いて来たあの中年の男だった。

「お休みのところ申し訳ありませんが、少々お訊きしたい事がありまして……」
と切り出す。この間会った時より更に表情が固い。ルビーは不安気な顔でその男を見つめる。
「何かあったんですか? 今日は約束の時間になってもシェリーが来なかったし……何処を探しても見つからなくて……僕、とても心配で……僕……」
警官はそんな彼の様子を見て言葉に詰まった。
「それで、最後に君がシェリーに会ったのは何時でしたか?」
なるべく感情を出さず、やさしい口調で彼は訊いた。
「えーと、昨日、時間はわからないけど、空は夕焼けでオレンジに輝いていたよ。僕ね、今日は教会で彼女にピアノを教えてあげるって約束したの。それで、僕、また、あの空き地でずっと待ってたんだけど、なかなか来ないからきっと先に教会に行ってしまったんだと思ったの。だから教会に行ったんだよ。でも誰もいなくて……。それから、この間お祭りをやっていた広場にも行ってみたけどやっぱりいなくて……川の方や草原の中もずっと探したんだ。でも、シェリーは何処にもいなかった。ねえ、シェリーは何処?」
「そうか。それじゃあ、今日、君はシェリーには一度も会っていないんだね?」
ルビーが頷く。警官は何かしら手帳に書き込むと更に質問を続けた。

「で、君は今日のお昼頃何処にいましたか?」
「お昼? なら、ここのレストランで食事をしたよ。ギルやジェラード、それに……」
と言ってギルフォートを見る。
「ええ。確かに。十一時四十五分には店に入り、そこを出たのは一時半を過ぎていたと思います。取引先の社長と会食していましたので……」
とギルが言った。
「そうですか。では、レストランを出てからはどうでしたか?」
「えーと、ギルやジェラードはお仕事だったから、僕、一人で遊んでたの」
「それは何処で? その時、誰かと話したりしたかな?」
「えーと、始めはここのゲームコーナーで、その後、ビリヤードをしたよ。そこでおじさんとお話した」
「おじさんて? 知ってる人?」
「ううん。知らない人。でも、その人もこのホテルに泊まってるんだって……。僕ね、そのおじさんと試合をして勝ったの」
と得意そうに言うルビーを制してギルが言った。

「何かあったんですか?」
警官は一瞬表情を曇らせたが、淡々として言った。
「ええ。近くで殺人事件がありまして……念の為いろいろな方にお尋ねしているのです」
とだけ言った。
「殺人事件……」
ルビーが聞き咎めた。
「殺人って、その……まさか……」
何か言おうとするルビーを遮るように警官が言った。
「君が三時過ぎにあの空き地にいた事はわかっています。警察署からも見えていたからね。で、そこへ来る前とか後とかで不審な人や車を見たりしなかったかな? その、つまり何処か怪しいとか落ち着きがないとか、その、女の子を連れていたとか……」
ルビーはじっと警官を見つめて言った。

「シェリーなの?」
「う……」
一瞬返事に詰まる警官を凝視してルビーは詰問するように言った。
「あの子なんだね?」
有無を言わさぬ鋭い眼光。
「……あ、ああ」
一瞬の間苦渋した後、警官が頷く。
「誰が……誰がシェリーを殺したの? 誰があの子を連れて逝ったりしたんだ!」
感情が爆発しそうになる。それを押さえてギルが言った。
「警察はルビーを疑っているんですか?」
「いや……死亡推定時刻は昼の十二時半から一時半……その時間、君達はここのレストランにいたと言う。同席者もいたという事だし、恐らく犯人は別にいるのだと思います。ただ、念の為彼女と接点のあった者全ての状況をお聞きしなければならないのです」
と彼は説明した。その間、ルビーはじっと下を向き、何かに耐えているようだったが、やがて、顔を上げて言った。

「……殺してやる」
「え?」
驚いてその顔を見つめる警官にルビーは言った。
「いい子だったんだ。今日はピアノを教えるって約束してたんだ。楽しみにしてたのに……とても楽しみに……! どうして奪われなきゃならないの? あの子は何も悪い事なんかしてないのに……どうして? 教えてよ。どうしていつも弱い者が酷い目に合うの? どうして我慢しなきゃならないの? どうして? どうし……!」
「ルビー!」
興奮している彼を抑えてギルが言った。
「申し訳ありません。この子は感情のコントロールが利かないのです。お話はまた改めてという事ではいけませんか? これ以上ショックを与えたら心臓に負担が……」
ギルフォートの腕の中で青ざめて震えている彼を見て警官は慌てて言った。
「あの、大丈夫ですか? その、心臓に持病があったなんて知らなかったものですから、その……」
「……いいよ。騙されるよりはましさ。本当の事を教えてくれてありがとう……」
ルビーはギルフォートの腕にもたれたまま目を伏せて言った。警官は軽く会釈するとそのまま部屋を出ようとした。が、その警官をルビーが呼び止めた。
「それで、犯人は? 誰だかわかったんですか?」
「いや……警察も全力で探しているところです。だからこそ、こうして皆さんに事情を訊いているのです」
「早く……早く犯人を見つけてください……でないと、シェリーがあまりにかわいそうだもの……」
そう言って彼は涙を流した。警官は黙って頷くとそっとドアを開け、その部屋を出た。