ダーク ピアニスト
〜練習曲7 復讐の翼〜
Part 1 / 3
2週間が過ぎた。しかし、ルビーはまだ病院から出られない。ギルフォートは、その間ずっと彼の側にいた。報せを受けて、エスタレーゼがすぐに来た。しかし、ジェラードは来なかった。重要な仕事があるので、どうしても離れられないと言うのだ。
ルビーは3日間の間生死の境を彷徨ったが、何とか意識を取り戻した。が、その後が酷かった。彼は、自分が病院に入れられていると知ってパニックを起こした。治療の度に暴れるので、その都度鎮静剤を使わなければならなかった。爆発による傷は彼に相当の苦痛とダメージを与えた。特に、右肩から胸と背中にかけての火傷のためにしなければならない消毒はかなり辛かったらしく、激しく泣き叫んで抵抗した。それを医者と看護師とギルフォートとで無理矢理押さえつけて薬を塗った。エスタレーゼはそんな状況に耐えられず、席を外したし、ギルフォートでさえ、忍びなくて顔を背けた。●なのに、治療が終わり、痛みも引いてベッドで落ち着くと、ルビーはまどろみの中でこんな事を言った。
「ギル……? どうして泣いてるの? 誰かがギルの事いじめたの? なら、僕、そいつをやっつけてやるよ。僕はもう、生まれ変わって強くなったのだから……。ねえ、そうでしょう?」
「ルビー……」
そんな彼が哀れだった。ギルフォートは、そっと彼の片頬に伝う涙を拭いてやった。
――ギル……泣いてるの? どうして? 誰がお兄ちゃんをいじめたの?
――ミヒャエル……
弟には見られたくない涙だった。しかし、彼は敏感にそれに気づいた。
――ぼくがやっつけてやるよ
――え?
――やっつけてやるんだ。ぼくがうんと大きくなって強くなったら……おにいちゃんを泣かした奴らなんか、みんなやっつけてやる。ぼくがお兄ちゃんを守ってあげる
(ミヒャエル……)
昔、車椅子に乗ったまま、うまく動かせない手を振り上げて弟が言った。
――ぼくが守ってあげる
18年前……。その時の涙の理由は、上級生が父や弟の事を馬鹿にしたことだった。彼らは、ミヒャエルのようにハンディを持った子供が社会にとって無意味だと言ったのだ。いや、それどころか、役に立たない厄介者だと罵ったのだ。
――生きてたって社会に迷惑掛けるだけじゃないか! そんな奴なんかいらない! 邪魔だ! 消えちゃえ!
――ちがう! ミヒャエルはいらない子なんかじゃない! あの子は、とてもいい子なんだ! ●素直で可愛くてやさしいんだ! 邪魔者なんかじゃない!
まだ12の子供だった彼は、上級生6人と取っ組み合いのケンカをする羽目になった。が、人数も違えば体格も違う。とても勝ち目などなかった。そして、誰も彼の味方をしてくれる者もいなかった。ボロクソだった。その少し前、父の会社が倒産し、逆恨みした債権者の一人によって両親は殺された。世の中の同情を引いたものの、孤児になった彼らを引き取る者はなく、最終的には、ギルフォートはギムナジウムの寮へ、そして、弟のミヒャエルは施設へと預けられた。その施設は、学校の寮から電車の駅で2つ程のところにあったので、週末になるとギルは、いつも歩いて弟に会いに行った。そこでミヒャエルと過ごす時間が、その頃の彼にとっては唯一の慰めだったのだ。弟は自分では字が読めない●くせに、本がとても好きだった。いつも、ギルに絵本を読んでとせがんで来る。何度も読むのですっかりボロボロになってしまった本を、ギルは何度もテープを貼って修繕した。弟が好きだったのは、『ピーターパン』や『ロビンフッド』や『星の王子さま』。ファンタジーがかった冒険ものが好きだった。
ある日、いつものように絵本を読み聞かせていると、ミヒャエルがポツンと言った。
「ぼくも強くなりたいな……」
ふと見ると、彼は大きな目に涙をいっぱいためて空を見ていた。辛い事があるのだとわかった。しかし、ミヒャエルは何も言わず、ただ、ギルフォートが来ると笑顔だけを向けた。
「何か困っている事はないか? 何か欲しい物は?」
ギルが訊いても弟は微かに笑ってこう言った。
「ないよ。ここの人達は、みんな親切にしてくれるから……」
無理をしているのだとわかった。でも、どうにもしてやれそうにない。ギルもまた子供なのだ。弟を引き取り、生計を支えて行く事は不可能だった。
「ねえ、お兄ちゃん、大きいのと小さいのはどっちが強い?」
ある時、粘土遊びをしていたミヒャエルが訊いた。手には丸めた少し大きな玉とそれより少し小さい玉を持っている。
「普通なら、大きい方が強いんじゃないかな?」
「じゃ、1つと2つのとでは?」
ともう一つの玉をはじめに持っていた小さい玉の横に並べる。
「うーん。それは、やっぱり数が多い方かな?」
当たり前に答えた。が、次の瞬間。ミヒャエルは小さい2つの玉をギュッと掴んで潰すと、ぐちゃぐちゃと練って1つにしてしまった。それは見た目にはごつごつとした歪な玉だったが、最初にあった1つより少し大きくなった。
「ねえ、見て! 2つ混ぜたらこっちの方が大きい玉になったよ。それじゃ、今は最初に強かった1つより、小さい2つの方が強くなったんだね。それで、最初に大きかった1つが小さくなって、最初は小さかった2つが大きくなって……あれ? 何だかよくわからなくなっちゃった」
と言って笑う。
「そうだね。でも、きっと人間も同じだ。一人より二人の方がずっと強くいられる」
「うん。そうだね。お兄ちゃん。ぼくね、もっとうんと強くなりたいんだ。強くなって、そして……ぼくは空を飛びたいんだ」
――空を……?
ノックの音がして誰かが病室に入って来た。
「やあ。お人形ちゃんの様子はどうだい?」
ブライアンだった。
「また、鎮静剤を使ったんだ。少し前にやっと落ち着いて寝たところさ」
「そうか。可哀想にな」
と言ってつくづくとベッドで眠っている彼を見る。
「今日はいい物を持って来てやったんだぜ。これを見たら、少し元気になるんじゃないかな?」
と懐から紙を取り出す。
「何だ?」
「ジャン! 『機関車ジョミー』の特別イベント乗車券さ」
とピラピラ振って見せる。
「ありがとう。きっと喜ぶだろう」
とギルは言った。が、その枚数を見て怪訝に言った。
「どうして4枚もあるんだ?」
「そりゃ、パパとママと坊や……それに」
ブライアンは自分と、たった今花瓶の水を変えて戻って来たエスタレーゼ、それに眠っているルビーを示し、
「ここにいる爺やの分に決まってるだろ?」
と最後にギルを見て言った。
「どうしておれが爺やなんだ?」
「いつも仏頂面して愛想がないしさ、何かこう若さがないっつーか……ジジ臭いじゃん」
とエスタレーゼに同意を求める。が、エスタレーゼはただ微笑しただけで花瓶をベッドの脇のテーブルに置いた。
「悪かったな。愛想がなくて……。いやなら、別に無理に付き合わなくてもいいんだぜ」
「ほらほら、そういうところがつれないっての。そんなだから恋人出来ないんだぜ」
「そういうおまえはいるのか?」
「おれは、ほら、その気になればいつだって……。ねえ、君もそう思わないかい? エスタレーゼ」
などと渋い声で迫る。
「彼女に色目を使うのはよせ!」
ギルが睨む。
「何だよ? 別におまえのもんじゃないだろ?」
「下世話な言い方をするな! 彼女はおまえとは違うんだ」
「へえ。どのように違うんですかね?」
「彼女はジェラードの娘なんだ。迂闊に手を出せば酷い目に合うぞ」
「やれやれ」
ブライアンは首を竦める。
「大変なお目付け役だな。君もなかなか苦労するだろ? エスタレーゼちゃん」
「いえ、わたしは……」
俯く彼女。その時、ルビーが目を覚ましてこちらを見た。
「ああ……。ブライアン、来てたの?」
「やあ。少しは元気になったみたいだな。この間よりは大分顔色もいいし……」
そう笑い掛ける彼をギルフォートは咎めるようにベッドから引き離した。
「見ろ、おまえが騒がしいから目を覚ましちまったじゃないか」
「おいおい。またかよ。ギルってホントにやきもち焼きなんだから……。一体、ルビーとエスタレーゼ、どっちが本命なの?」
と迫る。
「黙れ! 部屋から叩き出すぞ!」
怒鳴られてブライアンは愉快そうに笑い出す。
「ハハハ。やっと元通りのギルに戻ったみたいだな」
「元通りって?」
ルビーが訊いた。
「一時は大変だったんだぜ。君の事が心配で夜も眠れませんって、ポロポロ泣いてばかりだったんだからさ。それはもう、オロオロしちゃってとても見ちゃあいられなかった程さ。まるで恋人同士みたいに……」
「出て行け!」
ギルがその襟首を掴んでドアの外に引きずろうとする。
「何も照れなくてもいいだろ? みんなホントの事なんだからさ。人間もっと素直になんなきゃ……」
などと言っているブライアンを強引に外へ追い出してしまう。
「あーあ。わかったよ。おれがいるとまずいみたいだから、今日のところは退散しますよ。それじゃ、ルビー、またな」
と言ってドアを閉めた。そんなやり取りを見てエスタレーゼはクスクスと笑っていたし、ギルフォートはムスッとした顔でベッドサイドに来た。見ると、ルビーも微笑している。
「どうだ? 気分は……。まだ、痛むのか?」
「ううん。大分楽だよ。でも、本当なの? 僕のために泣いてくれたって?」
「……」
「何度目かに目を覚ました時、本当にギルが泣いていると思ったんだけど、ずっと夢かもしれないって思ってたの。だって、僕、ギルが泣いたの見た事ないし、ギルは強いから泣かないと思ってたんだ。だから、きっとあれは夢なんだって……。でも、本当だったの?」
「……夢だよ」
彼はじっとルビーを通り越した壁に映った点滴の影を見て言った。ルビーは僅かにガッカリしたような顔をしたが、すぐに微笑して言った。
「そうだよね。ギルが泣く筈ないよね」
そんな二人のやり取りを、エスタレーゼはただじっと花の陰から見つめていた。
「ギルフォート、お花はここでいいかしら?」
エスタレーゼがいっぱいのバラを抱えて振り向いた。
「ああ。ありがとう」
彼も真新しいテーブルクロスを広げてパサリと掛けた。
あれから更に数週間が過ぎていた。その間にルビーは順調に回復し、今日の午後には退院できる運びになっていた。病院にはブライアンが迎えに行ってくれている。その間に、ギルとエスタレーゼは新しく借りたこの家を過ごしやすくするためにいろいろ準備をしていたのだ。
「きっとルビーが喜ぶわね」
部屋の中は明るい雰囲気で何もかもが新しく、統一感がよく取れていた。
「それじゃ、あとはここに掃除機をかければおしまいね」
彼女がそれを持ち出そうとすると、ギルフォートが止めた。
「とんでもない。お嬢さんにそんな事させられませんよ。おれがやりますから……」
と彼女の手からホースを取り上げる。
「あら、いいのよ。わたしだって自分のお部屋の掃除くらいしてるのよ」
そう言って取り返そうとする。
「いけません。ジェラードが知ったら……」
慌てて掴もうとするその手に、エスタレーゼは自分の手を重ねて言った。
「あなたもなのね、ギル……。どうして? ジェラードの娘だからってわたしを特別扱いするのはやめて」
キッと睨んで彼女は言った。
「特別?」
「そうよ! みんな、わたしを特別扱いして、誰もわたしには本当の事を言ってくれないの。ルビーだけだわ。わたしを対等に見てくれるのは……。いつも、ルビーだけ……」
寂しそうに彼女が呟く。数秒の沈黙の後、口を開いたのはギルだった。
「ならば、率直に訊きたいんだが……。今回の事、ジェラードはどう思ってるのかな? ジェラードは、ルビーの事を特別に思っていたんじゃないのか? だから、いつも手元に置いて可愛がっていた……。なのに、今回だけは対応が冷たい。どういう事だ? 二人の間に何があった?」
「何も……ないと言えば嘘になるわね」
エスタレーゼは僅かにため息を漏らす。
「あの時、ルビーはカール クリンゲルの事でかなり落ち込んでいたわ。彼が死んだのは全て自分の責任だって……。それで、恐らく他の事なんか、まるで頭に入らなくなっていたのね。でも、そんな時、お父様が呼びに来たのよ。仕事だって……。それをルビーが拒んで、それで……。お父様を突き飛ばしたの。それから、彼は倒れたお父様に馬乗りになって手を……ちょっと異様な感じだったわ」
「それで? ルビーはどうした?」
「すぐに我に返って……。それから、泣いて、お父様に謝ったの。お父様は許すと言ったけど、それから、何となくしっくり行ってないみたい……」
「そうか……」
「でも、あれは、お父様にも問題があるのよ。ルビーの気持ちも考えずに、『おまえは私も殺すつもりか? 実の父親を殺したように……』なんて酷い事言ったんですもの。あれじゃ、ルビーが可哀想だったわ。だって、あんな風に言われたら、あの子……」
「エスタレーゼ……君はやさしいんだね」
ギルはなるべく穏やかな表情を作って言った。
「あなたの方こそやさしくてよ、ギル……。わたし、あなたの事を誤解していたかもしれない……」
「誤解?」
「ええ。だって、あなた、いつも厳しい顔して、口調も強いし、ルビーの事を叱ってばかりいたから……。ずっと怖い人だと思ってた……」
「怖い……か」
彼は苦笑した。
「でも、今回の事でわかったわ。あなたは、誰よりもルビーの事を大切に思ってるんだって……」
「君もブライアンの言葉に毒されたのかい?」
「違うわ。本当にそう思うの」
彼は黙って視線を部屋の中を一巡させて言った。
「確かに、奴の事は大切に思っているさ。おれが育てた作品だからな。他の誰にも壊されたくない」
「作品? 違うわ。ルビーは人間よ。そうでしょう?」
「ああ……」
と頷き、心の中で続きを思う。
(人間以上の人間さ)
そして、彼はまた視線を逸らす。
「あなた程深く彼の事を理解している人はいないと思うの。思えば、まるで計算されているみたいに、何もかもルビーに合ったカリキュラムだったわ。だから、あの子はここまで成長する事が出来た。それも、みんな、あなたのおかげなのよ。でも、どうして、そんな事が出来るの? わたしだってあの子の扱いには苦労してる。だって、あの子は普通の子と随分違うんだもの」
「だろうな」
ギルフォートは頷いた。それから、ふと開いた窓の遠い空を見つめて言った。
「弟がいたんだ……」
「弟?」
「ああ……」
彼は頷く。
「子供の頃に亡くなったんだが……。ルビーと同じように発達障害のある子供だった」
「そうだったの……」
エスタレーゼは、ふと彼が見つめる空を見た。
「文字の認識、数の認識が難しく、手足も不自由だった……。その点、ルビーの方がまだ軽い方かな? でも、二人は行動や思考がよく似ているんだ。おれは、そういう奴の扱いに慣れているから……。それに、そういう者は、やり方次第で劇的に伸びる要素を持っている。だから、おれは、その可能性に賭けたのさ。世間の奴らは彼らの事を知ろうともせず、みくびり、侮っている。彼らが持つ潜在的な力を信じず……。でも、そういう者は、こちらがほんの少しサポートしてやれば、普通の人間以上の能力を発揮する事だって可能なんだ。なのに……!」
――そんな下等な人間など必要ないのだ。抹殺してしまえ!
ヘビー ダックの言葉が脳裏に浮かぶ。
――そんな連中なんか何の役にも立たない厄介者の存在じゃないか。社会の邪魔だ。みんな、消えちゃえばいいんだ!
昔、ギムナジウムの上級生が言った心ない言葉……。
――ぼく、強くなりたいんだよ、お兄ちゃん
――僕はもう強くなったよ。そうでしょう? ギル
(ああ……)
微笑み掛ける二人の天使に彼は応えた。
「そうね。少し時間が掛かってもちゃんとパソコンだって覚えてくれたし……」
と彼女は言って、ハッと何かを思い出したように言った。
「そうだ。新しいパソコンに、またファイルと読み上げソフトを組み込んでおいてあげないと……。お父様はあまりいい顔してくれないのだけど、あの子にはパソコンが必要なんだと思う」
「そうだね。君のおかげで、ルビーはちゃんとインターネットで買い物をしてたよ」
「ホントに? ロンドンに来る直前に教えたのよ。でも、なかなか覚えてくれなくて……」
「卵を555個も注文してたけどね」
と笑う。
「まあ!」
エスタレーゼも笑う。
「でも、わからないの。これがルビーにとって本当によい事なのか……。お父様はどうして反対するのかしら?」
「君は正しいよ」
「本当?」
ギルは頷く。エスタレーゼもホッとしたように微笑む。
「君は、お父さんについてもなかなか批判的なんだね」
「父親だからって必ずしも正しいとは限らないわ。疑問に思ったら正直にぶつけるの」
「気に入ったよ。その勝ち気な瞳が……」
「ギル……」
「もし、君がジェラードの娘でなかったら……」
「ダメ。それは言わない約束でしょ?」
「ああ」
陽射しの中で微笑する彼は、何処から見ても真面目な好青年に見えた。
「ギル……」
エスタレーゼが何か言おうとした時、突然、賑やかな連中が入って来た。
「連れて来たぜ。ほうら、ここが新しい君の家だよ」
ブライアンが言うと後から入って来たルビーがわあ! っと歓声を上げた。
「ピアノがある!」
彼はギルとエスタレーゼを通り越してピアノの前に走って行った。
「エレーゼが買ってくれたの?」
そう言ってうれしそうに笑うルビーに彼女は首を横に振った。
「いいえ。ギルよ」
「ありがとう」
キラキラと微笑むルビー。しかし、ギルフォートは軽く頷いただけで、すぐに視線を逸らしてブライアンに言った。
「すまなかったな」
「どういたしまして」
と気取って言った後で、ギルの耳に囁いた。
「ちょっとさ、早く着き過ぎちゃったかな? おれ達。その、いい感じだったんだろ? 彼女と……」
「そんな事はない。だが、掃除機をかけ損ねた」
「掃除? でも、充分きれいになってるじゃないか」
「ここだけだから、ちょっとキッチンの方へでも行っててくれないか?」
ギルが言うと、
「そうね。わたし、お茶を入れますわ」
とエスタレーゼも言った。
「僕はココアがいいな」
ルビーもうれしそうに言った。
「ここは、前の家よりずっといいね。壁も絨毯もあんな変な色じゃなくて……」
とルビーはご機嫌だった。
「そうだな」
ギルも言って微笑する。白い花の透かし絵が入った壁紙に暖色を貴重としたペルシャ絨毯。あたたかい雰囲気の木彫りの調度品。大理石の花瓶……。そして、何より、ピアノがあった。ルビーは陽気に歌いながらキッチンへ向かう。
「ハンプティダンプティ、陽気な卵、溶けちゃった氷、食べちゃったお菓子、壊れちゃったオモチャ達……決して元には戻らない」
それは、元の歌とは歌詞もメロディーも全く違っていたのだが、ルビーは楽しそうだった。彼は繰り返し歌う。
「ハンプティダンプティ、割れちゃった卵、死んじゃったカエル、みんな元には戻らない」
そう歌いながら、彼は卵を放っては掴むのを繰り返していた。卵……。それは、ルビーがしっかりと握っていたあの卵だった。白木で出来ていたその卵は彼の流した血の分だけ染まってしまい、消毒しただけではもう落とせなくなっていたが、ルビーはそれを放そうとしなかったので、そのまま持たせていたのだ。
そして、深夜。エスタレーゼはホテルに戻り、ルビーは2階のベッドで眠っていた。ギルフォートは階段を降りて来ると一階のリビングに来た。そこには、黒いアタッシュケースを持ったブライアンが待っていた。
「例の物は?」
「ここに」
ブライアンはケースを開けて中を見せる。
「最新のブラスターとオートマシンガンだ」
ギルフォートは静かにそれを取り出すとサッと点検し、丁寧に手触りを確かめる。艶を消した黒いフォルムは少々ごついが、グリップはよく手に馴染んだ。
「本当に殺る気なのか?」
ブライアンが訊く。
「ああ」
スコープを覗きながら彼が応える。
「相手はさ、その……超能力者なんだろ?」
「ああ」
「命が幾つあっても足りないんじゃないか?」
深刻な顔でブライアンが言う。
「そうかもしれない……。だが、奴だけは許せないんだ。薄汚いアヒル野郎め! こいつの炎で焼き鳥にしてくれる」
「ハハハ。奴さん炭になっちまうぜ」
「構わないさ。あんな腹黒い奴、食えたもんじゃないからな。おれの大事な人形を社会のゴミ扱いしやがったんだ。その上、おれの許可なく殺そうとした。理由は充分過ぎるだろう」
「おれの……ね」
ブライアンはため息をついた。
「それで、もちろんルビーも連れて行くんだろうな?」
「いや。置いて行く」
「何故?」
「巻き込みたくないんだ」
「もう充分巻き込んでるだろ? それに、おまえが避けたくても奴は放っておかないだろうな。奴の狙いの一つがルビーである以上……。それに、ルビーがいてくれた方がおまえにとっても都合がいいんじゃないか?」
と言うブライアンをキッと睨みつけてギルは言った。
「簡単に言うなよ。超能力は精神力だ。気を集約させてエネルギーに変える。今のルビーにそれを望むのは酷だろう。それでなくても、ここのところずっと情緒不安定で落ち着かなかったんだ。そこに今回の事件だ。体力的にもかなりのダメージを負っている。その上、超能力を使ったりしたら……。それに、途中で使えなくなるような事態だって起こり得る。超能力は万能じゃない。それに頼り過ぎるのは危険だ」
「わかったよ」
ブライアンは納得した。
「それにしても、情報を集めなきゃな」
「そう。それに問題は学生だ。どうやってあれだけの人数の学生を洗脳する事が出来たんだろう?」
ギルフォートの問いにブライアンは言った。
「何か強力な洗脳電波を流してるとかさ」
「どちらにせよ、あの学生達を何とかしておかないと厄介そうだ」
「ああ。そうだな。調べてみるよ。だから、おまえも早まった事だけはするなよ」
「どういう意味だ?」
「事は慎重且つ大胆に、だろ? 今回は特に相手があの『レッド ウルフ』の幹部の一人だ。それに、能力者を相手にするとなったら、綿密に計画した方がいい」
「ああ……」
「何だ? 不満そうだな。これでも心配してやってるんだぜ」
「感謝してるよ。ちょっと考えていたんだ。遠距離からも効かない相手に気づかれないで殺る方法を……」
「遠距離からもって、おまえ、まさか……?」
「ああ。既に試みたんだ。奴の視界からは完全に死角になっていて、しかもスコープで狙える最大の距離から……。常人なら絶対に気づかれない距離だった。なのに、奴は避けやがったんだ。しかも、2発目は堂々とこちらを向いてシールドして見せる程のパフォーマンス付きで……」
「何時だ?」
「あの日の夜に……」
「呆れるな。坊やが死にかけてたっていうのに……」
「おれが付いていようがいまいが、死ぬ時は死ぬ」
「感情に走ると危険だぜ」
「承知の上さ。だが、あんな所でじっとルビーの顔を見ているなんて耐えられなかったんだ」
「ギル……」
白い照明が冷ややかに彼の横顔とその手に握られた大型の火器を照らす。
「フッ。おれも甘いな。きっと長生きは出来そうにない……」
そう言ってギルフォートは視線を逸らす。そんな彼の手に自分の手を重ねてブライアンが言った。
「ギル……。そう言うなよ。おれは、うんと長生きして頑固なじじいになるつもりなんだからさ。おまえも付き合えよ」
「運がよければな」
その夜、二人は明け方近くまで『ヘビー ダック』への復讐について計画を話し合った。
誰もが眠る深夜の時間……。からくり時計が時間を紡ぐ。休む事を知らない時計の中の小さいピエロの人形が……。センサーで消された鳥の鳴き声は、ヒクヒクと2度体を震わせて止まる。
その夜、ルビーは眠ってなどいなかった。
「……その時、お人形はアヒルのお腹の中で目を覚ましました」
彼はベッドの淵に座ってじっと暗闇を見つめたまま、膝に置いた絵本のページをめくる。
「そこは、赤くて暗くてとても不気味な空間でした。熱くて冷たくて息が止まりそうな気がして、お人形は手を伸ばしました」
そう言うと、ルビーは実際に両手を闇に突き出した。しかし、その手に触れるものはなく、何も感じないまま、彼はしばらくそうしていた。が、やがて、その手を引き寄せるとそっと手のひらを返していやな顔をした。その手にまとわり付いて来る何かを払おうと、彼は微かに身を震わせる。それから、もう片方の手でそっとページをめくる。しかし、その視線は闇の中……。それでも彼は言葉を続ける。
「すると、その手に、そして頭にもネバネバした液体がかかりました。それは、何でも溶かしてしまう溶解液でした……」
そこでまた、ルビーはページをめくる。しかし、それは逆さまで、場面は美しい花畑の絵だった。ルビーは正面の闇だけを見て物語を読んだ。
「大変です。このままでは体が溶かされてしまいます。お人形は慌ててそこから出してと叫びました。けれど、誰も助けてくれません……」
次のページには、草原で遊ぶ羊達の群れだ。
「熱いよ。助けて……。恐ろしい液体がどんどん積もり、このままでは本当に体が溶けてしまいます。もう、おしまいだと人形は思いました。ところが、その時、神様が現れて、復活の卵をくださったのです」
最後のページは光だった。輝く太陽の下に集う森の動物達……。みんな、うれしそうに笑っている。ルビーも笑った。
「復活だ! お人形は遂に殻を突き破ったのです。バラバラになったアヒルとその羽に赤い模様が出来ました。そして、その羽をお人形は帽子の羽飾りにしました。それから、アヒルの肉を食べ、卵を食べて、ちゃんと人間になりました。赤い血と黒い血の通う、小さな人間になりました」
言うとルビーは立ち上がった。その拍子に落ちた絵本を拾いもせず、彼は窓際に行くと呟いた。
「けれど、誰にもわかりません。人間になったお人形が一体何処に行ったのか? それで、本当に幸せになれたのか? 僕自身にもわかりません……」
ルビーは手の中の卵を握ったまま、半分欠けた月の光と闇の中の風をじっと見つめていた。
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